ヴァイオレント・ヴァイオレンス

くすり

 

「ほら! もう少しでしょ? もう一回、つぎはぜったい取れるからっ!」

「あのさ……伊大知いおちさん、さすがにそろそろ諦めない? もう一万円も突っ込んでるんだよ? UFOキャッチャーは貯金箱じゃないよ?」

 隣で地団駄を踏んでいる彼女に苦笑いをかけてぼくは言った。我ながらへらへらした笑い。

「バカじゃないの!? あんた、言うに事欠いて機械のせいにするわけ! 取れないのはあんたの技術不足でしょうがっ!! バカが!! このバカ野郎が!! 反省しろっ! 反省しろっ!!」

 伊大知さんは、ぼくの恐るおそるの諫言に耳を貸すどころか、激昂してぼくの尻を蹴った。真っ赤な靴だ。彼女のお気に入りのブランドの、なんとかっていうデザイナーの一点ものの靴。

「痛いっ! 痛いから! わかった! ごめんなさいごめんなさいっ!! 続けるから、つぎは、つぎはぜったい取るから!!」

 ぼくが頭を床について謝って、ようやく伊大知さんは尻を蹴るのをやめてくれた。乱れた息を、額に浮いた汗をそのままに、彼女はお金をぼくに投げる。一万円札がひらひらと落ちた。

「……えっと、両替してくるね」

「早くしなさいよ!!」

 ぼくはじんじんする尻を押さえながら、近くの両替機へいそいそと歩いて行った。


 ぼくは伊大知さんの友達だ。

 まちがっても家畜とか、所有物とか、奴隷とかではない。ぼくは伊大知さんが好きで、伊大知さんもぼくを好いてくれてるんじゃないかと思う。

 伊大知さんは、まいにちぼくに暴力を振るう。ぼくに暴力を振るっているときの伊大知さんは、とても、とても嬉しそうな顔をしている。

 ぼくは、ぼくを殴る伊大知さんが好きだ。

 まちがえてほしくないのは、ぼくは決してマゾじゃないってこと。ひとよりも多少なり、痛みに強いことは否定できないけれど、殴られることは好きじゃない。むしろひとよりずっと暴力を受けることが嫌いだ。そのはずだ。

「何してんの? ぼうっとしてる暇があるなら、さっさと走って昼ご飯買ってきて!」

 昼休みの教室の席に座って考えごとをしていたぼくの耳を打ったのは、聞き慣れた怒声だった。ぼくは弾かれたように席を立った。


 セブンのドーナツとローストコーヒーしか口にしない伊大知さんのために、ぼくは昼休みの時間ほとんどを費やす。購買のセブンには肝心のコーヒーサーバーがないので、駅前まで行かなければならないからだ。

 なんだかんだ一年間やってきたぼくは偉い。その日も必然ぼくの昼ご飯は放課後になった。

 誰もいなくなった教室でひとりで食事をしていると、伊大知さんが入ってきた。あわてて弁当をしまおうとしたぼくを制止して、伊大知さんはぼくの目の前の机に座った。

「ご飯? おいしい? ねえ、おいしい?」

 伊大知さんの機嫌はいつもとちがっていささか良いようだった。

「うん……おいしいよ。伊大知さんは、どう? きょうもセブンだったけど、はは……」

 ぼくがそう言うと、伊大知さんは黙る。ぼくの言うほとんどのことは伊大知さんを苛立たせる。

 そんなことを考えていると伊大知さんは突然に席を立ち上がって、ぼくの机ににじり寄ってくる。ぼくはたじろぐ。伊大知さんは、ぼくの弁当をじっと見た。かと思うとおもむろに声を出す。

「これ……誰がつくったの?」

 一瞬、思考が止まって、すぐに弁当のことだと気がつく。ぼくはあわてて答えた。

「あ、ぼくだけど……」

 そう答えるよりはやく、伊大知さんはぼくの弁当をつかんで放り投げた。教室の隅にある燃えるゴミの箱めがけて。

 がしゃん、と音を立てて金属製の弁当箱がゴミ箱の中にすっぽり収まった。あまりに突然のことで、何も言えなかった。

「えっ……ちょっと、それ」

 ぼくが声を上げる間もなく、伊大知さんはぼくを殴っていた。腹や脇腹の柔らかい部分を狙ってくるので肉をえぐられるような痛みが断続的に続く。ぼくは思わずうずくまって痛みが止むのを待った。

