*這い寄る影

 カナンは遠ざかるシレアの背中を見つめて唇を噛んだ。

 彼の口から紡がれた言葉は好きでも嫌いでも、興味がないでもなく、なんて残酷なものなんだろう。

 彼の瞳には誰も映っていない。

 これから誰かを愛することも、待っている恋人も彼にはいないのだと、心が痛くなるほど伝わってきた。

 けれど、冷たい人じゃない。とても温かくて優しい。なのに、どうして?

 ひと掴みの希望もない事に落胆しながらも、彼ならばそれがどこかしっくりくると思える自分もいた。

 出会って間もないというのに何故だろう。接すれば接するほどに、感じる距離感は不可思議に揺らめいていた。


 ──部屋に戻ったシレアは、ベッドに寝ころび目を閉じて窓を叩く風の音に耳を傾ける。

 そうして暗闇の記憶をたぐれば、自分を呼ぶぼやけた影が浮かぶ。呼ぶ声は高くも低くもなく、何かに共鳴するように響いていて男か女かも解らない。

 拾われる前の記憶はいつもこうだ。自分がいた場所の片鱗さえ見えてこない。

 二十年ほど前、西の辺境にある村の長老は久しぶりに遠出をして大きな街に出掛けた。そのとき、泣きもせず一人でいた幼いシレアを見つけた。

 問いかけても自分の名前と歳しか覚えておらず、しばらく街に滞在したもののシレアを探している者は見つけられなかった。

 比較的、大きな街では捨て子など珍しくはない。だからといって見つけてしまった以上、このままにしておくわけにもいかないと彼を集落に連れ帰った。

 長老は感情をあまり示さない幼児を少し怪訝に感じたが、シレアは正しく成長した。長老はそう信じている。

 いくら記憶をたぐっても見いだせないもどかしさ。今ではもう、どうでもいいとも思える。過去の記憶があろうと無かろうと前に進むしかないのなら、気にしていても仕方がない。

 元来、引きずらない性格の彼は心に留めつつも、それに囚われずに生きてきた。

「ん?」

 そんな事をうつらうつらと考えていたシレアだったが、妙な気配に眉を寄せる。わずかずつだが強くなる気配に警戒しつつ、脇に置いてある剣に手を伸ばす。

 剣の柄を握ると上半身を起き上げ、少しずつ形を成す黒い霧を見つめた。それは次第に人の形を成し、開いた目は黄金色に輝いてシレアを捉える。

[辺境の戦士よ]

 低く、くぐもった声はあまりにもぼやけていて性別の判別は出来そうにない。

「私に用か」

 怯えることもなく見据える。黒い影はシレアを見定めるようにしばらく沈黙していた。

 しかし、

[お前にはこの先、厳しい試練が待ちかまえている]

 影はゆうゆりと右手をもたげると青年を差した。

[旅は、お前をさらなる深淵へといざなうであろう。その美しい姿が醜く歪むさまは、さぞ見ものだ]

