1. 銀狼の姫 -A Lady with silver eyes- (3)
相変わらずの、殺風景な部屋だった。
フィルは自分の物として与えられた真新しい椅子に座っていた。樫の机の上にはまだ何も無い。部屋の主の方を見遣るが、先ほどから栗色の後頭部は微動だにしていない。本を読んでいるわけでもなければ書きものをしているわけでもないし、ましてや眠っているわけでもなさそうだった。それにも関わらず、邪魔しづらい雰囲気が漂っている。
「ええと」フィルはとりあえずベナルファに向かって切り出した。「僕は何をしたら?」
「もちろん、研究です」
「何を研究すれば良いのですか?」
「それは貴方が決めることです。研究室の性質上、時間魔術に関することが望ましいですが」
ベナルファはフィルの問いに、笑顔を浮かべたまま答えた。
時間魔術とは、読んで字の如く時間に関する魔術の総称である。体内の時間を速め高速に活動したり、逆に遅らせることで腐敗を防いだりすることが出来る。しかし時間に関しては他の分野に比べ解っていないことが多く、未知な要素が多く含まれている。
「そう言われましても。範囲が広すぎて何をしたら良いのか」
「そうですね。何と言っても時間魔術ですから。現時点で何にも解っていないと言っても良いでしょう。いくらでも研究することはありますよ」
そこまで言って、ベナルファは表情を少し引き締めた。
「通常の研究室であれば、導師や助手と相談して研究テーマを決定するのが通例ですが……」
ベナルファはアリステアの方に視線を飛ばした。その視線を受け取ったように彼女は振り向いた。
「フィラルド。貴方が勉強に使ったのは『アトロポスの裁断』ですね」
「あ、はい……」
フィルは慌てて頷いた。彼女の言うとおりだった。故郷の講師が持っていた本のうち、時間魔術に関する本はそれしかなかった。フィルは元々時間魔術を研究するつもりだったので、それこそページが擦り切れるくらいまで読み込んだ。その気になれば一字一句諳んじられるかも知れない。
「それが何か?」
「『アトロポスの裁断』は時間魔術に関する名著の一つです。時間という概念に対する観察と魔術的な関与について非常に的確に考察が為されている。正直に言って、時間魔術に対してあれほど正確な記載をされている本は他にない。しかし……」
アリステアは少し口元を緩めた。
「書かれたのは四百年以上も前です。今ではもっと考察も実証も進んでいます」
「え……」
フィルは唖然とした。そんなことはまるで知らなかった。
しかしその一方で納得もしていた。学院の入学試験の際に出された時間魔術の問題は、フィルにとってはまったく未知の物だった。この分野に関しては自信があっただけに、少なからずショックを受けていたのだ。
「貴方を教えていた講師はかなり優秀な魔術師だったようですね。時間魔術に関して、それ以降の研究を体系的に纏めた本は編纂されていません。断片的な情報のそれも一部分だけを徒に与えて誤解を生むよりは、体系だったものをきちんと処理できるように育てようとしたのでしょう」
「ええと、では最近の研究についてはどう学べば良いのでしょう? どの本から読めばいい、とか順番はありますか? 基礎的な内容だとか……」
「ありません。どの書物も不完全です。前提となる知識も非常にアンバランスですし、はっきり言って一つの本だけでは十分な知識を得ることは不可能です。その上どの順番で読んでも、初読では内容を理解出来ません」
「では、どうすれば?」
「すべてを読めば解決します。相互に必要な情報を補い合えば済む話です」アリステアは平板な声で言った。「解らない部分はそのまま記憶しておけば良いのです。他の書物を読んで得られた情報により、改めて認識すれば良い」
「解りました」
フィルは小さく頷いた。何の反応も見せず、アリステアはまた何も置いていない机の方に向き直った。ベナルファがフォローするように言う。
「困ったことがあったら何でも訊いて下さい。出来る範囲でですがお答えしますよ」
「はい、お願いします」
「それと、焦ることはないですよ。貴方はまだ十五歳。学院生の中で最も若い。時間はたっぷりありますから」
ベナルファはそう言ってにこりと微笑んだ。目尻に皺が刻まれた。
「それにしても、若い研究室になりました。導師も学院生も最年少。私も助手の中ではかなりの若輩者です。多分、全員ここより年上という研究室もたくさんあるでしょうね」
