[本文]第九席

さて翌朝よくあさ相成あいなり、目をひらきましたかつら市兵衛いちべえ、ふと見れば早や今日こんにちさままくら元まで差しんでおりますから、南無なむさん失策しまったりとガガッと跳ね起きました市兵衛いちべえは、いきなり小刀しょうとうを前半にいたして大剣たいけんっ下げました。


市兵いちべ亭主ていしゅ亭主ていしゅッ」


おおきな声で呼びましたから平松ひらまつ治兵衛じへい吃驚びっくりして、


亭主ていしゅ旦那だんなさま、お目覚めざめでございますか」


市兵いちべ大変たいへんに寝過ぎた。モウ何時いつだ」


亭主ていしゅただ今は正四しょうよつでございます」


市兵いちべ「なに正四しょうよつだ。そりゃ大変たいへんな事をした。軍師ぐんしはどうした」


亭主ていしゅ真田さなださんは御一同ごいちどうと共に甚太郎じんたろうさんを助けに行かねばならぬからとうので、先程さきほどお出になりました。もうほどなくお帰りになる時分じぶんでございます」


市兵いちべ失策しまった。それでは軍師ぐんしの為に一杯いっぱい食わされたか。亭主ていしゅ手水ちょうずを持って来い」


亭主ていしゅ「かしこまりました」


そこから市兵衛いちべえあわんで手水ちょうずを使いました。


市兵いちべ亭主ていしゅはや草鞋わらじを持って来い」


亭主ていしゅ「へい、御飯ごはんは如何がでございます」


市兵いちべめしを食ってるひまはない」


早速さっそく草鞋わらじき込みまして、大剣たいけんを差し込みましたが、そのまま黒崎くろさきを望んで一目散に駆け出しました。さて市兵衛いちべえ大方おおかた三四町くらい走ったかと思う刻限こくげんに、荒川あらかわ熊蔵くまぞうムックリを開いた。


熊蔵くまぞう「ああよく眠ったもんだ。モウ起きようからん」


と窓をながめますると、日がカンカンと照っておりますから、おどろいたの驚かないのって、


熊蔵くまぞう亭主ていしゅ亭主ていしゅッ」


亭主ていしゅ旦那だんなさま、お目覚めざめでございますか」


熊蔵くまぞう「モウ何時いつだ」


亭主ていしゅ「四の二分でございます」


熊蔵くまぞう「そりゃ大変たいへんだ。軍師ぐんしはどうした」


亭主ていしゅ真田さなださんははやくに黒崎くろさきへお出でになりました。もう余程よほどになります。」


熊蔵くまぞう「お出でになった。そりゃ大変たいへんだ。老爺おやじはどうした。」


亭主ていしゅ「今ちょっと先に御出立ごしゅったつになりました」


熊蔵くまぞう「なに黒崎くろさきんだか。さては軍師ぐんし一杯いっぱい喰わされたな。大変たいへんだ」


うので、大小だいしょうと取って掴みさし、草鞋わらじき込みました。


亭主ていしゅ旦那だんな御飯ごはんは如何でございます」


熊蔵くまぞう「飯なんぞ食っておるひまはない」


とそのままドンドンと黒崎くろさきを望んでまいりますると、むこうの方にかつら市兵衛いちべえがドンドンと走って行く様子ようす熊蔵くまぞうは、


熊蔵くまぞう老爺おやじめ行きよるわい。糞垂くそたれめ。あの親爺おやじけてなるものか」


とドンドンと駆けてまいります。


やがて黒崎くろさき仕置しおき場に来て見ますると、矢竹やだけでズッ……と矢来やらいが結んでございます。仕置しおき浜辺はまべの方である。見物けんぶつにんは早や何万とう人で、人垣ひとがきを築いてワアワア云っておりまする。ようよう荒川あらかわかつら矢来やらいの傍まで来ましたが、両人りょうにん共々ともども別になっております。荒川あらかわ熊蔵くまぞう、中を覗いて、


熊蔵くまぞう「ありがたい。まだ仕置しおきにかかってない。良い所だった。しかし少し寝すぎたわい。糞垂くそたれめ。この仕置しおきおれ一人ひとりだけで助けてみせる……こりゃ町人ちょうにん少々しょうしょう退けい。町人ちょうにん少々しょうしょう退け」