 そう言った口元に笑みが浮かんだ気がした。

 影はそれだけ言うと満足したのか霧が晴れるようにかき消えた。しばらくして気配も失せたと確認し剣を持つ手をゆるめる。

「どういう手合いか」

 溜息を吐き、ナイトテーブルのピッチャーから真水をグラスに注いで一気に飲み干す。敵意は感じられなかったが、あまり良い言葉ではない。

「旅は──か」

 つまりは「旅を続けるなら心せよ」という事だろうか。シレアはそれに、剣を握る手を強める。

 旅を続けていれば数々の苦難が襲うのは当然だ。今更、そのような言葉で旅を終らせるつもりはない。この瞬間に死んだとしても、悔いなどあるものか。

 どちらかと言えば、あの影の言葉は願ったりだ。このまま平穏な旅などつまらない事このうえもない。

 そう納得付けて剣から手を離す。

「とりあえず」

 壁に置いてある自分の荷物を見やると再び剣を掴んで腰に提げ、ドアに手をかけた。

「旅の準備だ」

 険しい道のりとなるならばなおのこと、入念な準備が必要だ。むしろ報告してくれたことに感謝したくもなる。


 ──旅慣れたシレアは準備をさっさと済ませてしまい、明日の朝に発つことを宿の主に告げた。

「え? もう発たれるのですか?」

 まだ三日目だというのに……。食堂で一人、帳簿をつけていたカナンは残念そうに見上げた。

 彼は放浪者アウトローで流れ戦士なのだから、いつかは旅に出るのは当然だけれど唐突な別れにやはり戸惑ってしまう。

「本当ならば今日にでも発つつもりだった」

 そう言われると、なんだかホッとしてしまう。しかし、発つことに代わりはなく一日延びたというだけだ。

 まだここにいるのだという嬉しさと、どうせいなくなるのに返って苦しみが増すだけじゃないかという思いに手が震える。

 引き留めたい──でも、彼を止める理由がない。私は彼の家族でも親類でも、ましてや恋人でもない。

 いいえ、彼にはそんなものがあっとしても、決して留まることはないんだわ。旅立つ準備のため、部屋に戻っていくシレアの後ろ姿にまた唇を噛んだ。

 部屋に戻ったシレアは明日、すぐに発てるように荷物をまとめていく。

 先ほどの影の言葉が気にならないと言えば嘘になるが、厳しい試練とやらを確かめたい衝動にもかられている。

 一週間ほどを予定していた滞在がこうも早くに崩されるとは残念でありながらもシレアの口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。


 ──翌朝

「世話になった」

「良い旅路を」

 宿を発つ旅人に、カナンはいつもの言葉をかける。いつもなら元気に笑って言えるのに、今は旅立つ彼を嫌な気分にさせないようにと必死で顔を作っている。

 カナンは軽く手を上げて遠ざかるシレアを見つめて、何か得体の知れない不安が胸を過ぎるのを感じた。

 でもきっと、これは私の我が儘な感情が生み出したものなんだと言い聞かせ、シレアの旅の無事を祈った。

 シレアは街の外につながる門を一瞥し、空を仰いでソーズワースの首をさする。

 胸の奥を締め付けてくるこの重たい気配に、他の人々は気づいているだろうか。それとも、気づいているのはシレアだけなのか。

 足下からひたひたと這い上がってくる、どす黒い意思は全てを飲み込もうとしている。しかしそれを知らしめる確実な証拠はなく、おぼろげな不安だけがシレアの胸を満たしていく。

 気掛かりだがどうしようもないと街を出て北に向かう。

 二日ほど経ったころ、目の前に深い森が広がった。枝をくねらせて生い茂る木々の隙間から様子を窺うと、それほど鬱蒼うっそうとしてはいないようだった。

 この森には、良からぬ魔物が棲んでいると聞いたことがある。その姿を誰も見たことはないというが一体、どんな魔物なのか。

 シレアは流れ戦士のなかでもあまり多くない魔法戦士ウィグシャフタだ。鉄などの金属は魔法には邪魔になる事が多く、重たい装備は詠唱の妨げにもなる。

 そのための軽装でもあり、魔法を放つにはある程度の身軽さも必要とされる。

 とはいえ、シレアの装備は軽すぎるといってもいい。

 己の身体能力を最大限に活かした装備とも言えるが、それだけ身を危険に晒すことにもなる。

 集落では彼に勝てる者はおらず、もちろんそれが旅の全てで通用するとも思ってはいない。

 素早い動きと繊細な剣さばきは流れるように敵を切り裂き、剣舞は見事なまでに美しく見る者を魅了する。

 その容姿に「専属で雇いたい」と持ちかける領主が今までに何人もいたが、彼はそれをことごとく断ってきた。

 専属での雇用なら多額の報酬が得られ、それなりの生活が見込める。けれども、それはシレアが望むものじゃない。

 彼が本当に求めているものは──

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