第21話 -少女の最初で最後の想い-

 静かだった――

 耳が痛くなる程の静けさ。聴こえるのは桜の枝を揺らす風のみ。

 そんな中俺は一人歓喜していた。

 表情には出さない。麻衣さんには気づかれない様に心の中で歓喜する。

 矢丘の魔女である眞子が投げかけた最後の問い――麻衣さんが妹である杏璃ちゃんを助ける為の最後の選定。




 ――それは妹である八舞杏璃との記憶を全て失うか。もしくは、君が想い焦がれる想い人――神谷零二との記憶を全て失うか。




 なんて簡単な二択だろうか。迷うことなんて有り得なかった。

 麻衣さんが俺を想っていてくれたことに気付いたから俺は喜んでいたのではない。


 生と死の狭間で耐え続けている杏璃ちゃんを救うための代償が俺との記憶を差し出すだけで叶えられることに歓喜していたのだ。

 元々杏璃ちゃんを救うためには莫大な時間と資金が必要だった。それに加え、不幸にも杏璃ちゃんは今意識不明に陥っていた。

 恐らくは天文学的な確立で運よくドナーが見つかったとしても弱り切った身体と精神では耐えきれないはずだった。そして致命的に時間も足りていない。


 そんな危機的状況が俺との記憶を代償にすることで全て解決することが出来る。

 これを喜ばずして何を喜ぶと言うんだ?

 麻衣さんだって覚悟していたはずだ。命でも記憶でも全て差し出すと――


 それなのに。

 俺が見た彼女の姿は異常だった。


「ぇ……嘘……嘘だよ……何で……嫌ぁぁぁ……」


 青白さを通り越し生気すら感じさせない表情で目を見開いていた。

 両手で自分を抱きしめ震え続ける麻衣さんを見た俺はひどく動揺していた。

 何をしている!?眞子は悩むなと言った。だというのに何で答えないんだ!?

 俺と出会ったたった2週間程度の記憶を差し出せば杏璃ちゃんは救われるんだぞ!?

 何を悩む必要があるんだよ!!


「ま――」


「零二。君は黙れ。それ以上余計なことを喋ろうものなら今すぐにボクはこの場から消え去る。それでもいいのなら好きなだけ喋るといいさ」


 叫びかけた俺を茉子が有無を言わさぬ威圧感で遮ってくる。

 嘘だろ……なんて眼をしているんだよ……

 眞子の表情は無だった。先までの不敵な笑みもなく。ただ魔女としての責務を果たす為の唯の人形の様に。


「八舞麻衣。君は何故答えない?どちらかを選ぶだけで君の妹は今すぐに助かるのだよ。否――助かるという言葉も語弊があるね。君が代償となるモノを選んだ瞬間に契約は成立する。その契約は八舞杏璃のありとあらゆる病を消し去るものだ。それだというのに君はこの選択を選ばないと言うのか?」


「ち、違……何で……ぅ……ぅぁ、嫌だよ……どっちも忘れたくないよ……」


「では君の願いは永遠に叶わない。それで良ければ今すぐにここから去りたまえ。……差し出す物も選べない愚者には誰も手を差し伸べないと心得るがいいさ」


 これは誰だ……

 俺の目の前で麻衣さんを追い詰めるこの魔女は誰なんだ……


 俺は勘違いしていた。

 言葉ではどう言っても眞子は麻衣さんを助けてくれるのだと。

 だが、言葉を口に出来ない麻衣さんを前に眞子は冷徹に言い放った。本気だ――眞子は本気で麻衣さんを見捨てようとしている。

 甘く見ていた。眞子は正真正銘本物の魔女なんだと。記憶の追憶で眞子の生涯を知った程度で俺が眞子の事を知り得る訳がなかったんだ。

 蔑まれ恐れられ続けた人間が甘い訳がなかった。今の眞子に俺の言葉は何も通じない。俺が何か言おうモノなら眞子は本当にこの場から消える。

 駄目だ……そんなの駄目なんだ。

 こんな結末誰も喜ばない……くそ。叫びたい……俺を差し出せと麻衣さんに言いたかった。

 何でこんなにも麻衣さんは悩んでいるんだ。

 確かにこの矢丘で麻衣さんの中心に俺という存在がいたのかもしれない。

 俺自身今の今まで知らなかったがそんな俺に麻衣さんは惹かれていたのかもしれない。

 でも、その記憶と麻衣さんが杏璃ちゃんと築いた記憶。その二つは比べることが出来ない程のものなんじゃないのか?


