On The Edge

 地が裂ける音を。戦車の主砲の腹に響く音、投下爆弾の腹に響く轟音、全ての音を過去にする。生々しく、質量を持って私の身体を撫でていく――怪物の咆哮のような。それは空気を伝い、地を伝い、唸りとなって濃密な死の気配を誇示する。戦争で大量の命が弾ける時、それは轟音となって辺りを駆け巡るのだ。


 突風。同時に、眼前の雪が盛り上がり、波となって押し寄せる。ドドドドドドドド、軍隊の行進よりも遥かに大きな、迫りくる雪の足音――。


 雪がといか言いようがない光景だった。足元から身体が舞い上がったかと思うと、一瞬で全身が雪に包まれる。雪の温度と圧力を探知した背中の機材がヒーターを起動、背中は焼ける熱さだが、死ぬよりはマシだ。訓練はしている。雪の中では呼吸してはいけない。とっさの無呼吸運動で、わたしは雪上に這い出る。


 耳鳴りの中、全身を雪から出し、周囲を確認する。わたしが乗っていた雪上兵員輸送車は無限軌道を上にして横転している。どうやら、一番後ろに乗っていたおかげであの洗濯機に揉まれずに済んだようだった。荷台には完全に雪が詰まり、じんわりと赤色が染み出てきていた。


 中の様子を想像して、胃が裏返った。今朝食べた合成小麦のパンと培養肉が雪の上にぶちまけられる。頭がガンガンと痛んでいた。ふらつく視界と混濁する意識の中、急ぎ背負っていた通信機材を確認する。大丈夫、外傷はない。


 わたしは臨時拠点の状況を報告する任務を終え、第三通信基地から帰還する最中だった。生命ビーコンの反応は――わたしと一緒に帰路についていた連中は皆死亡している。少しだけ黙祷を捧げ、わたしは通信兵としての仕事を行うことにした。


 周囲を見回すと、針葉樹がそこかしこに転がっていることに気づいた。地面に逆向きに刺さっているものも少なくない。針葉樹の断面は、千切られたよう、という表現だ適切だと思う。


 と、南に天を衝く煙の柱があった。いつも鈍色の天蓋が空を覆うこの地で、青空が見えることの異常。煙の周囲だけ、雲が裂けていたのだ。座標を確認――第三通信基地。


 中尉――――。


 即座に通信機材を地面に置き、救難信号を発信する。発煙筒を取り出して設置。ザック式の構造をしている通信機材から、持てるだけのビーコンを取り出してポシェットにしまった。


 ホルスターから拳銃を取り出し、残弾を確認する。過不足なく稼働するか、点検を行いつつ、人を殺めなければならなくなる可能性に震えていた。しかし、それ以上に銃を持つ理由が私にはあった。


 ともかくわたしは、第三通信基地の様子を確認に向かうことにした。ヘンゼルとグレーテルの要領だ。等間隔にビーコンを撒いて、この雪の上に道を作る。事故の現場にメインの機材を置いているから、とりあえず輸送車の場所には帰ってこられるはずだ。雪が降り積もろうと、ビーコンの場所は把握できる。


 救難信号のトリアージはRED。最優先非常事態信号だ。これだけの事態だから本部は把握しているだろうし、第三通信基地からも救難信号は発信されているだろう。だけど、信号は多ければ多いほど正確性が増すのだ。






 ――1歩、また1歩と、死の気配が、私の足首を、脛を、太ももを――



 第三通信基地に近づくほどに、基地に存在していた、の形跡が増えていく。これは誰の銃を撃った腕だろう。これは誰を支えた足だろう。これは誰の胸に納まっていた臓物だろう。これは誰の何――。


 人間に、いったいどんな力を加えたらこんな惨状が生まれるのだろう。


 第三通信基地は小高い丘の上にあった。はずだ。だが、近づいても通信塔一つ見えてこない。ただ、基地を中心に飛び散ったのであろう肉片が、地を擦った細長い痕だけが、通信基地の方向を示している。


 わたしは中尉のことを考えないようにしていた。いや、考えられないほどの壮絶さだった。破壊の痕を直接見たわけでもないのに、繰り広げられた破壊の息遣いはそこかしこから伝わってくる。


 歩みは変わらず、一定のスピード。記録するまでもなく、雄弁に地獄を放つ景色に飲み込まれぬよう、ただ無心に歩く。目を瞑り、耳を抑えても止まない耳鳴りを噛み殺し、目まぐるしく最悪を思い浮かべる頭をかき乱し。


 足で踏みしめる雪の感触だけが、今までと変わらず在った。それだけが、この光景の中でわたしを正気に留めておく唯一のいかりなのだ――


 と、足にぶつかるもの――左腕だった。血の通わない腕というものはこうも無機質な物か。そう思うが先か、その指先にわたしは囚われる。


 陶器のように透き通る指に収められた、アイビーを象った指輪。


 わたしが先週の里帰りに街で買った。


 わたしが数十分前に、中尉に捧げた誠実。


 それは紛れもない――――




 ――――――――――――――――ッ




 駆けていた。拾い上げた腕を抱いて。僅かにでも温もりが残っていればいいと、力いっぱいに胸に押し付けて。感じるのは底冷えする寒さと、お前が抱えているのは肉の塊でしかないということを主張し続ける冷たさだった。


