6-6

 出立の日は、いつだって慌ただしい。

 正午を少し過ぎたころ、港の待合所で、ノイズ混じりの館内放送が、フェリーの乗船改札の開始を告げた。

 あたしと良一がベンチから立ち上がったちょうどそのとき、明日実と和弘が陸上部の練習着のまま、待合所に駆け込んできた。

 明日実が肩で息をしながら、満面に笑みを咲かせた。

「間に合ったぁ! 部活が終わった瞬間に飛び出してきたと。最後に顔ば見られてよかった!」

「練習のとき以上に本気出して走ってきたっぞ。ほんと、間に合ってよかった」

 ひとしきり「よかった」と言ってから、明日実と和弘は、あたしたちを車で送ってきてくれた里穂さんに、ペコリと頭を下げた。里穂さんがにこやかに応じる。

 明日実は、あたしと良一の顔を順繰りに見つめた。

「来てくれて、ありがとうね。真節小の最後のときに一緒におられて、嬉しかったし、心強かった。本当にありがとう」

 和弘がうなずく。

「一日しか一緒におられんやったけど、楽しかった。真節小の校舎ば探検したこと、一生忘れんよ。結羽ちゃん、良ちゃん、ありがとう」

 良一はかぶりを振った。

「おれのほうこそ。呼んでくれて、ありがとう。会えてよかった。学校探検して、海で泳いで、おいしいもの食べて、みんなと話して、元気になれた。東京に戻っても、また頑張れるよ」

 明日実の微笑んだ唇が震えた。無理やり微笑み直した両目の端から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。

「あー、もう、ごめん! 昨日から、うち、泣きすぎやね」

 和弘が明日実の頭をポンポンと撫でた。和弘の目も、今にも決壊しそうに潤んでいる。

 同じ場面を見たことがある。卒業式があって、閉校式があって、あたしと良一が小近島を離れた、あの三月だ。明日実は、笑おうとしながら泣いていた。和弘は、明日実をなぐさめながら泣いていた。

 あの三月、あたしは、幼い時間を形づくっていた世界のほとんどを、いっぺんに失った。小近島の家も、学校も、同級生も、もうあたしのそばには存在しない。自分という存在は、空っぽな世界に立つ一本きりの柱だった。

 あたしと同じ気持ちを、きっと良一も味わった。明日実と和弘は、小近島を舞台とする世界から、大事な柱を何本も引き抜かれてしまった。

 すごく、すごく心が痛くて、どれだけ泣いたって追い付かないけれど、仕方ないんだってこともわかっていた。あたしたちはそれぞれ、黙って耐えた。駄々をこねずにあきらめて、失ったものの大きさに背を向けるように、必死で前へ進もうとした。

 四年経った。体は四年ぶん成長した。でも、無力感は変わらない。仕方ない状況も、あたしたちの力じゃ、くつがえせない。

 さらに四年後だったら、どうだろう? あたしたちは、それぞれ選んで進む道の途中で、今よりは強い力を手に入れているんだろうか?

 和弘があたしを見た。泣きそうな目をしているけれど、涙をこぼしてはいない。あたしに一歩、近付いて、がやがやした港の人出の中、ギリギリ聞こえるくらいの声で、和弘はあたしに告げた。

「結羽ちゃん、彼氏おらんとでしょ。たまに連絡してよ。おれ、連絡するけん、返信して。お願い」

 あたしはとっさに、しょうもない返事をしてしまった。

「何で?」

 和弘は律儀に答えた。

「だって、おれの気持ち、まだ全然、続いちょっけん」

「……何で?」

「昨日も言ったやろ。結羽ちゃんは小近島から離れていったけど、でも、遠くにおるようには思えんけん。会えんでも、つながっちょるよなって感じられる。忘れ切らんよ」

「でも、あたしは……」

 明日実がいきなり、あたしに抱き付いてきた。ふわっとして、柔らかい。汗と制汗スプレーの匂いがする。

 あたしの肩に顔を寄せた明日実は、ふぇーっと、情けない声でちょっと泣いた。ぐすぐすしながら顔を上げて、どうにか微笑む。

「応援しちょっけんね! 結羽の歌、小近島まで届けて! 結羽も良ちゃんも、地元の期待の星やけんね!」

「地元って? あたしには、地元とか、ないよ。あっちこっちの島に住んでたせいで、どこが出身地って言えない」

 明日実は声を立てて笑った。

「それ、カッコよか! 結羽にとって、全部の島が地元やん。旅人やね。いつでもどこにでも、遊びにも行けるし、帰ることもできるってことやろ。結羽のことば地元の星って呼んで応援しちょっ人が、あっちの島にもこっちの島にもおるとでしょ」

