第8話 冬のピアノの一音


 私は幼稚園の頃からピアノを習っている。

 今も続いている唯一の習い事なの。


 冬の鍵盤は、いつもより冷たくて重い。

 ひとさしゆびでコトンと押してみると、こんなに存在感あったかなって、こんなに一音が響いたかなって驚く。


 今日も空気が冷たい。

 手が凍っていて、はぁーって息を吹きかけてこすってあたためるけど、まだ動かない。


 ストーブの上に手をかざしてから、ゆっくりハノンの教本をはじめる。

 みんな退屈だって言うけど、私は基礎練習がきらいじゃなくて、ていねいに指を動かしていくのを、はじまりの儀式のように大切にしている。


 8分音符から、16分音符へ。

 正確に両手で同じリズムを刻むのは大変だから、メトロノームを使う。

 ずっと夢中になっていると、ねじを巻いてからしばらく経って、少しずつゆっくりになってカチッと傾いて止まってしまう。

 また、立ち上がってねじを巻く。


 付点音符のリズム。タンタ、タンタとスキップのように楽し気だけど、つられてだんだん引きずられていくから難しい。


 本当は、もっと伸び伸びと、ただ心のままに奏でてみたいの。

 でもね、規則をきちんと身につけた時にこそ、枠を超える何かが見えてくるような気もするの。

 そこで初めて、自由な表現ができるのかもしれないから。



 取り組んでいる課題曲は、メンデルスゾーンの「春の歌」

 無言歌集の中の1曲。小鳥のさえずりのような分散した装飾音。


 春の小川のようにやさしいけれど、弾くのはとっても忙しい曲なの。

 右手の後を追いかけるように、左手が一対の鳥が羽ばたくようにつないでいく。

 その音は、軽く、あくまでもやわらかく。


 私はピアノの先生に、まだこういう優し気な曲しかもらえない。

 技術的なことだけじゃなく、きっとふわふわした曲しか似合わないから。

 いつか私もベートーベンの曲を、思い切り情熱的に弾けるようになってみたいな。


 曲って、聴いただけなのと自分で弾くのとでは、印象が変わっていく。

 愛着というのかな、何度も練習していくうちに自分の世界ができていくの。

 心をこめて思いを強くすると、情景が少しずつ輪郭を持ってくるような。


 それが発表会のような1回きりの舞台で表現できてるかわからないけど、毎日の練習の中でさえ、昨日と今日では演奏が変わるような気がして、毎日耳にしてくれる人には、もしかしたら自分と近いものを感じ取ってもらえるかもしれないって思ってしまう。

 人が持つ感情は同じではないのに、どこかでつながっているように。


 最初、なんて地味なんだろうって思ってしまった春の歌。

 でも、この曲の途中で悲しげになるメロディがあって、その箇所を弾いている時、冬が春に恋い焦がれている気がしたんだ。

 まるで春を待つ花のように、いつか音から情景が浮かぶように。



 葉月先生が引っ越してきてから、私は一音一音を更に意識するようになった。

 先生に届けるように弾くようになった。

 先生がそこにいるかどうかはわからなくても、その姿を想って。


 前に言ってくれましたね。

「りっちゃんが弾くピアノの音は落ち着きます。僕の実験と心地良く周波数が合いますね」 


 その日から、私はピアノにもっともっと想いをこめるようになったのです。



 クラシックの練習が終わったあとに、遊びながら弾いてみている、サティのジムノペディ。彼の音楽はまるで詩人のささやきのよう。


 ジムノペディも、春の歌のようにゆっくり流れてる。

 でも、長調なのにどうしてかな。静かで物悲しい。

 飾り立てない独立した音がいつまでも残って響くような余韻がある。


 難しい技術がなくても弾ける曲なのに、なぜこんなに深く心に響くのだろう。

 どうしてこの一音は、泣きたくなるような、せつない音なんだろう。

 同じピアノで弾いていても、ちがうように聴こえる不思議。


 私だけの音。

 それを聴いたら、私が弾いてるってわかるような音。

 この先続けていれば、いつか見つかるのかな。

 ううん、きっと見つけたい。







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