 何分、何度殴られただろうか。ようやく痛みが引いて、ぼくが顔をあげると、伊大知さんは笑っていた。ゲラゲラと笑っていた。

「い、伊大知さ……」

 不意に激痛が走る。一瞬遅れて、腹に、蹴りを入れられたのだとわかった。思わず食べていた弁当の中身を、半固形のそれを吐き出す。喉に詰まってえづく。

 断続的に続く笑い声。ぼくは目眩に襲われて、必死で舌を噛んで意識を保った。しばらくして、笑い声が止む。ぼくはじっと床にうずくまったまま。見下されたまま。

 はっ、はっ、という息の音だけがやけに大きく響く教室の中で、永遠の一瞬が流れていた。

「……き、だよ……ぁは……っ、は……」

 やがて伊大知さんは教室を出て行った。ぼくはしばらく続く刺すような痛みで身動きができなかった。

 起き上がろうとして、また吐いた。もう胃には何も残っていないと思ったのに。

 ぼくはやっとの思いで立ち上がると、ゴミ箱の中から弁当箱を引っぱり出して、持ち帰った。

 家に帰る道でも、帰ったあとも、眠りにつくまでのあいだもずっと、ぼくの脳裏には伊大知さんの笑った顔だけが呪いのように焼き付いていた。

 満面の笑みを浮かべた、ほかの誰より綺麗な、伊大知さんの顔。その目からは、嘘みたいに、あふれた涙がぼろぼろこぼれていたから。


      ◯


 翌朝、目が覚めたぼくは全身に重さを感じた。なんとかして体温計で熱を測ると、八度五分ほどある。平熱は七度五分。

 体調不良だろうが、学校に行かなければ殴られる。それでも、さすがに体が動かなくて、ぼくは諦めて寝ることにした。

 いちおう事務室に欠席連絡を入れて毛布をかぶったぼくは、あまりにもすんなりと二度目の眠りについていた。

 そして、ひさしぶりに嫌な夢を見た。


 背中で両手の親指どうしを結束バンドで縛りつけられると、そのうえその状態で体を倒されると、転がることしかできなくなる。

 夢の中のぼくはきまってそうされている。誰がそうしたのか、ぼくは知っている。

 ぼくは何度もそのひとたちから殴られる。理由なんてなかった。ぼくには理解できなかった。ぼくはそのひとたちが何よりも恐かった。何度も泣いて、そのたびに殴られる。すぐにぼくは泣き止んで、やがて泣くことが体力を無駄にするだけのことだと知った。

 ぼくは彼らに殴られるためだけの、になっていた。そのことに何の疑問も抱かなくなるまで、そう時間はかからなかった。

 途方もない長い時間が過ぎて、ようやくぼくはみつけられ、叔父と叔母に預けられることになった。どちらも忙しく働いていて滅多に家には帰らないから、ほとんどぼくの一人暮らしになった。


 目覚めたとき、上に着ていたシャツは汗でぐっしょり濡れていた。けれど熱を測ると、一日寝て過ごしたからかすっかり熱は引いていた。

 今日は学校に行けそうだ、と思ったぼくは、身体の調子を確かめながら着替えて、準備をした。


      ◯


 ぼくと伊大知さんがはじめて会ったのは、高校一年の春。話しかけたのはぼくからだった。いまとなっては何を話したかも、はっきりとはおぼえていないけれど、初対面のはずの女の子を泣かせてしまったのがひどくショックで、そのときのことは忘れられそうにない。

 彼女は泣きながら、ぼくに言った。私を好きになれ、とそう言った。一方的に壁に押し付けられていた肩の痛みが懐かしい。

 その言葉は呪いよりも重かった。ぼくはその日から、伊大知さんと友達になった。


 一日ぶりに学校に行っても、変わったことはなかった。ぼくには伊大知さん以外に友達と呼べるようなひとはいないから、ぼくは誰とも話すことがなかった。

 放課後まで過ごして、妙だと思った。まいにち昼休みにはわざわざぼくを探して隣のクラスからやってくる、ぼくのたったひとりの友達が、その日に限って顔を見せてくれなかったから。

