*いざ、行かん
くり抜かれた窓から風が吹き抜ける音は、その空間をもの悲しくさせる。しかし、玉座に座す影にはそれが相応しく、禍々しい闇をまとっていた。
「シレア……。どこまでも俺に逆らう」
男は苦々しく眉を寄せ、壁に掛けられた蝋燭の炎をその目に映す。そんなグレイシャブルーの瞳に宿る怒りに呼応するように、荒野の暗闇から禍々しい咆哮が上がる。
それは幾重にも折り重なり、押し寄せる波のように震えて遠くの山々にまで響き渡る。新月の空には薄い雲の間から星々が見え隠れして、先にある希望を根絶やしにするべく、どす黒いものが集まってくる。
落とした瞼からはしばらく苦悩の表情を見せ、それが開かれたとき男の口元が吊り上がった。
「頃合いだな」
静かに紡がれた声に、赤毛の女は自然と体を強ばらせる。そして同時に、いよいよなのかと
「こちらから迎えてやろうじゃないか」
喉から笑みを絞り出し、のそりと立ち上がる。
──準備を済ませたシレアたちは、集落の外に設置された
空の青さと風のさわやかさに朝露が、清々しく神妙な面持ちの一同を迎えた。
事前に描かれていた大きな魔法円の中に入ると、周囲を魔導師と
「ミシヒシ、大丈夫かな」
心配そうに集落を見やるヤオーツェの肩をアレサが叩く。
馬は優位に立てる条件の一つだが、馬を守る余裕があるかどうかも解らない状況では返って不利になる可能性がある。
軍馬ならともかく、移動のための馬では戦闘ではあまり持たない。
長老は一同を見回し、シレアに向き直る。いつもと変わりない表情に笑みをこぼして目を吊り上げた。
「シレア、あのときのことを覚えているか」
十一のとき、罪を負わされそうになったときのことを。
「忘れてはいない」
「おぬしは、あとになってそれを正したな」
荒くれ者となった男は腕に自信があったけれど、横暴を制止するべく立ち向かったシレアにはまるで歯が立たず、彼の剣の前に敵わないと悟って悔しさにくずおれた。
シレアは男に剣を向け、彼の行いを一つ一つ、ゆっくりと説明した。淡々とつむがれる愚行の数々に男は、己がいかに愚かだったのかを痛烈に思い知らされた。
自分の行いを改めた男はそれからシレアと打ち解け、立派に成人を迎えて旅に出た。
このときシレアはようやく、心が晴れたような気分だった。男は今でも時折、顔を見せに集落に帰ってくる。
「己の心に従うのだ。躊躇うな」
我らの心と自然はおぬしと共にある。
「心だけで助かる。息子の晩飯をくすねるのはやめてもらいたいからな」
「そんな昔の事を蒸し返すでないわい!」
「思い出は、戻ってくる力になる」
護りたいと思える記憶は有り難いとつぶやき、ディナスを見下ろした。こうして見ると、初めに目にしたときよりもずいぶんと歳を取った。
それほどの歳月を過ごしたということか。
旅をしていっそう、周りはめまぐるしく変わりゆき、気がつけば大きな流れのなかに呑み込まれていた。
自分の意思とは関係なく巻き込まれていく。それが、運命というものなのだろう。
そうして、ポータルの準備が整ったことを確認するとヴァラオムは人に変化した。
「いざ、対峙の場へ」
それが合図となって、奏でた一人の言葉から声は増し、輪唱のごとく響き渡る。重なっていく声は共鳴し、さらなる音の洪水を生み出していく。
詠唱は不思議と眺めている長老たちの耳には五月蠅いとは感じられず、魔法円のなかから見つめるシレアの瞳と見合っていた。
声がふいに途切れた刹那、シレアたちの姿は霧のようにかき消える──
「行ったか」
誰にも誇れるわしの自慢の息子じゃ、負けるはずがない。瞼を閉じ、祈るようにつぶやいた。