フィルはそれを聞いて、フォクツの話を思い出した。フィルより六つ上だが、それでも学院生の中ではかなり若い部類に入るそうだ。実際、寮や学院の廊下でフォクツより若い学生を見かけることはほとんど無い。
「ところで」フィルは部屋の中を見渡した。「普通、専門分野に関する書物などは、研究室に保管してあるものだと思っていたのですが……」
「そうですね、そういうところが多いです。私が以前所属していた研究室もそうでしたし……」
「実に嘆かわしいことです」
突然、アリステアが口を挟んだ。椅子に座って、向こうを向いたままだった。
「何のために、著者が書物に起こしたのか、という点を完全に見失っています」
「おっしゃりたいことは解りますが。一応、危険な魔術書などもありますし……」
「それも含めてです。危険な需要があったとしても、自然とそれに対抗する措置が取られるでしょう」
静かな声でアリステアはそう断言した。まるで嘆息しているかのようだった。
こんこん、と扉がノックされた。ほとんど間を置かず、木製の扉が静かに開く。
「アリステア導師?」
顔を覗かせたのは銀狼の民の少女だった。学院生に支給されるローブを着ている。フィルと同じようにまだ真新しかった。入学式で挨拶をした少女だった。今日は白いレースのリボンを使って輝く銀髪を頭の高い位置で一つに留めている。
「はい」
ベナルファが立ち上がりかけたが、その前にアリステアが答えた。椅子に着いたままで振り返りもしなかった。
「私はレティシア・ブリューゲルと申します」
「ええ、知っています。質問をしに来ましたね」
「え、はい……」
「おかけなさい」
困惑したレティシアに、アリステアは座ったまま振り返り椅子を勧めた。先日、フィルが面談を受けたときに座った場所だった。
「どうぞ」
アリステアが落ち着いた声で促す。先ほどまでと少し雰囲気が違っているように思えた。
「私はレティシア・ブリューゲルです」彼女はもう一度自己紹介をした。「このたび、学院に入学することになりました」
「ええ」
何をどう話すかシミュレーションしてきたようだ、とフィルは見て取った。レティシアと名乗った少女には意識的に感情を抑えようとする素振りが窺える。
「私は試験の際に、希望をアリステア導師付きと書いて提出しました。しかし、配属になったのは召喚魔術を専門とするミニョレ導師の研究室でした」
「そうですか」アリステアは感情の籠もらない声で言った。「改めて言うまでもありませんが、すべての新入生が希望する研究室に配属になるわけではありません。個々の能力や適性を基に決定されます」
「しかし!」
レティシアの声が跳ね上がった。けれど一度恥じるように胸に手を当て息を吐くと、また元の調子に戻った。
「試験での私の成績は全受験者中、トップであったと小耳に挟みました。成績が良い方から順に希望する研究室に配属になるのが通例なのでは?」
レティシアが軽く汗をかいていることにフィルは気がついた。頬もやや上気している。口角も下がり、余裕がないように見える。
アリステアは、変わらない調子でゆったりと言った。
「通例というものは、本来何かしらの合理的な理由で習慣付いたことを意味しています。状況の変化に適応出来ず、形骸化している例も散見されますが」
はぐらかすような答えに、レティシアはやや厳しい口調で指摘した。
「質問の答えになっていません」
「質問という行為は、端的にその者の能力を示します。少なくともそれに答えることよりは明確に。弁えなさい、レティシア・ブリューゲル」
アリステアは、語気を強めることすらしなかった。もちろん、窘めるような口調でもなかった。
「配属を決めるのは導師であって学院生ではありません。それは貴女の祖父がルサンの議長で大叔父が学院の長であろうとも、貴女自身がはじまりの七家の直系であろうとも変わることはありません。私は私自身の基準でもって、貴女はこの研究室に配属されるに値しないと判断しただけです。学院で行うのは勉強でなくて研究です。勉強がしたいのならば、付属学舎の講師でもなさったらいかが?」
落ち着いた口調だったが内容は痛烈だった。レティシアの顎から汗が一滴、垂れ落ちた。少し掠れた声で彼女は続ける。
「それは、私の能力が劣っているという意味ですか?」
「能力、適性、資質。包括的に判断した結果です」
「面談も無しに、ですか?」
「よろしい」
