第8章:麗
ラフの正体
指定どおりの夕方六時、夢飼いで、あたしはおにいちゃんと合流した。おにいちゃんは人払いをするみたいに、店員に素早く告げた。
「紅茶二つ、お願いします」
そして、タブレットPCを立ち上げた。あたしの目の前で『
「ニコル……」
おにいちゃんが登録しているアバターは、銀色のおかっぱに緑色の大きな目の、魔術師の男の子。ざっと流して見せてくれたゲームデータも、まぎれもなく、一緒にホヌアを旅した記録だった。
「黙っててごめんね」
低い声で、おにいちゃんは言った。
おにいちゃんは謝らなくてもいい。
「ホッとしたわ」
「麗?」
「たくさんのことをしゃべった相手がおにいちゃんでよかった。現実の世界で、ちゃんと向き合って話さなきゃ、いけなかったけど。そうすることが、できなくて……」
「うん。麗の口から聞かせてもらいたかった。だけど、シャリンが話してくれてよかったよ」
いつでも聞くからって言ってくれた。おにいちゃんも、ニコルも。同じように、優しくてお人好しな笑顔で。
紅茶が運ばれてくる。少しの間、あたしとおにいちゃんは口をつぐむ。
「ねえ、おにいちゃん。ラフは誰なの?」
あたしは質問する。答えの予測はついてる。予測が外れてほしいと思ってる。でも、きっと外れてはいない。
おにいちゃんは静かに答えた。
「
やっぱりそうだった。ひたひたと、絶望のようなものがあたしの胸に満ちていく。
「おにいちゃんの、利用者さん」
「そうだよ」
「介助が必要な人ってことね。夜の間、人工呼吸器をつけてる人」
「朝綺は、電動車いすでの生活だよ。初めて会ったころは、もっと体の自由が利いた。進行性の病気なんだ」
「進行性って? 症状がどんどん進んでしまうの? 治療できないの?」
おにいちゃんは目を伏せた。
「今の医療技術では、まだ、できない」
「どうして?」
「麗は
「知らない」
おにいちゃんは、タブレットPCのツールを切り替えた。
ディスプレイに二枚の筋電図が表示される。あたしは、生物学や医学はあまり履修してない。でも、その「絵」は常識レベルの教養の一つとしてインプットされてた。
「紡錘形をした筋繊維。骨格筋ね」
一枚の図は、正常な骨格筋。教科書で見たとおりの筋電図。
もう一枚は、糸みたいにやせ細った骨格筋。繊維の一本一本が細いだけじゃなくて、その数が極端に少ないせいで、スカスカしている。
「こっちの、異常なほうの図が朝綺だよ。筋ジストロフィーの症状が、これなんだ。年齢を重ねるにつれて、どんどん筋繊維が壊れていく」
「でも、筋繊維が壊れること自体は、生物として当たり前に起こるわ。筋肉痛って、そうでしょ?」
「うん。当然の現象だよ。通常、筋肉痛はほっとけば痛みが引いて、傷付いた筋肉が修復される結果、前より大きく成長するよね。でも、朝綺には、壊れた筋繊維を補修する力がない」
「補修できない?」
「遺伝子がそうなってるんだ。筋繊維の補修を命令するはずの遺伝子が、異常を起こしてる。生まれつきの疾患でね」
おにいちゃんは顔色を悪くしたまま、淡々とした口調で説明する。親友だという朝綺の、致命的な病気について。
「おにいちゃん、この病気、進行性って言ったわよね?」
「そうだよ。筋萎縮と筋力低下が徐々に進む。どこから症状が出始めるかは人によるんだけど、朝綺は胴体に近い部分から先端に向けて、順に動かせなくなってきてる」
おにいちゃんが自分自身の体を指差す。
最初に胴体。次に肩や二の腕、太もも。肘、膝。手首、ふくらはぎや足首。そして、つま先、指先。
「筋肉がどんどん衰えて、修復されなくて、動けなくなるの?」
「首から下だけじゃなくて、顔もね。表情筋や舌の筋肉。笑えなくなる。しゃべれなくなる。食べられなくなる」
「うそ……」
「最終的には肺と心臓も動かなくなる。呼吸も鼓動もできなくなって、死に至る。筋ジストロフィーはそんな病気だ」
残酷すぎる。
おにいちゃんはタブレットPCを操作した。骨格筋の図が消える。
海へと沈む夕日の写真がデスクトップ画像だった。ううん、海から昇る朝日かもしれない。おにいちゃんは橙色の海の写真から目を上げない。
「朝綺はもう、肘より上が動かない。膝より上も動かない。四つん這いすらできなくなった。大学時代に一緒にゲームを作ってたころは、自力で車いすを転がしてた。そうやって、よくこの夢飼いにも来てたんだ」
「おにいちゃんの大学時代って、三年から七年前でしょ? そのころは動けてて、今は動けない? そんな速さで症状が進むの?」
「筋ジスの患者さんの平均寿命は二十代っていわれてるよ」
「やめてよ……」
イヤだ。そんな簡単にラフがこの世からいなくなっちゃうなんて。
おにいちゃんは、冷めた紅茶を口に運んだ。強すぎるお酒でも飲んだみたいに、眉間にしわを寄せる。
