1. 銀狼の姫 -A Lady with silver eyes- (5)

「あっ、来た来た!」

 店員がトレイを片手に近づいてくるのを見て、ウィニフレッドは華やいだ声を上げた。

 新市街のメインロードに面したカフェのテラス席に、フィルとウィニフレッドは向かい合って座っていた。慣れない都会的で上品な雰囲気に、さっきまで二人してきょろきょろと辺りを見回していたところだった。

 フィルにとっては久しぶりの休日だった。ここ数日はレティシアから時間魔術の講義を受けていたのだ。その内容は微に入り細を穿ち、砂漠に落ちた一本の針すら見逃さないほどの細かさと執拗さを兼ね備えたものだった。思い出しただけでも視界が白くなるほどの苦行だった。しかし彼女の教える内容はとても的確で解りやすく、授業の合間の休憩中にはルサンの色々なことも教えて貰った。まだ街に慣れていないフィルにとっては、そちらの方が為になった。

「お待たせしました」

 カップと皿を置いた店員が一礼して店の中に戻っていく。

「いただきます!」

 ウィニフレッドが早速フォークを手にケーキに立ち向かう。その目尻が下がりきった笑顔はこれ以上無いほどに緩んでいた。頬のえくぼも心なしか、普段より深いように見える。フィルはカップに口をつけながらそれを穏やかに見守った。リルムはわざわざお皿にミルクを注いで貰ってそこに嘴を突っ込んでいる。ルサンの街では眷属はかなり丁重に扱われているらしい。故郷のトラムの村には無い風習だったのでフィルは少し困惑した。村にはリルム以外の眷属はいなかったのでそんな文化が育つはずもない。個人的にはリルムごときにここまでの扱いは必要ないと感じていた。

「一口食べる?」

「あ、うん。ありがと」

 ウィニフレッドからフォークを受け取って一口食べる。ほんのりとした上品な甘さが口の中に広がる。果実の酸っぱさがアクセントになって心地よい。今までに経験したことのない味だった。村で食べられる甘味と言えば保存のために砂糖漬けになっているものばかりで、どれも強烈に甘かったのだ。後は果実をもいでそのまま食べたくらいで、デザートなどという文化は存在しない。

「美味しい」

「でしょ!」

 フィルが言うと、ウィニフレッドは得意そうに笑みを浮かべた。フィルと同じようにカップからお茶を啜り満足そうに息を吐いた。

「ありがとうね、付き合ってくれて。どうしてもこのお店に来てみたかったんだ。でも兄さんは興味無いって言うから……」

「いや、俺も美味しいもの食べられたし」

 フィルがそう言うとウィニフレッドはまたにっこりと笑った。向日葵のような大輪の笑顔だった。笑うと八重歯が覗き、えくぼが出来るのが可愛らしい。

「街にはもう慣れた?」

「まあね! 毎日警備で歩いてるから、どこに何があるのかくらいは」

 ウィニフレッドは自慢気に言った。フィルは学院に籠もってばかりいたので、街のことはまだ良く分かっていない。

「訓練はすごく厳しいんだけどね。かなり走らされたりして……。でも何かあったときのための警邏だから、すぐに駆け付けられるようにならなくちゃいけないし、強くもないとね!」

 ウィニフレッドはそう言って胸を張った。どうやら仕事は充実しているようだった。

「そうそう、弓の訓練もあったんだけど、あたし、一番上手だったんだ! 先輩にも勝っちゃった!」

「凄いじゃない」

 フィルはそう言って微笑んだ。村にいた頃からウィニフレッドは弓が上手だった。もしかしたら、長年猟師をしているフィルの父親よりも優れているかも知れない。

「隊長にも凄く褒められたし……って、聞いてる?」

「あ、ごめん」フィルは反射的に謝った。「でも、ほら」

 通りの方を指し示す。道の真ん中をレティシアが歩いていた。その脇にはぴったりとアスコットが並んでいる。他に二人、同じ銀狼の部族の人と一緒のようだ。

「ティア!」

「あら、フィル」

 声をかけられたレティシアは一瞬眼を瞬かせ、すぐに白薔薇のように小さく微笑んだ。学院にいるときより、少しよそ行きの笑顔だった。道の中央からフィルたちが座るテラス席に近づいてくる。