ディナスは一緒に行くと言い張ったが、シレアはそれを止めた。年寄り扱いするなと怒ってはみたものの、集落を守ってほしいと言われれば仕方がない。
愛想も無く世話もかからなかったシレアは、集落の誰よりも愛情深いということをディナスは知っている。
愛する息子よ、自然の民の子よ。その勇姿を示し、敵を圧倒せしめよ──鈍色の空を仰ぎ、深く息を吸い込んだ。
──重たい空と軽く冷たい風が吹き抜ける北の大地。
「やっぱり寒い!」
ヤォーツェは声を上げで首に毛皮を巻いた。周囲を見回し、慌てて魔法を唱え自分の周囲に温かい気をまとう。
脇には見知った家屋が見える。どうせ、もぬけの殻だろう。どこかで高みの見物でもしているに違いない。
「乱れが激しい」
シレアは空を仰ぎ、苦く発して目を眇めた。
心にくすぶる言いようのない不安感をユラウスたちも感じているようだ。皆、一様に口を閉ざし険しい表情を浮かべている。
「何か聞こえませんか」
「うん?」
アレサの言葉に、ユラウスたちは耳をそばだてゆっくりと荒れ地を見渡す。微かに伝わる振動に気がついたとき、
「──うそだろ」
遙か遠方に見えた揺らぎにマノサクスは、これはだめだと思わず笑みを浮かべた。
どす黒い波のように迫り来る塊は、怒号を発しながらその足を止めること無くシレアたちに向かって来る。
「あれはオークですね」
「うむ」
豚に似た容姿に不格好な体型、邪悪な性質のモンスターだ。
人間並みの知能を持ち、さほど強いモンスターではないが数が集まれば厄介な相手ともいえる。
「アレサもじっちゃんも、なに落ち着いてんだよ!?」
数百ともとれるオークの群れに、ヤォーツェはどうしていいのか解らずに狼狽える。
「いや、もういっそ清々しくての」
「じっちゃ~ん」
「向こうからはコボルドかな?」
マノサクスは別方向からの軍勢を見やった。
体毛のない二足歩行の犬を思わせる風貌は、オークと同じく邪悪な性質で知能は低いものの、こちらも集団で来られると厄介なモンスターである。
どちらも暗闇を好むモンスターのはずだが、動きを見る限り昼夜などおかまいなしに興奮している。
「どうすんの!? どうすんのさ!?」
「そう言われてものう」
「多勢に無勢」
為す術もなくあっという間に取り囲まれ、醜悪な群にユラウスとアレサの顔が歪む。
ヴァラオムはドラゴンへと戻り、眼前のモンスターたちを見据えると、威嚇するように大きく咆えた。
その声にモンスターたちが怯えてざわつく。そのとき、上空からの羽ばたきに顔を上げた。
モンスターたちは大きく広がり悠然と降り立つ影に場所を空ける。
見覚えのあるアシッドドラゴンはシレアたちを睨みつけ、その背中にはやはり見知った女がまたがっている。
赤毛の女は、出会ったときと同じく憎しみを込めた瞳をシレアに向けた。それにさしたる感情はなかったシレアだが、ふいに胸が締め付けられる苦しみに顔をしかめる。
「──っ? これは」
詰まるような痛みに胸ぐらを掴み、女の後ろから膨らむ影に目を見開いた。
グレイシャブルーの瞳と背に流れる鈍い銀髪を揺らすその男に見覚えはなかったが、男の視線が強くなる度にシレアの心臓は痛みを走らせる。
[あ奴は、まさか──]
「久しいな」
男は輝くドラゴンを見やると口の端を吊り上げ、何かを含んだ笑みを浮かべた。
[やはりそうか]
「誰なんだ?」
マノサクスはモンスターへの牽制に剣を構えつつ、苦々しいヴァラオムの声に眉を寄せた。
[とても危険な存在だ]
「言ってくれるじゃないか」
[そう言わずして、なんと言う]
低く唸りを上げて男を鋭く睨みつけた。
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