『お前が通信兵か、今日からよろしく頼む』


 この痛みは何の痛みだ。目が、腹が、頭が、身体が、割れるように。視界は明転と暗転を繰り返す。


『先の戦いではよくやった。この勝利はお前無しではありえなかっただろう』


 耳鳴りすら聞こえない。寒い。うずくまりながら走ろうとし、雪に足を取られて転がる。


『エミリー軍曹、闘うことに疑問を持たないことだ。迷いは死神を誘う』


 わたしから声はでているか。涙はでているか。嘔吐感は感じるが、胃液しか出ず、凍り付いていく。


『アイビーの花か――……分かった、エミリー』


 悪夢の中を走るようだった。身体が、真っ直ぐ走るということを忘れてしまっていた。


『君の想いは受け取った。3日後、互いに任が解かれたら、またここで』


 醒めない。


『咲き続けろよ、軍曹。なにがあろうと』



 中尉――――――













 気づけば、クレーターの淵に立っているOn The Edge


 そこは、第三通信基地だった場所。雪に覆われていない、裸の地面を見るのは久しぶりだった。赤土に散乱する瓦礫だけが、かつて建築が存在していたことを覗かせる。


 駐在人員、捕虜を含め230名。全ての命はこの擂鉢すりばちの底へ。この奈落が原点グラウンド・ゼロだった。この場所で、命は散り散りに弾け飛んだのだ。


 わたしは雪を踏みしめていた。雪上にあって、この地獄を見下ろしていた。雪の確かな感触だけが、今のわたしを繋ぎ止めている。左手で中尉の腕を抱き、右手には拳銃が握られていた。


 雪原に現れた、赤土のクレーター。10年前、この大地を隅々まで抉り尽くした隕石の落下点のような。と、中心に鎮座しているのは隕石ではないことに気が付く。


 それは金の長髪を風に揺れるままに佇む、白いワンピースの少女だった。その姿は冗談のように幻想的な美しさだった。静かに虚空を見つめる少女の姿。そこには神話的な美があった。徹底して顕現する地獄の中で、彼女は唯一の美として存在していた。が、その姿に目を奪われるのも一瞬だった。


 少女は鋼鉄の巨腕を携えていた――どうしてこんなものに


 少女の右腕にあたる部分は少女よりも大きく、岩石のよう。巨大な、兵器然としたデザインの、まぎれもなくそれは彼女の機械腕だった。少女の可憐さに対して、見るもの全てを威圧する鋼鉄の爪。恐怖、危険、破壊の予感。


 怪物だ。少女は人ではない、という感情がわたしを支配する。同時に、彼女がこの穴を穿った存在なのだということも直感的に感じている。彼女が中尉を奪ったのだ。


 身体の全てがこの場所から逃げろと叫んでいる、そのような状況にあっても、わたしは彼女を、美しいと思ってしまっていた。いや、思わざるを得なかった。何か得体の知れない、巨大な感情がわたしにそう思わせていた。


 いつの間にか、耳鳴りも止んだ。銃声も、音を立てて燃え上がる炎もすべては消えている。上空に立ち上った煙は固定されたように動かない。周囲には燻る煙だけが細々と昇る。


「ねえ」


 少女と目が合う。距離があったが、それでも吸い込まれてしまいそうな瞳だった。彼女の表情には非人間的で徹底的に脱臭された――しかし、根源で美しいと感じざるを得ないような――有無を言わさぬ美があった。


「あなたはどうしてなぜ闘っているの……」


 純粋無垢な声色だった。心の底から発せられた、罪知らぬ少女の問いだった。気が狂うほどに可笑しな光景。わたしは彼女を憎まなければならない。わたしは彼女を底から殺したいと思うはずなのだ。


 なんだ、これは。


「お前は――どうしてっ、この場所を――」


 言葉を紡ぐのに必死だった。わたし自身が、彼女を憎む理由を確かめるように、絞り出すような問いを返す。


「……これは、ファウにしかできないことだから」


 ファウ、というのが少女の名前なのだろうか。驚いたような表情を見せた後、少女は不安そうに目を伏せる。その人間らしい仕草の瞬間に、少女の美に綻びが生じる。わたしは少しだけ落ち着きを取り戻し、


「お前はこの場所を地獄に変えた。お前はわたしの想い人を殺した」


 中尉がいれば、「それが戦争だ」と言っただろうか。わたしは拳銃を構える。手が震えていた。わたしはもう、彼女を殺す決意をしてしまっている。言語化できない衝動が、わたしを突き動かしていた。


 少女の表情は一層曇る。明らかに困惑を示していた。同時に、少女の美は驚くほどに不安定なものであったことに気づく。


「……わからない、だってこれは、ユカと暮らすための……」


 ユカ。少女の想い人だろうか、少女の目には明確な迷いがあった。わたしは引き金に指をかける。


「わたしは咲き続ける。戦争は終わった」


 覚えておけ。迷いは死神を誘う。


 わたしは引き金を引いた――――。



 

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