◆第二章-声の主-
*進む道
眼前に広がる深い森を眺めてカルクカンから降り、手綱を引いて歩く。ここはまだ森の入り口の手前に過ぎず、あちらこちらに木々が点在している程度だ。
目当ての森はもう少し先にあり、しばらく歩くと小さな湖が視界に入る。まだ明るいがすぐにでも陽が傾くだろう。
「今日はここまでか」
暗くなってから森に入るのは危険だ。
ソーズワースから荷物を降ろして自由にさせる。そして澄んだ湖を覗き込む。
「一匹くらいはいるだろう」
服を脱ぎ、短剣を口にくわえて飛び込む。水は少し冷たいが耐えられないほどでもない。
湖の中は考えていたよりも視界は鮮明で、底に沈んでいる倒木からは魚影が多く見られた。一度、水面に出て再び水中に潜る。
それほど大きくなくていい、食べ切れそうな魚を探す。そんなシレアの背後に、よからぬ気配が漂う。
慌てずに振り返ると、そこには巨大な魚がじっとシレアを見つめていた。シレアの背丈ほどもあるだろうか、銀色の鱗に赤い目をギョロつかせている。
こいつはいくらなんでも大きすぎる。魚側にしたって、シレアは諦めてもいい大きさだろうに何故、そんなにも見ているのか。
巨大魚は慎重にシレアを見定めて、ゆっくりと口を大きく広げていく。びっしりと並んだ尖った歯は、フィッシュイーターならではのものだ。
シレアは噛みつく瞬間に身をかわし、短剣を魚の眉間に突き立てた。瞬間、魚は驚いて激しく抵抗する。さすがにこれだけの大きさだと息絶えるのには時間がかかる。
そろそろ息も限界に近い──それでも、ふりほどかれないように柄を強く握りしめた。どちらが先にくたばるかの耐久戦だ。
しばらく耐えていると、最後のあがきか巨大魚は勢いよく浮上して飛び上がった。激しい水しぶきのあと、魚は力尽きて水面に浮かんだまま動かなくなった。
ようやくの決着に溜息を吐き出し、魚を陸に引き上げる。
服を着て魚をさばき始めた。大きな鱗は陽に照らすと七色に輝き、とても綺麗だが鱗を全部を取ってはいられない。
面倒なのでまず三枚におろして身の方を皮からそぐ事にした。
血を洗い流し、一口大ほどに切り分けていく。この魚の鱗は薬になるため、薬剤師や錬金術師などに売れるだろう。
乾かしておけば皮から勝手に剥がれ落ちるので、その辺に広げておくことにする。
「さすがに多すぎる」
さばき終わった身を眺めて眉を寄せた。
今日と明日の分を別にして、残りは干物にでもしよう。ソーズワースも手伝ってくれればいいのだが、生憎カルクカンは草食だ。
干せば今よりは小さくなるものの、しばらくは干物で暮らすことになると思うと溜息が漏れる。マントを地面に敷いてその上に切り身を並べていく。
それを済ませると今度はさらに枯れ木を集めて火をおこし、切り身を串に刺してたき火の側に突き立てた。
ソーズワースに固めた干し草を与えていると、魚の焼けた良い匂いが辺りに漂ってくる。火に向けていた面をくるりと返し、干している切り身も裏返していく。
傾きかけた太陽を眺めて、たき火のそばに腰を落として食事を始めた。
──真夜中、予備のマントを敷いて寝ころび、両手を頭の後ろで組んで星空を眺めた。パチパチとオレンジに光るたき火の炎がほのかに暖かい。
暗闇に瞬く星は、その美しさと同時に夜道を示す導(しるべ)となる。
静かな時間を過ごしていたとき、黒い影がまた現れた。二度目ともなると、初めほどの驚きはない。
[旅は、お前の行く先に、暗き影を落とす]
「私に何を望む」
それに影は応えない。
[引き返すなら今だ……。今ならまだ引き返せる]
ゆらゆらと揺れる影は闇夜に溶け込む訳でもなく、むしろ鮮明な黒を映し出す。その気配から敵意は一切、感じられない。
しかし、影の向こうにある存在感はひしひしと伝わってくる。この影は一体、何の目的で現れるのか。そして、どうしてわざわざ忠告してくれるのか、なんとも親切な影だ。
しばらくすると、影は現れた時と同じように音もなく消えた。
──朝、干していた魚を片付けて旅支度を始める。
いわく付きの森はとても広く、例の怪物が現れるという地点まではかなり遠い。このまま北を進み、夜になると薪を集めて火をおこす。
シレアは夜食に魚の干物を食べながら、小さく溜息を漏らした。
「そろそろ獣の肉が欲しくなってきた」
欲張った訳でもないのに大きな獲物になってしまった事が悔やまれる。さすがに干物が沢山ある中で他の獲物を捕る訳にはいかない。
とはいえ、魚ばかりでは体にも良くない。明るくなったら小さなねずみを探すか。
そんな事をぼんやりと考えながら干物を口にしていると、遠くから何かがゆっくり歩いてくる音がした。
それは小型のものではなく、隠れる様子も見せずに枯れ葉や小枝を踏みしめてゆっくりと向かってきていた。
脇に置いてある剣に手を伸ばす──暗闇から現れたのは、黄金色に輝く瞳をじっとシレアに向け、艶のある灰色の体毛にほっそりとした柔軟な体をくねらせて歩く肉食獣。
こちらを攻撃する意思はなさそうだ。ふと、口には何かをくわえている。
シレアを警戒させないためなのか目を合わせ続け、くわえていたものを離すと暗闇に消えていった。
一体、どうしたことかと獣が置いていったものに近寄ると、そこにあったのは獣が好んで食べる獲物の兎だった。
「またか」
ひとかじりもしていない。まるで、神に供物を捧げるかのように、たったいま捕ってきたのか生暖かい。
これは今に始まったことじゃない。これまでにも幾度となくあった。
──こんなとき、自分が何者なのかを考える。
記憶の一片でも
はがゆさと、己の正体の不気味さが強まるばかりだ。それでも陽は昇り、時は流れていく。止まってはいられない。
そんな事で考え込むのはまっぴらだ。私の意思は誰のものでもないのだから。
過去を振り返るなというのなら、私には前に進む事のみが許されている。
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