 ギリッ……

 歯を食いしばった衝撃で唇が大きく裂けて血が溢れる。

 そんな俺の表情を麻衣さんは見ていた。

 絶望の淵に立たされた者の眼を俺は初めて見たと思う。

 立っていることが出来ずに座り込んでしまった麻衣さんを俺は瞳に意志を込めて見つめ続けた。

 頼む。こんな所で立ち止まらないでくれ!!君がここで諦めてしまうと俺は一生自分を許せなくなる。そんな気持ちを麻衣さんに持ちたくないんだよ!!!


 涙をポロポロと流し続ける麻衣さん。

 可愛らしいその顔はそれはひどい有様だった。

 泣き腫らして赤くなった瞳。頬は常に濡れて月明かりを照らし続けていた。

 けれど彼女は一度鼻をすすると人差し指で涙を拭い立ち上がった。

 そこで俺は気づく。その双眸には意志が籠っていた。覚悟を決めた表情を眞子へと向ける麻衣さん。


「零二……君……ごめんなさい。ワタシ間違ってた。皆本気なのにこんなことで揺らぐだなんて眞子さんに呆れられて当然だよ。……眞子さん。いえ、矢丘に棲まう魔女様――」


「決意は固まったのかい?」


「はい。決めました。ですがお願いします。最後に――その記憶を差し出す前にお願いします。彼と……零二君とお話をさせて下さい。ワタシの最初で最後の気持ちをこの世界に残させて頂けませんか?」


「………………」


「駄目……なんでしょうか?……そうですよね。こんなこと許される訳が――」


「いいよ」


「え?」


 初めてこの場で眞子の言葉から感情を感じた。


「いいよと言ったんだ。君の覚悟は感じた。君の想いを止める愚行は魔女であるボクでさえ出来はしないさ。君が想うがままに伝えるといいさ。だけど、時間がない事は理解しておくことだね。ボクとの契約の為じゃない。君の妹の天命が尽きる前に――」


「ッ――!!」


 眞子の言葉と同時に麻衣さんが振り返る。

 約5メートル。俺と麻衣さんとの間に離れた距離だった。


「――零二君」


「……あぁ」


「まさかこんなに早く想いを告げることになるだなんて思いもしなかったです。ワタシね、零二君の事が好きだったんだ」


「それは……初耳だな。俺なんかを好きになるだなんて麻衣さんも物好きだよな」


 この会話を誰にも無粋だと言わせない。


「そんなことないよ?零二君はワタシにとって童話の王子様なんて比べ物にならないぐらい助けてくれたんだよ。最初に車から助けてくれた。次にワタシの想いを黙って聞いてくれた。ワタシの相談を嫌な顔せずに手伝ってくれた。あの時自然公園へ行った時の事だけど実はワタシにとって生まれて初めてのデートだったんだよ?佐奈ちゃんには悪いと思ったけど本当は二人っきりが良かったってちょっと思っちゃった。初めて握った零二君の温かい手の感触は今でも思い返せるよ。そして次の日にはあの大きな桜のある場所で零二君、眞子さんと一緒に居たよね。その時漸く違和感に気付いた。二人が一緒に座って話しているのを見た時胸の内がズキンと痛かった。あの時から……ううん。きっと最初からワタシは零二君に惹かれていたんだと思うの。零二君と佐奈ちゃんの為に作ったお弁当を二つとも食べてくれた時とても嬉しかった。気づいてたかな?零二君のお弁当だけワタシ愛情いっぱい込めてたんだよ?」


「…………」


 辞めろ……もう辞めてくれ……


「理由は分からなかったけど佐奈ちゃんがワタシ達を避けていたのを取り持ってくれたのも零二君だった。ごめんね、今日も佐奈ちゃんと何か大事なお話してたんだよね……邪魔しちゃいけないと思って部室で資料を読んでいた時にお母さんから電話があったの。ワタシ信じられなかった。でもね……その時に真っ先に浮かんできたのが零二君だったの。ワタシ気付くのが遅かった。その時になってようやく零二君の事が大好きなんだって気付いた。杏璃との想いに負けないぐらいワタシの中を零二君という存在が埋め尽くしていったの。どうすればいいか分からなくて、それに合わさって知らない男の子に話しかけられて腕を引かれた時とても怖かった。けど、そんな時も零二君はワタシを助けてくれた。ねぇ、零二君……あなたはワタシにとってとても、とーっても大事な存在になってたんだ。零二君と眞子さんの関係が何だろうと――ね」


「……もう、やめてくれよ……」


 何でこんなにも俺を想ってくれてるんだ。

 俺は麻衣さんに気に入られるために手伝ってたんじゃない。

 麻衣さんの妹を助けたいという気持ちに惹かれたんだから手伝ったんだ!!


