1. 銀狼の姫 -A Lady with silver eyes- (4)
魔術学院、通称象牙の塔は主に三つの建物で構成されている。
一つは各研究室が入っている研究棟。導師や助手、学院生の多くは一日の大半をここで過ごす。二つ目は実験棟。大がかりな魔術実験のための建物で、各種儀式のための設備が整えられている。最後が大図書館。ここには魔術書や理論書のみならず、市井の文書に至るまで数多くの文書が収められている。これらの建物と正門を結ぶように正方形の回廊が作られ、その中庭には魔法装置で作られた噴水が飛沫を上げている。
その他に、別棟で学生寮と食堂や付属学舎、学院の運営に携わる者が使う執務棟が存在している。また広い庭もあるが、時折得体の知れない生き物と遭遇する可能性があるので迂闊に昼寝などは出来ない。
振り返りもしないレティシアの後を追って、フィルは研究棟を出た。ひんやりとした回廊を通る。途中で中庭に目を向けると、学院生たちが思い思いの格好で寛いでいた。魔術書を広げている者もいれば、異性と睦んでいる者もいる。
「フィラルド」
レティシアが回廊の途中でぴたりと足を止めた。長い髪を翻して振り向く。
「一応、紹介しておこうと思います」
中庭の中央、噴水の辺りからのそのそと近づいてくる動物がいた。フィルは一瞬身構えたが、銀色の毛並みを見て肩の力を抜いた。
銀狼はレティシアの足下にすっと寄り添った。昨夜見た狼より一回り小さい。フィルのことを落ち着いた様子で見上げている。綺麗な眼をしていた。
「この子はアスコットです。見ての通り、私の眷属です」
「あ、はい」フィルはアスコットの正面にしゃがみこんだ。「よろしく」
アスコットは差し出したフィルの手の匂いをしばらく嗅いだ後、ぺろりと舐めた。
「じゃあ、こちらも」
フィルは立ち上がり左手を差し出した。そこに空からリルムが降りてきて止まる。何をしていたのか知らないが、急な呼び出しに幾分不満そうだった。
「リルムって言います」
「……貴方もトーカブルだったのね」
レティシアが手を伸ばす。その白い指先にリルムは嘴でちょんと触れた。それからフィルの手を離れ地面に降り立つ。アスコットの目の前だった。
二匹の動物が見つめ合う。しばらくそのままでいたが、やがてアスコットが小さく吠えリルムが鳴き返した。それからリルムは羽音を立てて、あろうことかアスコットの背に降り立つ。それを確認してから、アスコットはゆったりと噴水の方に駆けていった。
「……驚いた」レティシアは目を丸くしてそれを見送っていた。「眷属同士って、あんなに早く仲良くなれるのね」
「まあ、少なくとも人間同士よりは」
フィルがそう言うと、レティシアはふう、と小さく息を吐いた。
「そうね。……貴方が何かしたわけでもないでしょうし」
レティシアは背筋を伸ばしてフィルの方に向き直った。
「レティシア・ブリューゲルです。まあ、さっきの話を聞いていたとは思うけど」
「フィラルド・セイバーヘーゲンと申します。フィルと呼んで下さい。みんな、そう呼ぶので」
「ええ」
レティシアが、初めてフィルに向かってにっこりと微笑んだ。口角が上がって白い歯が零れる。その笑顔は、思わず目が惹きつけられるほどに可憐だった。
「なら私のこともティアと呼んで。親しい人しか言わないけど。でも、これから同じ研究室の仲間ですものね。敬語も必要無いわ」
「まだ入れると決まったわけでもないのに……」
フィルが小声でそう言うと、レティシアは鼻でふふん、と笑った。
「何を言っているのかしら。貴方に時間魔術の基礎を教え込めば良いだけだもの。これからみっちりしごけば済む話です」
「それはちょっと……」フィルは目を逸らして呟いた。「銀狼の民のみっちりなんて、どれほどのものか……」
銀狼の民が司るのは「秩序」である。傾向として几帳面で真面目な人が多い。「混沌」を旨とする黒鴉の民からすると、やりにくい相手だった。