気丈にも言い募るレティシアに、アリステアは小さく頷いた。自分の椅子から立ち上がりレティシアの正面に席を移す。ベナルファが物音を立てずにその横に続いた。少し迷ったが、フィルはそのまま座っていることにした。相対する三人を真横から眺める形になる。
「魔術とは何ですか?」
「体内や自然の中に存在する魔力を集め、現象として行使することです」
唐突なアリステアの質問に、レティシアは淀みなく答えた。魔術の教本の最初に載っている通りの答えだった。
「この世界に於いて、魔術が果たしている役割とは何ですか?」
「魔術は他の方法では代用できない現象をもたらすことが可能です。例を挙げれば、空を飛んで高速で移動したり、物を軽くして輸送を容易にしたり……。生活をより良くするのに一役買っています」
フィルは意外に思っていた。自分が面接を受けたときと内容があまりに違いすぎる。レティシアも眉を寄せ、困惑している様子が見て取れる。しかし次の質問ですぐに裏切られた。
「なぜ魔術でそんなことを為す必要がありますか?」
「なぜ?」
レティシアが鸚鵡返しに訊き返す。しかしアリステアは何も反応しなかった。ただレティシアの方をじっと見つめている。レティシアはもう一度訊き返した。
「なぜ、とはどういう意味でしょうか?」
「言葉通りです。空を飛べなくとも馬にでも乗れば長距離を素早く移動することは可能です。魔法で重量を軽減しなくとも人員を揃えれば物を運ぶのも家屋を建てるのも問題ありません。魔術が介在せずとも人間は暮らしていけるのです」
「それは……」レティシアは一瞬言葉に詰まった。「それは良い暮らしと言えるのでしょうか。魔術が手助けになっているのは疑いようのない事実です。実際問題として馬が使えない状況は多々ありますし、養うのにも多くのコストがかかります。魔法を使って少ない人員で輸送できれば空いた手で他の仕事を進めることが出来るでしょう。魔法によって人々の暮らしが豊かになることは間違いありません」
「では貴女は、人々の助けになるために魔術を修めているのですか?」
「そうです」
レティシアはまっすぐアリステアの方を見て、そう言い切った。挑むような目つきだった。切れ長の目から鋭い光が放たれているようだった。しかしアリステアはその視線を緩慢に受け止めた。
「貴女には人を惹きつける力がある。高潔な精神と明晰な頭脳を持ち、協調性に富み、皆を憐れむことが出来る。高い統治能力があり、細やかに問題に対処できる。優れた才能を持ちそれを磨く努力も怠らない」
アリステアはレティシアを評価した。しかし族長の孫娘は居心地悪そうに身じろぎした。
無理もない、とフィルは思った。今の言葉は、魔術師に対する評価では無い。象牙の塔の内部でよりは、市井で重用される能力ばかりだった。
「貴方には弟がいましたね」
アリステアは抑揚無くそう言った。
「は、はい。三つ、年下です」
「貴女にとって、弟とはどんな存在ですか?」
「ハテム、弟は……」
レティシアは言い淀んだ。畳み掛けるようにアリステアは言葉を続ける。
「仲は良い?」
「はい。素直な子です。喧嘩をしたりすることはほとんどありません」
「貴女にとって、庇護すべき存在なのかしら?」
「そうです」レティシアは小さく頷いた。「私は姉ですし、弟は少し病弱なので」
「なるほど」
アリステアは少し目を細めた。
「貴女はトーカブルですね」
「はい」
「弟さんは違う?」
「……はい」
「学舎での貴女の成績を見ました。入学当初から非常に優秀な成績を収めてきています。ほとんどの分野に於いて最大限の評価を受けている」
アリステアの言葉にレティシアは少し俯いた。
「貴女はこれまで他人から賞賛を受ける機会が多かった。しかし貴女は評価されるのを好んでいない」
「そんなことはありません」レティシアは顔を上げて、即座に反駁した。「それは誤解です。結果に対する正当な評価ならば、嬉しく受け取ります。ただ……」
「ただ、賞賛のうちには貴女の能力や貴女が為した結果ではなく、貴女の立場に起因するものがある。族長の孫娘へのご機嫌取りが含まれている。だから素直には受け取れない」
「……そうです。私はずっとそんなものに晒されていました」
レティシアは恥じるように頷いた。
「ご両親を尊敬していますか?」
「はい」
「族長であるお祖父様と比べても?」
「……比べることは出来ません」
「学舎に、自分より優れていると思った講師はいましたか?」