云った所が七重ななえ八重やえ人垣ひとがきを築いておる所、なかなか退しりぞきそうもございません。


熊蔵くまぞう「コリャ退けとえば退かんか」


うなり脾腹ひばらの当りをゴンゴンと当て身を入れた。見物けんぶつにんは痛い痛いと叫びながら、左右さゆうによけて、なんとちゃ武士ぶしだろうとおどろいております。


熊蔵くまぞう具合ぐあいよく矢来やらいの傍に来ました。矢竹やだけをグッと掴みながら、いざとえばへし折って入らなければ相成あいならぬと、双身そうしんに方を入れて待っております。かつら市兵衛いちべえおいてもこのとおりでございます。


さて時刻じこくが移りましたから、いよいよお仕置しおきう事に相成あいなります。後藤ごとう甚太郎じんたろう藤原ふじわら基房もとふさ家来けらいのもの大勢おおぜい黒崎くろさきむかってお出でになりました。お仕置しおき場へズッと入って来て、西向きに席が設けてあります。その荒薦あらごもの上にチンと座りました。年は十三でございまする。親の又兵またべ基次もとつぐ大兵だいひょうでございますが、甚太郎じんたろうは女のよう優男やさおとこでございますが、甚太郎じんたろうは女のよう優男やさおとこでございます。白装束しょうぞくを着てチャンとひかえておりますところへ、細川ほそかわ家来けらい一人ひとりまいりました。


家来けらい「あいや甚太郎じんたろう基房もとふさ殿どの本日ほんじつあなたにむかってお仕置しおきい付けるのだが、これも徳川とくがわ天下てんか命令めいれいでござるからいたし方はござらぬ。しかしち首ではござらぬ。貴方あなた切腹せっぷくいたされるのを拙者せっしゃ介錯かいしゃくつかまつるから」


甚太「はい委細いさいかしこまりました」


供経台くぎょうだいの上には扇子せんす一本いっぽん乗ってございます。扇子せんすはらることは出来できませんが、ただ切る真似まねをするので、そうするとうしろから首を斬るとう事になります。するとまた家来けらい一人ひとりまいりまして、供経台くぎょうだいしました。


家来けらい甚太郎じんたろう殿どの将軍しょうぐんから上使じょうしいたして神谷かみや清七郎せいひちろう神戸かんべ弾正だんじょう両名りょうめいがあれにおひかえに相成あいなる。目礼もくれいして切腹せっぷく遊ばせる様」


甚太「委細いさいかしこまりました」


るとうと正面しょうめん陣笠じんがさを戴きました神谷かみや神戸こうべりょう上使じょうしがテンと床几しょうぎ腰打けてひかえておりますから、甚太郎じんたろう両手を突き頭を上げて、


甚太「お帰りあそばせば長岡ながおか監物けんもつのおじいさんに、後藤ごとう甚太郎じんたろう基房もとふさはニッコリ笑って切腹せっぷくいたしたと、どうかお伝えをねがいまする」


上使じょうし「ウム、流石さすが後藤ごとう又兵またべせがれ甚太郎じんたろう卑怯ひきょう未練みれんなる振舞いがない。よろしく監物けんもつ殿どのに伝えるであろう。心置こころおきなく切腹せっぷくいたせ」


介錯かいしゃく甚太郎じんたろう殿どの今際いまわきわになにか言い残す事はござらぬか」


甚太「はい最早もはや言い残すことはございません」


介錯かいしゃくしからば御用ごようあれ」


甚太「はい御免ごめんください」


と麻の無紋むもん肩衣かたぎぬはらいました。前にある供経台くぎょうだい扇子せんすし戴きましたが、扇子せんす中程なかほど白紙はくしに巻いて、諸肌もろはだを脱ぎました。腹をおしぬぐっているその体をながめていました此方こちら荒川あらかわ熊蔵くまぞうかつら市兵衛いちべえにおきましては、