 きっと殴られるだろうな、と思いながらぼくはクラス替えしたばかりの、唯一の友達と別れてしまったそのクラスに向かった。

 その日、はじめてみた伊大知さんは泣きそうな顔をしていた。ぼくは思わず声をかけていた。

「あの……どうしたの?」

 伊大知さんは端から見てとれるくらいに怯えた様子で、ふるふると小刻みに震えていた。ぼくはあわてて問いただす。

「伊大知さん、大丈夫? 何かあったの?」

 机についた傷をじっと見つめたままの彼女の目には光がない。何故だかきょうはお気に入りの、はずの、真っ赤な靴を彼女は履いていなかった。ぼくはどうすることもできなくて途方にくれる。しばらく黙ったまま立ち尽くしていると、彼女は突然顔を上げてぼくを見た。

 ぼくは思わず身構える。けれどすぐあとに、いつもとは別の理由で、ぼくは身を凍らせた。

 ──まるで古い大木のうろのように、暗く澱んで濁りきった目。

「……た、すけて……ぃや、だ……たすけ……」

 ぼそり、ぼそりとこぼし続けるのは、助けをもとめる空虚な言葉。何を恐れているのか、何から逃れたいのか、その目には何も映らないから、それすらもわからない。

 不意に彼女は立ち上がって、ぼくにすがりついてきた。打って変わって必死な目だった。さっきまでは何も見ていなかった鈍色の瞳が、泣き叫ぶようにぼくだけを縛りつけていた。

 彼女の冷たい手がぼくの手を搦めとる。ぎょっとして見ると、その手のひらに黒い痣があった。ぼくの身体にあるのと、おんなじ痣だ。まいにちぼくを打ってできた痣だった。

 ぼくはそれを、何よりいとおしいと思った。

「……叩いて……ねぇ……ぉねがい、だから……わた、し……叩いて……ころして……」

 伊大知さんは、うわ言のように漏らす。ぼくの耳もとまでぎゅっと口を近づけて、震えた声で、繰り返す。ただ、傷つけてくれ、と。ただ、痛めつけてくれ、と。それだけをぼくに望んでいた。

 ──いつもの伊大知さんとは、まるで別人で。

「伊大知さん、ごめん……ぼくは、したくない。本当にごめん……叩いてあげられなくて、殺してあげられなくて、本当にごめん……」

 伊大知さんは失望したような顔でぼくを見るとしとしと涙を落とした。ぼくはただ、伊大知さんにすがられるまま、じっとそこに立っていた。

 しばらくして、彼女が泣き止むまで。


      ◯


「は? そんなことあるわけないでしょ! とうとうボケ始めたんじゃないの? 病院行けば? いや、手の施しようがないから病院に行っても仕方ないわよ! あんたみたいなのは死ななきゃダメ。ううん、死んでもダメ。バカは死んでも治らないって言うからね、あんたのはそのくらいの重症でしょ? どうしようもないクズ、生きてて恥ずかしくないの? ほらっ、死ね! 死ね!」

 いつものように蹴られて、妙に安心する。翌日ぼくは伊大知さんに何があったかを尋ねた。

 まあ、ぼくができることなんて、こうして殴られることぐらいなのだけれど。

「い、痛いって! ちょっ、待って! 死んじゃうから、死んじゃうから! 痛い! 死ぬ!」

 響く哄笑にいつも通りの伊大知さんを感じた。そうだ、これがぼくの知っている伊大知さん。

 一年間、それなりに親密に、いや、まいにち欠かさず殴られることを親密と呼べるならだけど、つきあってきたぼくと伊大知さんのあいだに、いままではあんなこと、一度としてなかった。

「でも、そっか。はあ、あんた私に縋りつかれるなんて夢みたわけね? ホント、気持ち悪いよ。なんなの? これだけまいにち、私に殴られて、……まさか、?」

 ぼくは息を詰まらせてしまう。伊大知さんの表情は変わらず、ひどく嘲笑的に歪められている。彼女はぼくを蹴りつけた。赤い靴。なんだろう、あの靴は。ひどく見覚えがあるけれど、どうしても思い出せない。いや、初めて見た。

