第10話 あたし達はバイ買した

 あたしは、なんて単細胞なんだろう。


 相手が強いことはわかっていたのに、自分の攻撃が避けられるだなんて考えもしなかった。

 茫然と突っ立つあたしに、ハクリはがっかりした様子で声をかける。


「まあ、あんたが何をしたかったのかは知らんが、失敗に終わったみたいだな」


 彼女は「はぁ」とため息を吐き、あたしの耳元に顔を寄せてきた。


「しかし、がっかりだよ。最初はさ、面白かったんだぜ? お嬢ちゃんみたいな女の子がオレを買いたいって言い出した時、魔王を倒してって言った時はさ。でも、あんたはその金でオレを殴りつけよとした……こんな不義理ってないだろう?」


 有無を言わせぬ彼女の語り口調にあたしは沈黙し、体が震えあがる。

 ついには、立っていられなくなり、その場にひざまずいてしまった。

 今のあたしはまるで、ハクリの言葉という刃に喉を掻き切られたセイレーンのようだ。


「おっ? どうしたお嬢ちゃん……膝ついて謝る気になったかい? そいつは良いことだ。さあ『ごめんなさい』と言ってみな。ちゃんと声に出せたら、許してやるよ」


 そう言ってあたしを見つめるハクリの視線が槍のように体を貫く。

 だが、恐怖に支配されたあたしは『ごめんなさい』どころか、声で一音を発することさえできそうにない。


「あっ――ごっ……」


 なんとか喉から声が漏れ出るが、それは泥酔したオークのいびきにすら劣る汚い音だった。


 すると、ハクリは静かに首を振る。


 それは、彼女のあたしに対するまぎれもない見限りだった。


「じゃあ、バイバイ。お嬢さん」


 次の瞬間、どこから取り出したのかもわからない短刀がハクリの手の中に滑り込んでいる。

 短刀の切っ先は、すぐさまあたしの喉元めがけて突き上げられた――しかしっ!


「やめてえええええっ!」


 悲痛な叫び声に、ピタリとハクリの手が止まる。

 短刀は針で突いたように血の玉を切っ先につくりながら、あたしの喉元に突き付けられていた。


 まだ生きている。


 それが、未だ続く死への恐怖によって実感できたあたしは、声のした方へと視線を向けた。


 あの声は、確かにアルテミだった。


 だが――


「その人を、離してください」


 ――目に映った彼女の姿は、あたしの知るアルテミではなかった。


 あたしが見たのは足のないアルテミだった。

 代わりに、美しい鱗をした魚の尾を持つアルテミだった。

 今彼女は、比喩でもなんでもなく……人魚そのものだったのだ。


 そして、あたしは不意に思い出す。


 彼女が、自分のお金を増やそうとして自らの手から生み出した……悪臭を放つ人魚の鱗のような何かのことを。


「あれは……本当に鱗だったんだ」


 思わず、口から言葉がこぼれた。

 今、この階にいる誰もがアルテミのことを見ている。

 それは、ハクリも例外ではなかった。


「これは、驚いた……人魚が人間に混じって何をしてる?」

「あなたには、関係のないことです」


 きっぱりというアルテミを、ハクリは鼻で笑う。


「関係なくはないさ。モンスターを連れまわすような道楽お嬢様に、オレは買われそうになったんだからよおおっ!」


 そう口にした直後、ハクリはあたしを投げ捨てるように解放し、アルテミに斬りかかった。

 二人の間合いは一瞬で縮まり、ハクリの放った斬撃は雷のように速い。


 だが、それはアルテミには届かなかった。


 アルテミの体がハクリによって切り裂かれると思った瞬間、アルテミの周囲から大量の水が間歇泉かんけつせんのように溢れだす。

 その水圧によって、ハクリの握る短刀は吹き飛ばされた。


 更に、溢れ出た水はみるみるうちに蛇のような姿をかたどっていく。


 あれよあれよという間に2階は水浸しになり、蛇をかたどった水流は巨人の腕のように太い大蛇になっていった。


 次の瞬間、その大蛇はハクリに襲い掛かる。


 水の大蛇は、まるでハクリだけに降りかかった天災のように彼女を呑み込み、壁に打ち付け、川に沈んだ木の葉のごとく彼女をいたぶった。


 そんな、人間の慈悲など一片も感じられぬ光景は、2階が浸水し切った頃にようやく収まる。


 その後、アルテミはゆっくりと尾ひれを動かし、泳いであたしの傍に近寄った。

 彼女は何も言わずに気絶したハクリを差し出す。

 あたしは、未だに手に持っていた札束の入ったかばんをハクリの体にこつんとぶつけ……。


 そして――


トラディショナル・コーナー・イン有無を言わせぬ買収行為……」


 ――3億2000万の女を、買収した。


「買収、完了……」




 もう、アルテミの周りから水は溢れていなかった。

 2階の水位もみるみるうちに下がっていく。

 おそらく階段を通じて水が階下に勢いよく流れているのだろう。

 その証拠に、階下から「水がああ」「書類がああ」「商品がああ」という叫びが聞こえてきた。


 そんな中、アルテミは人間の脚を……再びその身に模していた。


「人魚だったんだな」


 この事実だけを、あたしは早急に理解する。


「人魚が、人の形を模して……偽装していたから購入額がわからなかったんだな」


 アルテミはモンスターだった。


「あたしの能力は……人間の金額を見て、人間を買収するものだった。けど、人間の姿を模したアルテミを誤認して、でも人間だと認識し切れず、金額の代わりに『購入不可』を見たんだな」


 この事実は、すぐさま受け止めるには少々重すぎた。

 あたしはこの問題を受け止めきれず、気付けばアルテミから視線を外している。


 すると、すぐ傍であたし達を見つめるリコリスを見つけた。


 彼女はあたしとアルテミを交互に見比べ、今にも泣きそうな顔をしている……。

 いや……泣きそうな顔をしているのはリコリスだけではない筈だ。


 でも――


「ごめんなさい……」


 ――そう言って、静かにこの場を去ろうとするその子に……あたしはかける言葉が見つからなかった。

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