並んで回廊を歩き大図書館に入る。フィルは図書館の中をざっと見渡した。昼間だというのに薄暗いのは本を守るためだろう。窓は小さく、室内に差し込む光は最小限に抑えられている。天井まで届きそうな本棚が整然と並んでいて、ぎっしりと本が詰まっている。高い場所の本を取るためだろう、移動可能な梯子が据え付けられていた。
フィルは入り口近くの司書に時間魔術書の場所を訊こうとしたが、その前にレティシアはさっさと奥に進んでいた。軋む階段を上り二階に出る。
「時間魔術に関する本はこっちよ」
「どうして知ってるの?」
「付属学舎の頃から通っていたもの。試験が終わった後は独学で進めていたし」
付属学舎とは学院生になる前の若者に学問や魔術を教える学校である。学院に入る魔術師を目指そうとする者はもちろん、貴族や豪商の子弟なども教養を身につけにやってくる。
しかし学舎はルサンにしかないので、他の街や村では私塾が魔術や学問の中心になる。大抵は学院を引退した導師や助手が教えていることが多い。フィルやフォクツも村の私塾で習っていた。学院への入学が非常に狭き門だということを考えると、あの小さな村から二人も合格者を出したというのは大変な快挙だと言っていい。
レティシアは目的の本棚の前に着くと、三冊本を抜き出した。差し出されたそれをフィルが受け取ると、今度は隣の本棚からまた抜き出す。あっという間に、フィルの両手にうずたかく本が積まれた。
「ちょ、ちょっと」
「大丈夫よ」
何が大丈夫なのかちっとも解らなかったが、また歩き出したレティシアの後をフィルはよたよたと追いかける。やがてテーブルが置かれた一角に辿り着いた。
どさ、と本をテーブルの上に置く。午前中の大図書館に二人以外の姿は見えなかった。
「さて、始めましょうか」
「いや、ちょっと……」
肉食獣の目になったレティシアの前で、フィルは素早く策謀を巡らせた。
「僕の場合、最近の情報が入っていないからさ。学舎のときに使っていたものがあればそれを先に見たいんだけど……」
積み上がった書物の山を横目に、フィルはそう切り出した。
「ふむ」レティシアは顎に指を当てた。「一理あるわね」
すっくとレティシアは立ち上がり、近くの窓まで歩いて行った。そこから顔を出し、下と何か遣り取りをしている。
「ええと、何してるの?」
レティシアが顔を戻したタイミングでフィルは問いかけた。
「家まで学舎の頃のノートを取りに行ってくれるよう、頼んでいたのよ」
「誰に?」
「もちろん、アスコット」
フィルは先ほど知り合った銀狼の顔を思い浮かべた。確かに賢そうではあった。しかしとても信じられない。トラムの村で、文字の読み書きが出来るのは村人の二割程度である。
「あ、そう……」
フィルは曖昧に頷いた。それから、ふと昨夜のことを思い出す。
「そういえば、メル……メリッサさんの容態は?」
「……え? どうして貴方がメルの、こ、と……」
レティシアの言葉が尻すぼみになった。それから一気に爆発する。
「貴方、昨夜の……。警邏じゃなかったのね!?」
レティシアが身を乗り出して訊いてきたので、同じ分だけフィルは身を引いた。
「ウィニフは警邏だよ。僕と、もう一人のフォクツは学院生」
「……なるほど」
たっぷり二秒ほど考えてから、レティシアは釈然としない顔で頷いた。少し頬が膨らんでいた。それからぶつぶつと言う。
「まったく。嘘を吐いていないとは言え、真実を隠そうという意図を明確に感じるわ」
「そんな。別に悪いことをしたわけじゃない」
「まあ、そうね。メルを助けてくれたのは事実のようだし……」
レティシアはとりあえず不問にしてくれるようだった。怒気を収めてフィルを見つめた。ふう、と息を吐いてから説明し始めた。
「メルはあれからすぐに意識を取り戻しました。大きな怪我もないようです。念のため、数日は静養させるつもりですけど。彼女は私が幼い頃からずっと尽くしてくれていますから、本当に感謝しています」
「そう。それは良かった」
フィルは気になっていたことを訊いた。
「メルさんはあんな風に、夜に一人で出歩くことがよくあるの?」
「普段はありません。昨夜はパーティーで人手が足りなくて。急に料理のリクエストが出たので仕方なく材料を買いに出たそうです。あの辺りでは危ないこともまずないですし」