「朝綺はゲーム作りの最高のパートナーだった。ストーリーは二人でアイディアを出し合って考える。あいつはプログラミングとBGMが得意で、ぼくはCGとキャストを担当。講義のレポートはそっちのけで、遅くまでボックスにこもってた。毎日ワクワクしてた」
おにいちゃんが大学時代の思い出話をするのは珍しい。朝綺って名前が出てきたのは初めてだ。
きっと、話したくても話せなかったんだ。楽しい記憶は必ず、親友の不治の病と隣り合わせだから。
おにいちゃんはひとつひとつの言葉を噛みしめながら、ニコルとは違う低い声で続けた。
「いつの間にか、あいつを手伝うべき場面が増えてた。あいつは強がりで意地っ張りでプライドが高くて、人の手を借りるのが苦手なのにさ、ぼく相手なら、わがままを言うんだ。だから、ぼくは朝綺のヘルパーになった。天職だよ。あいつといると、楽しいからさ」
あたしは右手の親指に噛みつく。血の味がした。
「どうして?」
「ん? 何が?」
「どうして、その病気、治せないの?」
メカニズムがわかってるのに対策がないなんて、悔しすぎる。なぜそれが不可能なのか、問いを解く鍵はないのか、あたしは知りたい。
おにいちゃんが顔を上げる。メガネの奥の目が潤んでる。
「筋ジストロフィーを完全に治すには、二種類の治療が必要なんだ。一つが、破壊された骨格筋の細胞を、正常に再生する治療。もう一つが、筋繊維の修復を司令する遺伝子を、補完する治療」
「骨格筋の再生と、遺伝子の補完」
「筋肉を治す薬はすでにある。でも、筋肉の修復だけだと、いたちごっこだ。修復のレベルにも個人差があるし、部位ごとの差まであって、効果的な延命法ともいいがたい。遺伝子のレベルから徹底的に治療しないといけない」
「今の医療技術で、できないことなの?」
「もう一歩のところまで来てるんだよ。麗、この間ここで話したこと、覚えてる? ぼくが大学で研究してみたかったテーマの話」
あたしはうなずいた。
「覚えてるわ。万能細胞の一種であるジャマナカ細胞のこと。ジャマナカ細胞なら、どんな器官にも分化できる。そっか、骨格筋細胞にもなれるんだ」
「そう。それだけじゃない。ジャマナカ細胞を使えば、遺伝子治療が可能なんだ。遺伝子っていうのは、人ひとりずつ固有に持っている『命の設計図』みたいなものだ。ぼくの細胞には、体のどこから取った細胞であっても、ぼくだけの設計図が必ず入っている」
「命の設計図。ラフは病気だから、設計図におかしいところがある。ジャマナカ細胞を使ったら、設計図を直せるの? それが遺伝子治療?」
「患者さん由来の細胞からジャマナカ細胞を培養して、遺伝子の欠陥を補った上で、患者さんの体に戻す。拒絶反応が起こらない、オーダーメイドの遺伝子治療をするんだ。多くの難病は遺伝子の異常が原因だから、その異常を自力で修正できるようになれば……」
「不治の病が、オーダーメイドの遺伝子治療を使えば、治せる病になるのね。すごい」
おにいちゃんがうつむいた。透明な涙が一粒、流れ落ちた。
「憧れてたんだよ、不治の病を治す医療に。高校時代、もっと勉強すればよかったな。響告大の医学部に受かるくらい、必死でやればよかった。そしたら、朝綺の病気を治す手助けができたかもしれないのに」
「おにいちゃん……」
「ごめん、麗。でも、悔しいんだ。どうしても、悔しくて仕方ないんだ。ぼくには、朝綺を本当の意味で助けることができない。生活のサポートをしたり、一緒にゲームをしたり、そんな便利屋にしか、なれない」
ラフとニコルが補い合って戦ってた姿を思い出す。
まっすぐに突っ込んでいくラフ。後ろから完璧にサポートするニコル。二人の関係は、現実でもピアズでも、同じだったんだ。
「あたしも悔しい」
おにいちゃんの気持ち、知らなかった。ラフの本当の願い、気付いてなかった。
今、ようやくわかった。コマンドを受け付けなくなってしまうラフの呪いは、朝綺のどうしようもない病気を意味してたんだ。
あたしは両手の指をギュッと組み合わせた。傷付ききった右手の親指がズキズキする。痛い。こんな小さなケガなのに、現実だったら、こんなに痛い。
「おにいちゃん」
「ん?」
「あたし、ラフに……飛路朝綺って人に、会ってみたい」
おにいちゃんは、涙でキラキラする目を見開いた。その目が優しく微笑む。
「そう言ってくれると信じてた。ありがとう。きっとあいつ、麗に会えたら喜ぶよ」
***
それからあたしは、二日、待たされた。
一日目は、月に一度の定期検診だと言われた。二日目は、髪を切りに行くのだと言われた。
三日目の早朝、あたしはおにいちゃんに連れられて、飛路朝綺の家へ行った。
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