「こんにちは。そちらは警邏のウィニフレッドさんでしたね」

「あ、はい……」

 ウィニフレッドは一瞬きょとんとしたが、すぐに誰だか思い出したようだった。

「こちら、私の両親です」

 レティシアは背後の二人をそう紹介した。父親の方がエムレ・ブリューゲルと名乗った。母親は小さく会釈をしただけだった。

 高貴な雰囲気を醸し出している二人だった。父親の方は真っ白なシャツを着て腰に長剣を下げている。軍に所属していると聞いたのを思い出した。母親の方はゆったりとしたブラウスと長いスカートを着ている。並んでみると、レティシアとそっくりだった。

 レティシアはフィルたちの方を手で示した。

「フィラルド・セイバーヘーゲン。同期生です。それからこちらはウィニフレッド・キャバイエさん。警邏隊に所属しているそうです」

「はじめまして」

「ああ、娘が世話になっているようで」

 フィルはエムレとぎこちなく挨拶を交わす。その様子がおかしかったのか、レティシアがくすりと笑ったのが視界の端に映った。

「貴方がフィル君なのね」のんびりとした声で母親が言った。「かねがねお噂は伺っております」

「噂?」

「ええ。なんでも今年の最年少合格者だとか。しかもあのアリステア導師に師事することが許されるほどの逸材」

「あ、いえ」

 フィルは曖昧に否定した。何を否定したのか自分でも解らなかった。

「ティアもよく貴方のことを話してくれますのよ。自分より年下なのに中々見所がある、って」

「お母様!」

 レティシアが少し高い声を出した。白い頬が少し色付いている。しかし意に介した様子もなく、母親は続けた。

「ほら、この子、こんな性格でしょう? 何か迷惑をかけているんじゃないかしら?」

「いえ、とんでもないです。むしろ僕の方が色々教えていただいています」

「本当かしら?」

「はい。魔術に関しても街のことも。僕は田舎の出身なのでルサンにまだ慣れていなくて……。ティアのおかげで本当に助かっています」

「あらあら」

 母親はにっこりと頷いた。どことなく含みのある笑顔だった。本人から許可を得ているとは言え、両親の前で愛称を使ったのは拙かったか、とフィルは反省した。

 ウィニフレッドが口を挟んだ。

「あの、立ち話も何ですから、よろしければ一緒にいかがですか?」

「あら、でも」レティシアが悪戯っぽく首を傾げた。「お邪魔ではないかしら?」

「え? いえ、そんなことはないですよ?」

 レティシアのからかうような口調に、ウィニフレッドは首を傾げた。含まれた意味に気がつかなかったようだ。

「ティア。私たちは先に戻っているよ。ゆっくりしていきなさい」

 エムレが穏やかにそう言う。レティシアは素直に頷いた。

 レティシアは隣のテーブルから椅子を一つ拝借して腰掛けた。やってきた店員にお茶とお菓子を注文する。くいくい、とフィルの袖が引っ張られる。目を向けると、リルムが嘴でつかんでいた。

「ああ、了解」

 リルムが飲んでいたミルクの皿を足下に下ろしてやる。すると遠慮がちにアスコットが寄って来る。二匹並んで仲良くミルクを舐め始めた。フィルとレティシアが勉強している間に、二匹はかなり仲良くなったようだった。

 その睦まじい姿を見ていると、同じようにレティシアも目を細めているのに気がついた。それを感じ取ったのか、レティシアが視線を上げ目が合う。くすり、と彼女は微笑んだ。

「レティシアさん」ウィニフレッドが問いかけた。「学院でのフィルはどうですか? ちゃんとやっていますか?」

「ええと」レティシアはちらりとフィルの方を見てから答えた。「ちゃんと勉強はしているみたい。抜けていた範囲は驚くほどすぐに終わらせたわ。複数の本を並行して読んでいたり、不思議な勉強方法だったけれど……。でも、ちょっとルーズかしら」