「ティアも夜に一人で出かけられるくらい?」
「私にはアスコットがついてきてくれます」
「ああ……」フィルは頷いた。「それは心強いね」
「それにしても」レティシアはじろじろと上から下までフィルのことを見た。「貴方、出身はどこ?」
「黒鴉の部族の本当に小さな村。トラムって言うんだけど、知らないよね?」
「ええ、残念ながら。でも、本当に田舎だというのは解ります」
「……まあ、実際その通りだけど」
憮然としてフィルが言うと、レティシアは少し口元を緩めた。
「気に障ったなら謝ります。でも悪い意味ではないの。私はずっとルサンで暮らしてきたから、そういう村の生活がどんなものかってちょっと気になっただけ」
「何にもないよ。野山と川しかない。仕事だって畑仕事か狩りか、そうじゃなきゃ家事だ。酒場だって一軒しかないし」
思い出しながらフィルがそう言うと、レティシアはなぜか楽しそうに微笑んでいた。目尻が下がって、少し幼く見えた。
「ん? どうかした?」
「いいえ。何でもありません」
先ほどレティシアが身を乗り出していた窓枠に、鴉が一羽ちょこんと止まる。もちろんリルムだった。そのまま平気な顔で建物の中に入ってくる。
「あ、帰ってきたみたい」
「ええ。取りに行ってきます」
窓から下を見たレティシアはそう言って小走りに去っていった。
いくらなんでも早過ぎやしないかと思ったが、狼の脚力ならこの程度かもしれないと思い直す。それにしても立派な体躯だった。華奢なレティシアならば、その気になれば背に跨がって移動できるのではないか。
リルムがフィルの肩に飛び乗る。ちょいちょいと頭を撫でてやる。銀色の毛が一本羽に付いていたので、引っかけないように慎重に取ってやった。
「お待たせ」手にノートを抱えてレティシアが戻ってきた。「この辺りが時間魔術に関する記述。学舎ではあまり扱わない分野なので、この程度なのだけど……」
「この程度?」
三冊の分厚いノートを見ながらフィルは呟いた。しかしその意味を取り違えたらしく、レティシアは申し訳なさそうに続けた。
「二冊は授業中につけていたもので、それをまとめたのが最後の一冊です」
「あ、じゃあ、そのまとめを見せて欲しい」
レティシアが差し出したノートをフィルは受け取った。
「個人的に整理しただけなので、貴方にとって見易いかは判らないけど」
「凄くよくまとまってる」
「本当?」
「これさえ貸してくれれば、特に教えて貰わなくても大丈夫」
「……」
「絶対大丈夫。まったく問題ない」
「まだ、二ページ目までしか見ていないように思えるのだけれど?」
フィルは三ページをめくるタイミングでレティシアの方を見上げた。三白眼になっていた。慌ててフィルは居住まいを正した。
「と、言うかさ。これは学舎の内容なんだから出来て当たり前なんだよ。だからこれくらいは自分でやらなくちゃいけない。でも導師はこの図書館の本も読み込むように言っていた。そっちの方がレベルが高い作業だと思う」
「ええ、それはそうですけど」
全然納得していない顔と声でレティシアは同意した。
「ティアも全部は読んでいないんでしょ? だったら、僕がこれを勉強している間に先に読み込んで、後でそれを説明して欲しい。……どうかな?」
「フィル」レティシアは静かな声で言った。「私に教わるのがそんなに嫌なの? それとも私が研究室に入るのが気に入らない?」
「お互いにとって最善の選択だと判断しているだけだよ」
フィルは四ページ目をめくった。本当によくまとまっていた。
「解りました」
レティシアがため息混じりに言った。
「とりあえずそのノートはお貸しします。明後日に内容についてテストをして、その成績が良かったら貴方の提案を受け入れましょう」
「明後日? これ全部?」
「不満?」
「いや。大丈夫」
フィルはため息混じりに一言付け足した。
「このクオリティのまとめがノートの最後まで続いていれば、だけどね」
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