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 大近島の港であたしを迎えてくれたのは、日に焼けた丸顔の男の人だった。三十歳だと聞いていたけれど、優しげな垂れ目をくしゃっと笑わせると、もっとずっと若く見える。

「結羽ちゃんやろ?」

「はい」

「うわぁ、高橋先生によく似ちょっね。一目でわかったよ」

 高橋先生というのは、母の呼び名。結婚する前の。今は、松本先生。父も母も、それぞれの職場である小学校で、同じように松本先生と呼ばれている。いや、父は、教頭先生かな。松本教頭先生。

「結羽ちゃん、フェリーでの長旅、疲れたろ? 船酔いしちょらん?」

「大丈夫です」

「そぃなら、よかった。家に昼ごはんば用意しちょっけん、まずは帰ろうか。どこか行きたか場所があれば、うちの嫁さんに言うて。午後、車ば出せるけん」

 あたしは、かぶりを振った。

「行きたい場所とか、ないです。気を遣わないでください。これから三日間、お世話になります」

 その人は、大樹だいきさんという。いや、夏井なつい先生と呼ぶべきかな。夏井先生は、大近島で小学校の教師をしている。

 夏井先生は、あたしの母の教え子だ。四年生から六年生までの三年間、小さな島の小さな学校で、新任教師だった母に教わっていたらしい。

「高橋先生に初めて会ったとは、もう二十年前になるたいね。いやぁ、早か。結羽ちゃん、十六歳やろ?」

「はい」

「ぼくの結婚式のとき、お祝いに来てくれたよね。結羽ちゃんとは、あれ以来たいね。覚えちょっかな?」

「はい」

 六年前だ。覚えているに決まっている。あたしは記憶力がいい。何もかも見えてしまって、見たものは全部、覚えてしまえる。ただ、そういうのは疲れるから、壊れるほど疲れるから、観察や記憶の機能を止めておく方法も身に付けた。

 夏井先生の奥さんも母の教え子だ。つまり大樹さんにとっては、同い年の幼なじみに当たる人で、里穂りほさんという。

 幼なじみ、か。引っ越しばっかりのあたしには、そう呼べる相手はいない。あたしはいつも、幼なじみたちの固いきずなの中に数年間だけ入れてもらって間借りする、ただのお客さんだった。たぶん、同窓会や成人式にも呼ばれないと思う。

 違う。

 呼ばれたじゃないか。この夏、ここに。消えていく校舎を見送るために。

 そうだ、小近島の真節小にいたころの思い出だけは、ほかのどんな過去の記憶たちと、形が違う。色が違う。匂いが、肌ざわりが、柔らかさが違う。何もかもが違う。

 幼なじみと呼んでみたかった相手は、明日実あすみ和弘かずひろと、それから良一りょういち。どうしてあんなに特別だったのか、今となってはもう、理由を見付けることもできないけれど。終わった日々を想っても、仕方がないから。

 やめよう。考えるのは。

 汚れた包帯で、ハートの破片を、いびつな形に結び合わせてつなぎ止めて、あたしはようやく形を保っている。余計なことを考えるな。無理やり巻いた包帯がほどけたら、またバラバラに壊れて、立てなくなってしまう。

 夏井先生の軽自動車は白い旧式で、ドアの付け根に茶色いさびが見えていた。昔、母が乗っていた中古車も、同じように、白くて小さくて、少しさびていた。

 あたしは後部座席にギターと荷物を載せて、助手席に乗り込んだ。港から夏井先生の家まで、車で二十分ほどかかるらしい。

「クーラーにする? 窓ば開ける?」

「窓、開けます」

 白い潮がこびりついた窓を押し下げると、風がビュビュンと耳元でうなった。

 車が発進する。どこか甘くて生ぐさい島の空気が、窓から流れ込んでくる。

 港のそばのアーケードは、記憶していたとおりだった。ほとんど変わっていない。昔から、こぢんまりとした街並みだった。島の潮風は、ものを早く風化させるから、建物も車も、古いおもちゃみたいに、ちっちゃくてくすんだ印象だ。

 フロントガラス越しの日差しが、じりじりと、あたしの肌を焼く。日光に当たるのは、本土に引っ越してから、極端に苦手になった。すぐに肌がひりひりしてくる。日が沈んで、夜の中で一人になると、ホッとする。

 夏井先生は運転しながら、のんびりと大きな声を出して、取り留めもない話をした。

「ぼくが小学校の先生になったとは、結羽ちゃんのおかあさんの影響やもんね。四年生から六年生まで、ほんとにお世話になったけん」

 その話は結婚式のときにも聞いた。あたしが生まれる前の話なんかされても、リアクションのしようがない。あたしは適当に「はい」「そうですか」と応えておく。

 あたしはおしゃべりが下手で、それはなぜかといえば、質問をしないからだ。他人に対しての興味が薄くて、お愛想を言うこともできなくて、そしたら、相手の話を引き出すための質問なんて、できるはずもなくて。

 学校生活がうまくいかないのは何が問題なのか、わかっているのに、あたしは、解決しようと努力をしない。努力する価値がないと思ってしまう。いらないんだ、全部。上手に周囲に溶け込むための努力なんて。努力しなきゃ手に入らない「ふつう」なんて。

 あたしの不機嫌と夏井先生のおしゃべりを載せて、車は走る。

 このあたりの島は全部、海から急に生え立ったような、けわしい地形をしている。人が住んでいるのは、だいたい、海のそばのわずかな平地だ。

 港のそばのアーケードを離れると、がたついた県道は小さな山に入る。山を越えるまで、人家はない。ときどき自動販売機があるだけだ。

 山を二つ越えたら、岡浦おかうらという集落だ。岡浦のちっぽけな船着き場から一キロほどの沖合に、島が見えている。フロントガラス越しにそっちを指差して、夏井先生はあたしに言った。

「なつかしかでしょ?」

「そうですね」

 あの島が、小近島だ。あたしが小学五年生、六年生のころに住んでいた島。今回の旅の目的の場所。

 本土から小近島に直接渡る船はない。いったん大近島まで渡って、さらに船を乗り継ぐ必要がある。二次離島、と呼ぶらしい。

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