「ルーズ?」

「遅刻ぎりぎりだったり、たった一週間で机の上をぐちゃぐちゃにしてしまったり」

「それはさ」フィルは一応言ってみた。「銀狼の民目線だからじゃないかな」

「限度というものがあります」

 レティシアはぴしゃりと言った。しかしウィニフレッドが不思議そうに言った。

「ううん……。フィルってそんなにだらしないかな。村にいたときは全然そうじゃなかったよね。よく部屋で遊んだり泊まったりしたけど……」

 ウィニフレッドの言葉に、レティシアがカップに伸ばした指がぴくりと動いた。

「ほら」フィルは胸を張った。「黒鴉の民なら、このくらいだよ」

「まったく……」レティシアは柳眉を逆立て、腰に手を当てた。「ここはルサンの街です。色々な民族が暮らしているの。たしかに私の意見は銀狼の民の目線かもしれません。でも逆に言うと、黒鴉の民だからと言ってだらしなくして良いわけでもありません。ちゃんと他の人のことも考えなくては」

 フィルは言葉に詰まった。一分の隙もない正論だった。

「うん、ごめん……」フィルは降参した。「自分でもちょっといい加減だったかな、と思った。ティアに言って貰えて良かった」

 フィルは心にもないことを言った。リルムが呆れたように見上げているのに気がついたが当然無視した。早めに話題を変えることにする。

「ところで、今日はどちらへ?」

「……ええ、学院に行ってきたところです。研究室の転籍についての話があったので……」

「……ああ」

 フィルも曖昧に頷いた。レティシアは少し俯いたが、すぐに顔を上げ気丈に続けた。

「おかげさまで、なんとかアリステア導師の研究室に移れそうです」

「それは良かった。おめでとう」

 フィルはほっとした。自分の成長が評価基準だと聞いていたので、もし転籍が許可されなかったら自分の責任だ。自分の努力が認められたというのも素直に嬉しい。そして何より、これ以上レティシアの授業を受けなくても良いのだ。

「ありがとう。貴方にもご迷惑をおかけしました。導師にも無理を聞いていただきましたし……」

 言いながら、レティシアの声は段々小さくなっていった。コメントがしづらく、フィルも黙っていた。ウィニフレッドも首を傾げていたがケーキに取りかかることにしたようだ。

「もう一口食べる?」

 ウィニフレッドがフォークを差し出してくる。フィルは首を伸ばしてその先についたケーキを食べた。仄かな甘みが口の中に広がる。

「……ん?」

 レティシアが目を丸くして自分のことを見つめているのに、フィルは気が付いた。もしかしたら、街ではマナー違反なのかも知れない、と少し不安になった。しかしウィニフレッドは視線に気が付かなかったようで、甘さに目尻を下げている。それから気が付いたようにレティシアの方に向き直った。

「レティシアさんも新入生なんですよね? 学院には慣れましたか?」

「ええ。私は付属学舎に通っていたので」

「やっぱり学舎から学院に上がる人が多いんですか?」

「ううん……、そうでもないかしら。そもそも学院を目指す人が多くないから。でも、今年の合格者の半分は学院の出身です。卒業してそのまま、というのは私だけですけど」

 学舎は入るのも卒業するのも実力次第なので、年齢は一定ではないと聞いている。レティシアの口ぶりからして、彼女はかなり若い部類に入るようにフィルは感じた。ついでにウィニフレッドにも訊いてみることにする。

