悪について
くすくすと、万知は笑い続けている。あたしがにらんだら、万知は唐突なことを言い出した。
「わたしが通っていたエリートアカデミーはね、風坂の母校よりもケアが行き届いていたよ」
「え?」
「わたしも、
「と、特別って……」
「十歳で大学卒業と同じレベルの認定を受けた。それから、大学院の研究機関に籍を置いて、ついこの間、二つ目の博士号を取得したところ。分野は生物系と医学系の中間って感じかな。研究が一段落して、ここに編入してきたんだ」
ぐらり、と、足場が揺れたような気分だった。
あたし以外の
ううん、関係ない。あたしは、あたしだ。
「……なんで、高校なんかに通おうと思ったの?」
「女子高生の制服を着てみたかったから。誰かさんと同じだよ。まあ、わたしの経歴なんて、どうでもいいことだね。テーマを変えよう」
「テーマ?」
万知は長い指をひらめかせた。指をナイフに見立てて、自分の首を掻き切る仕草をする。今朝のネコはみんなそうやって殺されていた。
「ねえ、風坂。事件の真相を、どう考える?」
「……さあ?」
「パフォーマンスかな。そう思わない?」
「そう、ね」
「何を表現するためのパフォーマンスなんだろう?」
楽しそうな万知の様子が、あたしには理解できない。据わりが悪くて、適当に答える。
「あんたが前に言ってた、悪ってやつじゃないの?」
狂気、欲望、衝動。そういう後ろ暗いモノのことを、万知は悪と呼んだ。人間はみんな悪を内包しているはずだ、と。
「風坂のその頭脳が弾き出す推論は、それだけ?」
万知が大げさに両腕を広げた。
頭に血が上るのがわかる。あたしは息を吸って吐いた。三つ数える。喉と舌が動くことを確かめる。大丈夫。これは議論だ。あたしはしゃべれる。
「推論も何もないわよ。倫理なんて、直感でしょ。ネコのあんな姿を見て平然としてられる人間がいるなら、そいつはどうかしてるわ」
「なんだ、逆にそっちを論じるんだ。拍子抜けだな」
「逆にそっち?」
万知が長身をかがめてあたしに顔を寄せた。笑顔。花の匂い。
「論点がズレた、と自分では感じない?」
「ズレてないわよ」
「あのパフォーマンスを為した者の側を論じていたのではないの? なぜ、為されたネコの側に力点を置く?」
あたしは首を左右に振った。
論点は、ズレてなんかない。あの哀れなネコたちを見たとき、最初に感じたのは痛ましさだ。理屈じゃない。本能や直感がけたたましい警告を発した。
あんなことは、為されてはならない。為す者の心理なんて、考えちゃいけない。
「あんたの論点は普通じゃないわ」
「当然だよ。普通なわけがない。普通の次元で議論して、なんになるの? わたしと風坂なら、もっと高度でおもしろい議論ができるはずなんだ。風坂、わたしは真理を語り合える仲間がほしい」
あたしは目をそらした。
万知には、ついていけない。雄弁さにも、神経の太さにも。
胸が、ちりっとした。劣等感みたいなものが、あたしの中にある。そんなバカな。今、あたしは勝負なんかしてない。あたしは負けてない。
「あたし、ディスカッションもディベートも嫌いなの。トレーニングは受けたけど、楽しくない」
あたしの拒絶を、万知はあっさりと受け入れた。
「そう。悪かった。じゃあ、別のことをしよう」
再び、不意に触れられる。万知の長い指があたしの下あごをつまんだ。
「な、なによ?」
「ね、キスしていい?」
「や……」
「静世センセイってさ、わたしの言いなりなんだ。ちょっとおもしろみに欠けるよね。風坂は、もっと抵抗してくれるでしょ?」
全身に悪寒が走った。声が出ない。万知の手を払いのける。
あたしをそんな目で見ないで!
女だとか男だとか、きっと関係ない。ただ、性の対象として見られることが、汚れてしまうことのようで、イヤで。
あたしはカバンをひっつかんで、天球室を飛び出した。腹が立ってたまらない。胃がひっくり返りそう。
万知に一瞬でも気を許した自分を、呪いたくなる。あたしにキスする? なにさまのつもり? あたしのキスは。
ご褒美のキスはいつでも受け付けるよ。
あいつとの約束。
違うのに。あたしのキスじゃないのに。シャリンのキスなのに。
あいつだってシャリンに変なことを言うし、いやらしいところがあるし、バカだし、むかつくし。
でも、あいつと万知では全然違う。あたしは、あいつなら怖くない。
わけ、わかんない。
螺旋階段を駆け下りて、中庭に続く扉に突進した。手のひらをプレートにかざす。おかしい。掌紋認識の電子キーが解除されない。
背後で声がした。
「風坂さん、中庭には出ないでと言ったはずよ。その扉は主電源を落としてあるわ」
あたしは振り返った。柱の陰から、静世が出てきた。
「暇そうね」
「ええ、今日は授業がないのよ。例のネコの件、騒ぎになっているの。黒曜館にいてはわからないでしょうけど。一瞬で校内に噂が広まって、大変なのよ」
「そこどいて」
「どこへ行くの?」
「関係ないでしょ」
「わたしは、風坂さんの動向を見ておくように指示されているの」
「家に帰る。どいて」
静世は神経質そうにメガネの角度を直した。
「葉鳴さんは上にいるのね? 二人で何を話していたの?」
「別に」
静世は目を細めた。
「葉鳴さんがあなたを心配していたわ。あなたは孤独すぎる、と。確かにそうね」
「孤独?」
「ストレスがたまっているでしょう?
「……何が、言いたいの?」
「あなたの居室に、首のないぬいぐるみが転がっていたわ。風坂さんは、ナイフを使うのが好きなのかしら? あのぬいぐるみは、今朝のネコのための予行練習だったの?」
あたしは一瞬、めまいがした。急速に頭に血が上ったせいだ。
「あ、あんたは、あた……あたしが、あんな低俗なことを、やったと、い言いたいのっ?」
「そんなことないわよ。
メガネの奥の冷ややかな笑み。圧倒的な敵意。
来ないで。あたしに近寄らないで。
怖い。
静世はゆっくり、あたしのほうへやって来る。あたしは足がすくんでる。
イヤだ。
静世の手があたしの肩に触れようとする。
イヤだ!
寸前で、あたしの体が動いた。あたしは静世の手を振り払った。
「待ちなさい、風坂さん!」
あたしは駆け出した。回廊を走って、廊下を走って、黒鋼の校門を抜けて、広すぎる敷地を抜けて、町の中を走って走って走った。
家に飛び込むまで、足を止めなかった。
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