第29話 のすたるじあ

「この写真要らないのなら貰いますね」


 写真を持って勉強のために船長室へと立ち去っていくチュンリーの後姿を眺めれば、他の女に気を取られている俺の姿をルドルが観察していた。彼女から見られているのに気が付いた俺は不穏な心境に幾ばくか染まる。


「……なぁルドル」

「――エース」

 ルドルの名前を口にすると、即座に発言を被せ止め立てた。

「ルドルは今回の件には関与したくありませーん。ルドルはこの島をいっそのこと嫌ってしまおうって決意したから」


 彼女の鋭い洞察力と執拗極まりない嫉妬心、前者は感服する程で、後者は俺の憶測である。

 ルドルは物珍しい聖人だ。聖人は義務教育で『聖人君子』に昇華するための教養を授かる。その影響はみんな少なからずあるだろう。ルドルのように極端に好き嫌いを表明する聖人はそういない。


「ルドルお姉さんそれよりも、ホームシックになっちゃった」

「ふーん、俺は……」

 俺とルドルはラウンジから甲板に出て、遠い雲を目で追い、遥か彼方の聖地へと想いを馳せていた。


「……電話しよ。お母さんに」

 ルドルは普段嫌っている母親に電話するらしい。いくら言葉で嫌悪しても、周りとの関係を彼女は擦り合わせている。そんな大人の一面も見える彼女を、俺はやはり好きだと思う。


『しもしも? もしもしを下から読めば、しもしも?』

「やっほー巴ちゃん、元気?」

 しかしこの女は上げてから落とす。しかし、それは俺の早とちりで『ぐうの音』も出ない。俺は嘆息を吐きながら、しょうがない、メノウさんには俺の方から電話するかと行動を起こした。


 壬生メノウ――ルドルの母親で父と同居していて、家事を慎ましく健気にも毎日こなすお方だ。だがメノウさんのケータイに電話し、しばらくコールが鳴り続けても彼女は電話に出なかった。恐らく、と俺はある推測を立て今度は父の家宅の固定電話に掛けてみた。


『はい、もしもし』

「お久しぶりですメノウさん、エースです」


 推測通り、メノウさんはケータイを着信音が聴こえない場所、寝室に寝かせきりのタイプの人だった。彼女は一聞『良妻賢母』なのだが、母や周囲の人間が認めるほど父同様に淫奔な人格をしているらしい。


『あぁ、エースくんでしたか。大見得切った割には、いえなんでも』

 メノウさんは未だ世界の最果てに辿り着いてない俺に揶揄やゆを送って来た。

 壮大な夢を掲げはしたが、期日は断言してなかったはず。

「いえ、確かに大見得を切ったように思われてるでしょうが、何分この世の広さは、そこら辺は察してください」


『では、改めて、いつ頃ですか? 沖田くんがこの世に甦る時期は?』

 俺はその電話を聞かれたくなくて、ルドルと距離を取った。

 俺は世界の最果てに辿り着いたら、『あること』をしようと心に決めてある。


「俺が彼女にプロポーズする時ですよ」

『ほほーう、ルドルのこと宜しくお願いしますね』

 今変に代名詞使ったから選択肢に余地が残ってしまった。偶然の産物とは漁夫の利である。甲板では朧ブルースが掛かり、視界の端ではジギルがたわわな胸の果実を誇っていた。

 ジギルか……ま、ありだな。ぬひゃひゃひゃひゃ、むほっ、むっほほぁっー!


「自己嫌悪してしまうんです。時々俺が俺じゃなくなっていくのが、怖くて」

『ほほーう、エースくんならその内、私を抱いてくれますか?』


 本当にメノウさんはルドルや母さんが言っていた通りの人格だった。彼女が男を寝所へ誘う時は蠱惑的な声色を使い分けて男の鼓膜を麻痺させる。気を許す相手なら誰とだって寝るような卑しい女だと、ルドルは言っていた。だから嫌いだと。


『ルドルはお元気ですか?』

「えぇま、この船で一番元気そうですよ」

『ほほーう……それは良きことですね』


「ルドルお姉さんの、横槍」

 未熟な俺は忍び寄るルドルに気が付けなかった。

「……あのさ母さん、困るんだよねぇ、エースに変なこと吹き込まれたら」

『はぅぅぅ、ご、誤解なのにぃぃ』


「貴方はずっとそこで独り寂しく生きればといいと思いますよ。たまにはエースと顔でも出しますから」

『えぇ、そちらもお元気で、道中気を付けてくださいね』

「はいはい。はいはいはいお疲れさん」

 ルドルは母親に対して『北風と太陽』の様相を呈していた。


「嫌なんだよな、あの人が肉親であることが。父さんもそうだけど、私は父親母親と両親を忌まわしく思ってる。エースは違う?」


 俺に同意を求めないで欲しい。俺は母さんをそんな風に思ったことはない。言ってしまえば、俺とルドルの家庭は大差ないのだ。だけど母さんから向けられた愛情を今でも大切にしている。


「ルドルにはそんな覚えはないのか?」

 メノウさんだって、女としては浮薄ふはくでも、母としては賢母だったと思う。

 俺の母同様に我が子に愛情を掛けてやるのに、不器用ではないだろう。

「……――」


 ルドルは視線を空へ泳がせた。

 彼女の視線の先には遠い故郷があって、母が待っている。

 俺は彼女のノスタルジックな憂い顔に、しばらく見惚れていた。

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