「あはっ……! マゾなんだ? あんた、きっとマゾなんでしょう? 殴られて喜んでるんだよ、マゾじゃなくてなんなの? 気持ち悪い……あはっ、あはははっ! 気持ち悪い! 気持ち悪いのよ、あんたはっ!!」

 伊大知さんはいよいよもって絶好調だ。ぼくの言葉を挟む余地なんてない。けれど、こればかりは訂正しなきゃならない、と思った。ぼくがそうしたいと思ったから、そうしなきゃならない。

「ぼくは、マゾじゃないよ」

 痛みに顔を歪めてそう言うと、伊大知さんは、まるで信じられないという顔をする。

「は? いや、あんたはマゾでしょ。じゃなきゃ、いままで一年間も、私に殴られ続けてるわけがない。やつなら、殴りかかってくる女なんかとは仲良くしない。どころか殴り返してくるのよ? 人間ってそういうものなの! だから、あんたは人間じゃないの! わかった!?」

 伊大知さんはひどく楽しそうだった。そのくせどうしようもなく、悲しそうに見えた。彼女のなかには、相反するいくつもの感情が紛糾しているように思えた。ぼくは重ねる。

「ちがうよ……ちがうんだ」

「何がちがうっていうのよ? じゃあ、あんたはどうして私に、こんなに……こんなにされて! 黙ったままでいるのよッ!! そんな、平気な顔してんのよッ!!! 何考えてんのかわかんないのよッ!!!! あんたが、あんたが恐いよっ、どうしてこんなに……私を……!!!!!」

 彼女の声は次第に悲痛の響きを帯びて、少しずつ少しずつ、その表情は命を取り戻す。

 その続きを口にしようとした彼女は、心底からの恐怖に顔をひきつらせて、喉につまった言葉にえずいた。

「っ、ぐ、っう……うぅ……っ、ひっ……」

 ぼくはあわてて近寄って背中をさする。けれど伊大知さんはそれをいやがって、過敏に反応するとぼくを払いのけた。不意に加わった力にバランスを崩す。巻き添えを食うように、脱力していた伊大知さんも倒れこんだ。

 ぼくがあおむけに倒れて、伊大知さんは上から見下ろしている。彼女の、ぼくのよりも細い腕がぼくの肩の上で床について、彼女の体重を支えている。ひどく顔がちかい。長い睫毛の一本まで、細やかにみえる。ときおり、涙が落ちてぼくの頬を濡らす。くびすじにはうっすらと汗が浮かんでいて、肩までぎりぎりない伊大知さんの髪がぺったりとはりついていた。清潔なせっけんの香りが絶え間なく落ちてきた。

 彼女の涙は初めて見た。涙なんか流すところを彼女はぼくに晒さなかったはずだ。いや、本当にそうだったかな。頭がいたい。吐き気もする。

 彼女の瞳はじっとぼくだけを捉えている。捕らえている。暫時の猶予があって、ようやくぼくは言葉を吐き出した。震えていた。

「ぃ、伊大知さん……その、よかったらどいて」

 彼女は返事をしなかった。かわりに、涙ぐんだその顔を、悲痛に歪みきったそのまみを、ぼくのシャツの胸もとに、そっとこすりつけた。

 心臓をぎゅっとつかまれたような心地がする。ぼくはなすすべもなく、じっと息をひそめていることしかできなかった。

 永遠とも思える長い時間が過ぎて、伊大知さんはたったひと言、ぼくの胸にくぐもって聞こえないくらいの、小さな声で。

「……どうして、私を受け入れてくれるの?」


      ◯


 あなたのことが大っ嫌いです。

 私のことをわかったつもりでいる傲慢さも、何もかも平気な顔で受け入れる弱さも、簡単に自分を犠牲にしようとする愚かさも、あなたのありとあらゆるすべてが気に入らない。

 痛みを受け入れ続けた人間は、自分をふたつに切り分けるそうです。

 そのうちの一人はこれまでと同じように痛みを受け入れ続けて、新しいもう一人は誰かに痛みを与えるようになる。お互いはお互いを知らない。そういうふうにできている。

 自分だけで処理しきれないストレスは、他人にすがって、押しつけて、そうやって解消する。人間って生きものは、あなたみたいにどうしようもなく傲慢だ。

 私は伊大知いおという人格を形成するひとつのパーツに過ぎない。そうね、私がイオで、がいお。そう区別してくれたらいい。当然、イオがこんな手紙を書いていることを、彼女いおは知らない。