「やっぱり優しいね零二君。ワタシの為に泣いてくれるなんて……ぅぇっ……ねぇ、零二……君。お願い。最後にもう一度だけ抱きしめて欲しい……です」


 その瞬間俺達の距離は零となった。

 はにかむ麻衣さんの背中へと手を回し引き寄せ、無我夢中に抱きしめた。

 何で想いを告げた少女と告げられた少年共々涙を流しながら抱き合わなきゃいけないんだ。

 それなのに俺の意志とは関係なしに涙が止まらなかった。

 彼女の想いを俺は止められない。止めることなんて出来なかった。


「んっ…………」


 二人の唇と唇が静かに重なる。

 初めてのキスは涙の味がした。

 10秒にも満たない短い時間を得て淫靡に繋がる二人の唾液が離れた俺と麻衣さんの唇の間を線で繋ぎ、そして切れた。


「え、えへへ。キスってしょっぱいんだね」


「麻衣さん、俺は……君のことが――」


「……駄目だよ」


「…………ぇ」


 俺が麻衣さんの気持ちに答えようとしたその時、麻衣さんは俺の体をゆっくりと突き放した。

 何で……何で笑いながら泣いてるんだよ!!!


「ワタシに恋しちゃ駄目なんだよ。本当にごめんね。残酷な事を言ってるってこととっても理解してる。勝手に想いを告げてその想いに答えないでだなんてひどい女だよね。そして、想いを告げたことすらワタシは忘れる……」


「麻衣!?待て……まだ待ってくれ!!」


「零二君ならすぐにお似合いの人見つかるよ!!佐奈ちゃんもいるし眞子さんもいるしね?だから……零二君の事が大好きな女の子がいた。それだけでいいの。頭の片隅に覚えて時々思い出してくれると嬉しいな」


 麻衣さんの少し伸びたセミウェットヘアの髪が風に靡く。

 涙で視界が奪われる。

 嫌だ……こんな悲しい別れ方俺は絶対に嫌だった!!

 だから俺は叫んだ。この世界に轟く様な大声で、


「忘れない!!俺は麻衣の事を絶対に忘れない!!そして、もう一度お前と仲良くなってやる!!!今のお前が羨ましがるぐらい八舞麻衣と仲良くなってやるからな!!!」


「ふふ、有り難う零二君。やっぱり大好きだよ。…………眞子さん。待ってくれて有難う。これで漸く決心できました。だから――お願いします。私の中にある零二君との記憶で杏璃を助けてください!!」


「承知した。大丈夫。心配することはないさ。君の願いはこのボクが聞き入れた」


 その瞬間――

 世界が光り輝いた。違う。それは幻想。幻覚。幻視……

 世界に何も変化はない。変化を感じたのは内なる存在。眞子と繋がった魂だった。

 身体全体に熱が産まれる。しかし、それも一瞬の事。ソレは一瞬で弾け世界へと放出された。

 俺は直感した。今この瞬間杏璃ちゃんの容体が安定したのだと。恐らく検査をすれば皆奇跡が起きたと驚くことだろう。健康体の心臓が彼女にはあるのだから。


「ぁ――……」


「っ!?麻衣さん!!」


「君の願いは叶った。今はゆっくり眠るといいよ。起きた時には新しい未来が待っているのだから」


「有難う……眞子、さん……零二……君。ばい……ばい」


 魂の抜けた人形の様に崩れる麻衣さんを抱き留める。

 安らかな笑みだった。彼女自身は杏璃ちゃんが助かったのかどうか分からないと言うのに助かったのだと信じて疑わない微笑みを浮かべていた。


 そして終わった。一つの恋が――

 俺と麻衣さんが紡いだ記憶。その想いが彼女から失われたのだった。


「ぁ……ぅぁ……ぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああ!!!!!」


 分かってた。分かってたのに涙が止まらなかった。

 こんな想いになることを俺は最初歓喜したというのか!?

 麻衣さんがどれだけ俺を想っていたのか。俺の行動がどれだけ麻衣さんの救いとなっていたのか。

 自分の記憶が喪われてしまったかのようにポッカリと空いてしまった感覚に陥る。

 俺は泣いた。泣き続けた。涙が枯れるまで永遠と……


 だけど、その行動も予想外の存在の発言により止まることとなる。




「だから言ったじゃないですか。魔女に肩入れすると痛い目みますよ、って。あ、ごめんなさい。言う前にいなくなっちゃったんでした」




 土を踏みしめながら近寄る足音。

 幼げながらに恨みのこもった声。

 今更その人物が誰だなんて考える必要もなかった。


「森羅…………?」


「あは。佐奈の言うこと聞かないからこんなことになるんですよ零二君」


 何故ここに――だとか、何でいるんだ――といった気持ちは湧かなかった。




 ――森羅佐奈。




 魔女への恨みを持った少女が今、魔女の棲まうこの世界へと降り立っていた。

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