「……」
レティシアはもう答えなかった。しかしその沈黙はあまりに雄弁だった。
「ええ、貴女の認識は正しい。貴女は自分より優れている大人に出会ったことが、今までに一度しかない」
「そんなことはありません。少なくとも、今日、貴女、アリステア導師に会っています」
「貴女は私のことなど評価していない」
アリステアはそう言い切った。
「それで良いのです。貴女は貴女の基準でもって人物を評価している。貴女は曇り無い瞳を持ち正しく世の中を見定めている。それは貴女自身も含めてです。貴女は広い慈愛の心を持ち皆を守ろうとしている。それを為すだけの力が貴女にはある」
「私には、解りません」
「いいえ。解らない振りをしているだけです」
「そんなことは……」
レティシアは呻くように言った。語尾は掠れ、聞き取れなかった。
「まあ、良いでしょう」
アリステアはふっと息を吐いた。それと同時に張り詰めていた空気が緩んだように、フィルは感じた。
「時間魔術に関して、どの程度の知識がありますか?」
「あ、はい」
安心したようにレティシアは言った。少し両肩が下がる。
「学舎で学ぶことに関しては、完璧に理解しているつもりです。また、それ以外にも独自に文献などを読み込みました。主に図書室の蔵書ですが」
「そうですか」訊いておきながら、アリステアは興味なさそうに言った。「それではその内容をそこの彼、フィラルド・セイバーヘーゲンに教え込みなさい」
「……え?」
フィルとレティシア、二人の声がユニゾンした。
「彼は時間魔術に関する知識が不十分です。事実上、無知だと言っても良い。その彼に、貴女が持てる力をすべて使って基礎を植え付けなさい。手段は問いません。図書館の本を使っても構いませんし貴女自身が所有している文献を利用しても良い。ただし貴女以外が彼に教授することだけは認めません。彼の成長度合いを見て貴女を受け入れるかどうか判断します」
「そ、それに何の意味があるんですか?」
「それともう一つ」アリステアはレティシアの問いを無視した。「貴女は現在、召喚魔術の研究室に所属する学生です。貴女の本分を忘れないことをお薦めします」
話は終わりだと言わんばかりに、アリステアは席を立った。そのまま隣の部屋に消えていく。そちらにはフィルも入ったことが無く、中がどうなっているのかは知らなかった。
レティシアは呆然とその後ろ姿を見送っていた。青白くなっていた顔色に、ゆっくりと赤味がさしてくる。軋む音が聞こえてきそうなほどぎこちなくフィルの方を振り向く。
「フィラルド・セイバーヘーゲン」
「はい」
「貴方もたしか新入生よね。合格発表で名前を見たもの」
「そうです」
レティシアの目つきは剣呑だった。目尻が上がって、切れ長の目がさらに細められている。何もしていないのに、怒られているような気分にフィルはなった。
「貴方は面談を受けたのよね?」
「あ、はい」
「時間魔術に無知?」
「恥ずかしながら」
「それなのに、ここを希望したの? まったく」
レティシアはそう言って、一つ大きなため息を吐いた。
「レティシア」
落ち着いた声でベナルファが呼びかける。彼女は佇まいを直して向き直った。
「貴女は不満かもしれませんが、そもそもこんなチャンスを与えられること自体が異例なのです。そこのところを理解して下さると……」
「ええ」レティシアは華やかに微笑んだ。「十二分に。とても感謝しています。どちらかと言うと、最初の決定理由が良く解りませんでしたけど」
「それは……」ベナルファは苦笑した。「あの方のなさることですから。常人には理解出来かねます」
そこまで言って、慌てたようにベナルファはフィルの方を向いた。
「あ、いえ。別にフィルの配属に不満があるわけではなくてですね」
「あ、はい」フィルは頷いた。「客観的に見て、レティシアさんの方が自然だということですよね」
「ええ、まあ……」
ベナルファは困ったように頷いた。気苦労が絶えなさそうな人だな、とフィルは思った。
「さて、フィラルド。この後何か予定は?」
「いえ、特には。導師からも基礎を習得するように言われているだけです」
「そう。なら、図書館に行きましょう」
レティシアはそう言って、にこりともせずに立ち上がった。
「早速、時間魔術を教え込んであげます」
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