第12話 此処は

 海とは全ての生命の源だ。

 目前には、見渡す限りの青く眩い大海原がその尊厳そんげんを示している。

「…………」

 小雪さんが絶海の景観を眺めて物憂ものうげにぼんやりとしていた。

「絵になりますね」


 我ながらキザっぽいことを言いつつ、彼女の隣に腰掛けた。

「……私達は、もっとお互いのことを知るべきなんでしょうね。共通認識を持って、お互いに労わり合いましょう。君とはそんな関係でありたい」

 彼女は慈愛じあい精神の延長で、俺を愛したいと言っているようだ。


 小雪さんの腰元まで伸びている優美な髪が、毛先にちょっとだけ砂が付いていた。

 ルドルが小雪さんの傍に立ち「小雪、そろそろ切ってあげようか?」とく。

 理容師がいないこの島では、髪を切るにも独自の創意工夫がいる。


 小雪さんはみんなの髪を切ってあげる役割だったらしい。

「今はまだいいわ」

 前髪を確かめた後、小雪さんはルドルの申し出を断る。


「共通認識って言いましたね、なら小雪さんは以前どんなことを?」

 俺は彼女から愛されたいがために、もしかしたら無粋なことを訊いている。


「鳳凰座に居た頃は、気分が良かった……鳳凰座の歯車になることはね? 快感なの。私も当時は女帝じょていの異名を誇ってたぐらい、酷く傲慢ごうまんな人間だった」

 現在の彼女は献身的でも野心的でもない。

 俺の目に小雪さんはうつろに映っていた。

「その時働いた罪作りな行いが、私に天罰を報いて、ここに島流しにされたんです」


 俺は彼女の言う、『女帝』だった頃の妄想をした。


 彼女は周囲の人間を見下し傲然屹立ごうぜんきつりつと毎日怒声を荒げる。だけどきっと、中には小雪さんの凛とした姿に憧れる部下も居た。その類の一部が小雪さんに女帝という異名を贈ったはずだから。

 純白のヒールを映えらせて、鏡面きょうめん張りの床に甲高い音を鳴らして出社する。極めて優雅ゆうがに。小雪さんが出社したタイミングで陰口かげぐちまじりの噂話が起これば、それが新入社員の通例なのだ。


「小雪さんが知ってるだけでも、どんな噂されてました?」

「非情な奴、酷薄こくはく過ぎる強引な仕事、無能。七光りなんてのも当然あったかな」

 小雪さんは過去をせるように前を向いていた。


 潮騒が彼女の存在をより意識的なものにして行く。

 それはあわく、抽象的で、だけど人はその光景にどこか呑まれる。

 傍観ぼうかんしているつもりがいつの間にか俺も呑まれていたようだ。

「私、諦められてるのかしら……」


 彼女は新入りが来たら、まず外界の情報を訊き出そうとする。

 今でも鳳凰座が彼女の行方を捜索しているのか、知りたがっている。

「……さぁ」

 朴念仁ぼくねんじんの俺が返す言葉は、無意識のうちに冷たいようだ。


 それに呼応して、彼女の口からは退廃たいはい的な言葉が返って来る。

「もう、駄目なのかしらね。もう……戻れない」

 言い訳の一つでも捻り出そうと思う、さっきの失言の挽回だ。


「小雪さん、それでも状況は好転して来てると思いませんか?」

「そう、よね。その通り」

「ひははははっ、メシウマ!」

 小雪さんの奥隣りに居るルドルが雰囲気をぶち壊しにかかる。


「ルドル、昨日は気をつかってあげたでしょ?」

「はいはい、じゃあ、ゆっくりして、ちょーだい」

 それで済ましてしまうのか。

 存外、俺も将来父のようにハーレムを持てるかも知れない。


「昨日はルドルとどんな睦言むつごとを交わしたんです?」

 小雪さんは言葉で俺を手籠てごめにしようとして来た。

 あの時、小雪さんは何て言ってたっけ……。


                ☠ ✗ ☠


 部屋に戻り、今晩はルドル抜きで、小雪さんと二人きりで飲んでいる。

(誰か、居る)

 部屋の前に誰かの気配がした。

 ルドル? マオ? チュンリー? まずウェンディではないだろう。

 小雪さんはムードと、お酒に酔って女帝時代の彼女に戻っていた。


「何に気を取られている? 貴様、はっきりせんか」

 部屋の前に居る何者かは、中の様子を窺っているようだ。

「図らずも、私は貴様に惚れてしまった。でなければ誰がこんな無礼を許す、誰が貴様などとキスをすると言うのだ……貴方は私を抱いて、あの誓いを幾度となく思い出す」


 ――あの誓い?

 俺はこの人と何を誓った?

 彼女は俺の胸に顔を埋め、意味深な言葉を囀るさえずる


 今はただ、愛を口にすればいいだけなのではないか?

 そう言えば、俺の意識に独白がある。

 記憶が、昼から今にかけて抜け落ちている。

 思い返せば昨日もそうだったかも知れない。

 ただそれは酒に酩酊めいていしていただけなのかも知れない。


 あぁ、部屋の前で盗み聞きしている人物に有力な候補が浮かんできた――ブラッディー。

 ならば、お前に聞かせてやってもいい。

 俺と彼女が密室で及ぶ行為を、行為で漏れ出す淫靡いんびあえぎを。

 そうやって、彼女の心を乱し、部屋の前に居る誰かの心さえも、乱してやろう。


 潮騒の音に紛れて、空が琥珀色こはくいろに染まり、太陽は蒼く輝いていた。

 海は暗色としている。

「……」

 酷い頭痛で、状況把握が追いつかなかった。


 ここはどこだ?


 懐疑かいぎ的な自然色に、拒絶反応きょぜつはんのうから現実逃避したくなる。

 何が嫌かって、あの不吉な黒だ。漆黒しっこくに染められた大海が怖い。

 飴色あめいろの空に浮かぶ雲の中には化石が存在していた、あれは例のヌシではないか?

「……」


 ここはどこだ?


 世界の終末の様な光景の中でも、彼女の紅色は際立きわだっていた。

 真紅のドレスを纏った、英雄のめかけだった女。

「――ここはあの世です」

 ブラッディー、彼女に目を付けられたら最後、その得物は必ず、闇に葬られる。

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