両人りょうにん「そりゃこそはらるぞ。おのれ仕置しおきやくにん、今にどうするか見ておれ」


うておる間に、うしろから介錯かいしゃくにん一刀いっとうき《ぬ》抜きに及びましたが、それをば大上段だいじょうだんかまえて、今にも甚太郎じんたろう扇子せんすを腹に当てますれば、一刀いっとうの下に首打ち落さんとする気配けはい、これをながめた荒川あらかわ熊蔵くまぞう、ここだとうなり小柄こづかき抜いて、介錯かいしゃくにん面体めんていを望んでハッシと打った。過たずいたしてその小柄こづか介錯かいしゃくにん眉間みけんにハッシと当る。アッとうと介錯かいしゃくにんはドンとうしろにブッ倒れた。してやったりとたけ矢来やらいをバリバリバリッと引分けた。なんと云った所が難波なんば戦記せんきのこり、大力だいりき無双むそう荒川あらかわ熊蔵くまぞうでございます。矢来やらいの竹を破って中に飛び込みました。見物けんぶつにんはワアワアと云て、ひと雪崩なだれち、これと同時どうじかつら市兵衛いちべえも飛び込みました。続いて真田さなだ大助だいすけ穴森あなもり伊賀いがのかみ箕作みつくり左衛門ざえもん民部みんぶ七郎兵衛ひちろべえ浜田はまだ市左衛門いちざえもん木村きむら剛四郎ごうしろう大原おおはら亀太郎かめたろう大原おおはら亀之助かめのすけら、つまり七十二名とうものが飛びんで仕置しおきやくにんを片っかたっぱから斬立てたのでございます。


サア上を下へのだい騒動そうどうでございまする。何時いつにやら上使じょうし神谷かみや清七郎せいひちろう神戸かんべ弾正だんじょう両人りょうにんってしまいました。ワアワアとう騒ぎの最中さいちゅうでございますから、だれったか分りません。そのあいだ荒川あらかわ熊蔵くまぞう甚太郎じんたろうの傍に近寄って来まして抱き上げました。甚太郎じんたろうがアレッといって驚く奴を、


熊蔵くまぞう「こりゃ助けに来たのだ。黙っておれ」


小脇こわきに抱えました。十三歳の子供こどもだから自由じゆうになります。そのままバラバラっと矢来やらいの外へてしまいましたが、早々そうそう平松ひらまつ治兵衛じへいかたへ戻って来ました。甚太郎じんたろうを一室へ入れて置いて、


熊蔵くまぞう亭主ていしゅ、腹がった。御飯ごはんを出せ」


うので、平気で食っておりましたが、此方こちらかつら市兵衛いちべえ真田さなだ大助だいすけを初め一同いちどう役人やくにんころしてしまって、甚太郎じんたろうを助けようとしたが、どこへ行ったのか分らぬ。無論むろん混雑こんざつの際でございますから、武士ぶしが連れて走り去ったとう事だけで、だれが助けたのか分りません。


一同いちどう残念ざんねんに思ったが仕方しかたがない。き取ろうとうのでドンドンと平松ひらまつに戻って来ました。


熊蔵くまぞう軍師ぐんし、お帰り」


大助だいすけ荒川あらかわ、今目が覚めたのか」


熊蔵くまぞう「はいツイ寝過しまして、亭主ていしゅに聞いて見ますると、最早もはや御出立ごしゅったつになったとのこと、到底とうてい間にわんと思いましたから、お先へ御飯ごはんいただきました」


大助だいすけ左様さようか」


熊蔵くまぞう「して軍師ぐんし甚太郎じんたろうは助けられましたか」


大助だいすけ荒川あらかわまことにどうも残念ざんねんなことをいたした。何者なにものかの為に甚太郎じんたろうを奪われた。助ける事が出来なかった」


熊蔵くまぞう「それでは軍師ぐんしはなにをしにお出になったのでございます」


大助だいすけ「いや早やこれ許りは荒川あらかわもうようがない」


熊蔵くまぞう軍師ぐんし、あまり人を馬鹿ばかにするものではございません。夜前やぜんお出でになって、御前ごぜん一人ひとりい付けるからと、寝酒ねざけを飲ましておいて、けをらわされましたが、その手はいません。甚太郎じんたろうは遠に助けて連れてかえっております……甚太郎じんたろう、これへまいれ」


甚太「はい……」


こたえて一室からて来たのは甚太郎じんたろう


甚太「どなた様も今日きょうはありがとうございまする」


と頭を下げる。


熊蔵くまぞう「どうでございます軍師ぐんし朝寝あさねをして遅くに云ってもチャンとこのとおりでございます。貴方あなた大勢おおぜいでお出になって、なにをして来られました」


