第2話 葉月先生の珈琲
先生のお家は、出入り自由なの。
在宅中は玄関のドアも窓も鍵が開いているんだ。
こっそり上がりこむのは、私か、ねこか、りすくらいなものだけど。
いつでも入ってきて自由にしてくださいって、先生は言ってくれるんだもの。
つい本気にして甘えちゃうよ。
奥には先生の研究室があって、まるで理科の実験室みたい。
机の上にはビーカーや試験管、そして、私が大好きな分銅で測る上皿天秤。
ピンセットではさむのが大変な、端っこがめくれた紙みたいな分銅がすき。
薬棚には魔法の調合に使うのかな。試薬瓶がいっぱい並んでいる。
珈琲の香ばしい香りが漂ってくる午后。
ノックをしたら、「どうぞ」と先生の声がするので、そっとドアを開ける。
あ、やっぱり。今日も人体模型と向かい合って、珈琲を飲んでるよ。
「りっちゃんも 飲みますか」
先生は私のためにキッチンに行って、なみなみとミルクパンにみるくを入れて、ちょうどいい温度にあたためてくれる。
先生はお砂糖もミルクも入れずにストレートで。
私はまだこどもなので、ほとんどみるくの10%くらいの濃度の。コーヒーシュガー1個入り、やさしくて甘い「律スペシャル」をいただく。
はじめて珈琲をそのまま一口だけいただいた時、すごくおいしいと思ったんだけど、大人の味にくらくら酔ってしまったの。
目を回している私に先生はびっくりして、急いでみるくを入れてくれたっけ。
*
私はあまり運動が得意じゃないので、手芸部に入ったの。
葉月先生は男の人なのにお裁縫がとーっても上手で、科学部と手芸部の顧問を兼任しているんだ。先生がいたから選んだことは、否定できない。
はじめて手芸部で作ったのは、アクリルカットビーズのプードルだった。正確に言うと、プードルのつもりで作ったピンク色の何か。
一粒が初心者向けで大きくってカクカクしてるけど、手にのせた時のきらきらが、まぶしかったのを覚えている。
その時、葉月先生が作っていたのは、もっと小さなビーズのフルーツ。
糸に透き通った果実の色のビーズを通して止める。
いちご、ぶどう、りんご。おいしそうで、口に入れて、あめみたいになめたくなる。
はい、あげますってもらった時、きゃあって嬉しくて、あとで自分の部屋で、ちゅってしちゃったくらいに、かわいい。
だけど、本来の私はぜんぜん器用じゃなくって、でもね。先生の説明がとても丁寧でやさしいおかげで、手芸が楽しくなってきちゃった。
それにね、私にはちょっと憧れていることがあって、『赤毛のアン』の世界のように、パッチワークで何か作ったり(でも、アンはパッチワークには想像の余地がないって苦手だったけどね)、ラズベリーのレヤーケーキを作ったりしてみたいんだ。
そして、いつか……。自分のウェディングドレスを作るの。
*
先生は、いつのまにか庭に出て、草花と虫たちを観察している。お庭にいる先生は 、いつもよりうきうきしてみえる。
ここは、虫たちにとっても、まるで楽園なのだろうな。葉月先生という庇護のもと、自由に動き回って遊べる場所。
葉っぱの上をのたのた動いている黄緑色のいも虫くんを見て、先生は顔を近付けて 嬉しそうに見つめて話しかける。
「お、君は、オオスカシバ君。おいで」
先生は、おっきめのその子を、手のひらに這わせてからもう一度持ち上げて、中指に乗っけてみる。中指ジャストサイズ。
え、先生? 今、「かわいい」って小声で言った? そんな先生の方が、ずっとかわいいんですけどぉ。
「尻尾の角が立派ですね。将来有望な子だな」
だから、私もオオスカシバ君の将来を思い描いてみる。
先生に見せてもらった図鑑の中で飛んでいた、透明な羽をもつ子。虫なのにメジロみたいな色で、宙に浮いて花の蜜を吸っている。
夕方のまあるい光の中、葉月先生はやさしい目をして、ふわりと笑ってるんだ。
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