「警邏にはウィニフと同年代の人はいるの?」

「いっぱいいるよ!」ウィニフレッドは嬉しそうに言った。「今年入隊した人はほとんど同じくらい。学院は?」

「食堂の下働きの娘くらいかな……」

「当然よ。フィルの次に若い学院生は私だもの」レティシアが呆れたように言った。「その上はフォクツさんと同世代です。何人かいらっしゃるはずですが」

「あ、兄さんでもそんな若い方なんですか。やっぱり学院に入るのって難しいんですね!」

 ウィニフレッドは感心したように言った。

「ところで、ティアはどうしてそんなに学院のことに詳しいの?」

「え? だって、試験の前に過去の合格実績を調べたりしなかった?」

 きょとんとしてレティシアが言ったので、フィルは失笑した。

「トラムの村からそんなことするのは無理だよ。試験範囲だってあやふやなくらいなのに」

「あら残念ね。傾向が見えたりして面白いのに。年齢構成だけじゃなくどこの部族が多いとか男女比とか」レティシアは顎に指を当てた。「黒鴉の部族は若くして合格する人が多いけれど歳を重ねるにつれて合格者が減る、という変わった特徴を持っているわ」

「まあ、うちの部族は基本的に気まぐれだから。飽きる前に合格できるかどうかってことなんだろうけど」

「ちなみに中退率もナンバーワン。でも逆に偉大な発見をした名魔術師の数もかなり多いのよね。フィルはどっち寄りかしら……」

 ティアが悪戯っぽい目つきでフィルを見る。普段の大人びた雰囲気が崩れて、可愛らしかった。

「銀狼の部族はどうなんですか?」

「そうね、特徴は無いわ」

 ウィニフレッドの質問にレティシアは苦笑混じりに答えた。

「合格者数も年齢構成も実績も、何もかもほぼ平均値。あ、不祥事の数は一番少ないけど」

「さすが秩序の部族ですね!」

「良くも悪くも堅実とでも言えば良いのかしら。あんまり嬉しくない評価だけれど」

 ティアが少し唇をとがらせ気味に言う。それを見てウィニフレッドは朗らかに笑う。二人ともなんだか妙に楽しそうだった。

「そういえば、警邏にも銀狼の民の方が多い気がします。やっぱり街の秩序を守る仕事だから?」

「そうね。それもあるかも知れないけど。でも単純にルサンに一番多いのは銀狼の部族だから分母が大きいだけかも」

 そう言ってから、レティシアは少し真面目な顔になった。

「そうでした。ウィニフレッドさんにはお礼を言わなくてはいけません。メルを助けていただいてありがとうございました」

「あ、いえいえ」ウィニフレッドは困ったように手を振った。「メルさんのお加減はいかがですか?」

「おかげさまで、すっかり元気になっています。仕事にも復帰しました」

「良かった! 大事にならなくて」

 ウィニフレッドは一瞬明るい顔になったが、すぐに少し俯いた。

「でも犯人の目星が全然ついていなくて……」

「それは仕方ありません。メルも犯人に繋がるようなことは何も覚えていない、とのことですし。場所も人通りのほとんどないような裏道だったとか。命が助かっただけでも有り難いことです」

 フィルは話を聞きながら首を捻った。相変わらず犯人の目的がさっぱり解らない。金銭や身体を狙ったわけではないようだし怨恨にしては被害がなかった。事故だとしたら、彼女を放置はしないだろう。

「ん?」

 突然、手に生暖かい物が振れた。少し湿った感触がする。目を向けるとアスコットが見上げていた。どうやら舌で舐められたらしい。

「どうかした?」

「難しい顔をしていたわ」

 フィルはアスコットに問いかけたが、答えたのはレティシアだった。

「魔術の勉強をしているときは、絶対そんな顔しないのに」

「時々するよ。ものすごく眠いときとか」

「嘘」レティシアは微笑んだ。「よく欠伸しているのを見かけるもの。うたた寝していたこともあったわね」

 フィルは手を伸ばしてアスコットの首筋を撫でた。銀狼は目を細めてされるがままになっている。

「フィル……」ウィニフレッドが真剣な顔で言った。「警邏の訓練受けてみる? 居眠りなんかしていたら、決して忘れられないほど楽しい経験を出来るよ?」

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