大助だいすけもこれにはおどろきました。


大助だいすけ「いかにも荒川あらかわ、これにはおそれいった。そのほうでないと出来できない仕事だ。身共みどもが悪かった」


熊蔵くまぞう軍師ぐんし。これから馬鹿ばかだと思ってあまりなぶらん様にねがいまする」


熊蔵くまぞう「なんとわれても仕方しかたがない。薩摩さつまへ帰れば後藤ごとう又兵またべに伝えるから、とにかく目出度めでたい事だ。一杯いっぱい飲もう」


そこから一同いちどう酒盛さかもりをはじめましたが、やがてえんたけなわになる頃に亭主ていしゅまいりました。


亭主ていしゅ旦那だんなさまもうしあげます。ただ今細川ほそかわさんの御家来ごけらい沢村さわむら才八郎はちろううお方が御面会ごめんかいしたいと云ってお出でになっております」


沢村さわむら才八郎はちろう細川ほそかわ家で有名ゆうめい豪傑ごうけつでございます。家老かろう長岡ながおか監物けんもつと肩を並べたえらい人でございます。


大助だいすけ左様さようか。苦しゅうないこれへ通せ」


荒川あらかわ熊蔵くまぞう穴森あなもり伊賀いがのかみかつら市兵衛いちべえはこれを聞いて大刀たいとうを執ってひざ立直たてなおしました。


熊蔵くまぞう軍師ぐんし細川ほそかわから沢村さわむら才八郎はちろうが来たとえば、いずれ仕置しおきを破ったについて、苦情をもうんで来たに相違そういございません。苦情は我々われわれ承知しょうちつかまつりましょう。ナアに沢村さわむら一人ひとりくらい雑作ぞうさはござらぬ」


大助だいすけ「いやいや決して無礼ぶれいをするでない。むこうの出様でようっては大助だいすけ存じよりがあるから……亭主ていしゅ、お通しをもうせ」


亭主ていしゅ「かしこまりました」


うので沢村さわむら案内あんないに及びました。


才八「ごめんください。これは大助だいすけ軍師ぐんしにはひさしくお目にかかりませぬ。何時いつに変らぬ壮健そうけんの体を拝し恐悦きょうえつ至極しごくに存じます」


大助だいすけ「いや沢村さわむら殿どの、まず一別いちべつ以来いらい、相変らず壮健そうけん結構けっこうでござる。して御用ごよう事は如何いかな事で……」


才八「早速さっそくながらおねがいにまいりましたのは、実は本日ほんじつ黒崎くろさきおい甚太郎じんたろうをおたすけに相成あいなりました」


大助だいすけ如何いかにも助けて戻りました」


才八「それはよろしゅうございますが、江戸えどからまいりました上使じょうし神戸かんべ弾正だんじょう神谷かみや清七郎せいひちろうをおころしになりました」


大助だいすけ「どうもまことに相済まぬ事だが、何者なにものったか相分あいわからぬような事で……」


才八「それについて主人しゅじんことほかにご心配しんぱい相成あいなり、貴方あなたにご相談そうだんもうしたい事があるから、軍師ぐんし御一人ひとりで持って同道どうどうにて御登城ごとじょうねがいたいとの主人しゅじんのお言葉ことばでございます」


大助だいすけ「ハハア左様さようでござるか。委細いさい承知しょうちつかまつった。しからば御同道どうどう申そう……連中れんちゅう、おきのとお沢村さわむら殿どのから我一人ひとり目通めどおりせよとう事である。これより細川ほそかわ 候の目通めどおりをするから、各々おのおの方は酒でも飲んで留守るすをしていただきたい」


すると荒川あらかわ熊蔵くまぞうが、


熊蔵くまぞう軍師ぐんし


大助だいすけ「なんだ」


熊蔵くまぞう細川ほそかわこう卑怯ひきょう未練みれんにも貴方あなた一人ひとり城内じょうないむものと思います。もしもの事があればどういたします」


大助だいすけ「いや荒川あらかわ、決して心配しんぱいするな。無事ぶじかえってるから……」


熊蔵くまぞう「しからばお出でなさい。だが何時いつお迎えに上るかもれません」


大助だいすけ「うむ。もし暮六くれむつ(午後6時ごろ)までに帰られんければ来てくれ」


熊蔵くまぞう沢村さわむら氏、しからば軍師ぐんししかとお預けもうしたぞ」


才八「しかあずかりましてござる」


うので大助だいすけ幸安ゆきやす沢村さわむら才八郎はちろうに連れられて、細川ほそかわ越中えっちゅうのかみ目通めどおりをいたしました。

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