第2話 理科室の匂い


 職員室にいない時、葉月先生はたいてい3階の理科室にいる。

 先生って、ここに逃げ込んでるのかな。他の先生とうまくやってるのかな。なんてね。


 時々、私ここに一人でくるんだ。律とじゃなく、一人で。

 お家の研究室にも遊びに行けるようになったけど、いつも律が一緒だからね、内緒の相談は理科室じゃないとできない。


 ここにやってきて先生とお話すると、私、すぅーっと落ち着くんだ。

 別に、葉月先生って、悩み事に直結するような回答をくれるわけじゃなくて、ぽつりとひとりごとのように言ってくれるだけなんだけど。

 なんとなく心に残って、それを後で思い出すと効いてくるというか。

(こういうの、本質を突くっていうのかなぁ。)


 とにかく、子ども扱いはしないの、先生は。だから、すき。

 あ、私、すきな人は別にいるよ。律とちがって先生に恋してるわけじゃない。



「先生、 理不尽な相手にはどうすればいいの?」

 私は、いきなりそんなことを尋ねてみた。


「そうですね。とことん戦ってもいいんですけど、黙ってしまうのもいい」

 先生なら貫けそうだからいいけど、私はできるかなぁ、と思いながら、実は私もそうしている。いつまでできるかな。


 うちの家業は造り酒屋で、直売できる店も併設している。

 小さい時からずっと両親共に仕事が忙しいから、こんな私のちっぽけな悩みに煩わせてしまうのは悪い気がして、とにかくいつも元気に学校に行くことが、今の自分にできることなんだ。



 葉月先生の目を見てるとね、草色の淡い硝子のようにきれいで、嘘をついたら見透かされてしまいそうな気がするんだ。


「先生が眼鏡をちょっと上げて、前髪を払う時の横顔がすき」

って、律がよく言ってるな。律のこころ奪われるポイントなんだって。


 先生が、細い線の銀縁の眼鏡をすっと上げる仕草。

 律は気付いているだろうか。先生は、右手と左手では上げ方が違うんだよ。


 右手は律が言ってる通り、人差し指と親指でレンズのすぐ横の弦の部分を、くって上げるのね。

 でもね、左手の時は中指一本で、真ん中をキュッて押し上げるんだ。


 考えごとしているのかな。先生が左手で眼鏡の真ん中を押さえたまま、しばらく止まってるよ。



 私は理科室にある実験器具を見るとワクワクしてしまう。

 フラスコや試験管のガラス。アルコールランプの炎。顕微鏡のプレパラート。

 どうして好きなのかなと考えながら、白衣姿の葉月先生を眺めていたら、ふと、うちの杜氏とうじの姿を思い出した。


 日本酒の出来具合を確かめる時の杜氏の真剣な表情と、目の前で液体を測ってる先生が重なってみえた。

 ああ、そうかもしれない。うちの蔵は、まるで実験場みたいなんだ。

 そして、私が育って来たあの家に漂う甘く酔う香りがその結果のようで、通じるものがたくさんあるの。


 理科室は独特な匂いがする。

 私がそう言うと、先生は首を傾げて

「ナフタレンかな。薬くさいですか? 女子は嫌がりそうですね」と苦笑いする。

 先生、私に女子の意見を聞きますか。


 先生がお家から持ってきたコーヒーを、マグカップに移してくれる。

 そこら辺を漂ってる匂いが、ふいに変わる。


 空間ごと、理科室を四角い箱のように切ってから、小さく折りたたんで持ち運びができればな。なんてこと考えてた。







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