「あ……」

 つかえが取れたような気がした。

 全部だったのか。旅人のあたしにとって、島々の全部がふるさとだったのか。

 そんなふうに言い換えたところで、どの島にも溶け込めなかった事実は変わらない。どの島にも家がないことに違いはない。

 でも、心の中で何かが変わった。何かが、ふっと軽くなった。古いかさぶたがはがれて落ちるように、ずっと胸にこびり付いていた悲しみが、不意に離れていった。

 あたしはきっと、この島々のどこを旅しても、「いらっしゃい」じゃなくて「おかえり」と言ってもらえる。その場所にあたしの家が存在しなくても、そこに住んだ記憶は存在しているから。

 旅人で、いいじゃないか。旅人だから、たくさん出会えたじゃないか。旅人である両親のおかげで、良一にも明日実にも和弘にも、夏井先生にも里穂さんにも、真節小にも、真節小の最後のときにも、出会うことができたんだ。

 あたしは明日実をギュッと抱きしめた。

「頑張ってくる。期待、裏切らないように、頑張る」

 明日実の体を離す。近い場所で笑い合った瞬間、両目がぶわっと熱くなって、熱が涙になって、目尻から流れ落ちた。

 あたし、泣いてる。

 鼻と喉がつながるあたりがゴツゴツして、息が苦しくなった。涙って、熱いんだ。こんなにも胸の中を掻き乱して、叫びたいくらいの感情を連れてくるものなんだ。

 あたしは下を向いて、急いで涙を拭った。

 待合所の館内放送が、乗船改札の案内を繰り返している。そろそろ行かないといけない。あたしはギターケースをベンチから拾い上げた。

 明日実が良一にパンチを繰り出した。

「頑張らんばよ、良ちゃん! ボーっとしちょったら、和弘に負けるよ。中途半端な男には、あたしの結羽は渡さんけんね!」

 えっ、と、良一と和弘が同時に目を見張った。あたしは明日実のほっぺたをつねった。

「勝手なこと言うな。バカが調子に乗る」

「きゃー、結羽、痛かよー!」

 悲鳴を上げながら、明日実が笑う。

 あたしたちがフェリーに乗り込んだら帰っていいと告げておいたのに、甲板から浮桟橋を見下ろすと、明日実も和弘も里穂さんも、まだそこにいた。

 和弘が真っ先に、甲板に出たあたしと良一を見付けて、ジャンプしながら両手を振った。明日実と里穂さんも、すぐに気付いた。

 明日実が大声を出した。

「結羽ーっ! 良ちゃーんっ! ぎばれーっ!」

 ぎばれって、島の言葉だ。頑張れって意味。良一が潤んだ目をして、大きく手を振った。

「引っ越しのときと同じだな。ぎばれーって、見送ってもらった」

 あたしは黙ったままうなずく。声を出したら、涙まで出そうだった。もろくなってちゃいけないのに、うまく感情がコントロールできない。

 フェリーのエンジン音が大きくなった。船体がゆっくりと動き出す。

 明日実と和弘が手を振っている。あたしは小さく右手を挙げて応えた。その手首には、昨日の傷を隠す包帯がある。

 突然、良一があたしの包帯の手首をつかんで、強い力で引っ張り上げた。

「何するの」

「手、もっとちゃんと振らないと、見てもらえないだろ」

 良一につかまった手が、あたしのじゃないリズムで、大きく左右に揺さぶられる。明日実が笑って、和弘が何か怒鳴った。里穂さんが見守ってくれている。

 島が少しずつ遠ざかる。青く澄んだ湾に白い水尾を引いて、フェリーが一度、出航を告げる汽笛を鳴らす。

 ここで過ごした日々は、悲しいことも、楽しいことも、嬉しいことも、やるせないことも、たくさんあった。いろいろあった。かけがえのないものばかりだった。

 あたしは、ここから船出する。

 捨てるわけじゃないし、忘れたりもしない。ここはあたしのふるさとだ。

 あたしは旅人であり続ける。旅をしていくその先で、自分という誰かに出会いたい。

 心の鎧はまだ着けておく。心の閉ざし方も覚えておく。あたしは弱い。身を守らなければ、打ち倒されて立てなくなる。

 だけど、弱いままではいられない。ちゃんと笑おう。たまに泣こう。昔、島の潮風の中でやっていたことを、一つひとつ、もう一度やってみよう。

「あたし、ぎばるけん」

 あたし、頑張るから。

 本当はしゃべれる島の言葉を、口の中だけでつぶやく。

 あたしは良一の手を振りほどいた。そして、自分の力で、自分のリズムで、遠ざかるふるさとの人々に向けて、大きく手を振った。

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