 私があなたに手紙を書いているのは、お願いがあるからです。

 私はいおのストレスを解消するために、ほかの誰かに押しつける役目として、暴力的で自己中心的で、冷酷で非道な汚れ役として、生まれた。

 いおはもともと、誰も傷つけられないような子でした。誰よりも傷つけられて生きてきたから、誰よりも傷つけられる痛みを知っていたから、誰も傷つけたくないと願った。

 だから彼女の知らないもう一人の私であれば、溜まりに溜まったストレスを好き勝手に発散できた。

 いおは中学時代、同級生から陰湿な虐めを受けていました。ひどいものだった。私が代わりに、受けてあげられればよかったのだけど。

 彼女が私を生み出したのは、苛烈な虐めの最中だった。はっきりといつかはわからないけれど、気付けば彼女の中に私がいた。

 そして彼女が高校に進学して、ようやく安らかな生活を送れるようになったころ、私の役目が来ました。そのときにちょうど目の前に現れたのがあなただった。

 あなたは私たちを受け入れた。私を受け入れることがどういうことか、あなたならわかっていたはずです。

 だってあなたは、

 いいえ、同じと言うのもおこがましい。私たちなんかよりもずっと、複雑で、捻れて、拗れているんでしょう。ずたずたに引き裂かれているくせに平気な顔をしている。

 知っているはずのものを初めて見たような顔をする。明らかに会話の明るさがちがいすぎる。あなたはまるで、何人もの人間をミキサーにかけたみたい。ちっとも中身がわからない。

 あなたにはもう、いおに近づいてほしくないのです。いおにはもう、あなたは必要ない。

 いいえ、いおには、私が必要ないから。

 あなたのおかげでもあるかもしれませんが、いおは高校に入ってからすっかり良くなりました。彼女にはまだ友達と呼べる人がいませんが、彼女を虐める人も、もういません。

 これ以上、彼女の中に私の居場所はない。だから私は自分を消さなければ。そのために、あなたが邪魔なのです。

 私はあなたと初めて会ったときに「いおを好きになれ」とあなたにお願いしました。あのころの彼女はずっと内面に潜り込んでいて、ほとんどの時間は私が代わりに表に出ていました。

 だから、一人でもあの子を好きになってくれる人をつくって、あの子に表に出てほしかった。

 そして、一年かけて、ようやく彼女は表に出てくれました。まだ少し、いじめられていたころの彼女が残っているけれど、それでも自然と表に出てくれた。私は役目を果たしたのだ。

 人を傷つけるためだけに生まれた私という人格が、たった一人の、たとえそれが同じ自分でも、一人の人格を守れたのだと思うと、生まれてきてよかった、と初めて思えた。

 一年間ありがとうございました。あなたがいなければ、いおは立ち直れなかったでしょう。

 いおは地方に引っ越して、転校します。あなたの抱えたものは、私にはどうしようもありませんが、気をつけて。

 さようなら。大嫌いなあなたへ。


      ◯


 おれは、いや、ぼくは、届けられた手紙を読んで怒った。あるいは悲しんだ。それともひどく、驚いたのか。もしかすると、何も感じなかったのかもしれない。

 気付いたら学校にいるはずが、空港にいた。

 どのターミナルから飛行機が出るのかも、どの飛行機に伊大知さんが乗るのかも、そもそもきょう、彼女がここを発つのかも、ぼくは何も知らなかった。走り疲れたぼくは待合席に座り込んで、愚かにもそのまま眠り込んでしまった。

 眠っているあいだ、ぼくの頭のなかではいつも誰かがひっきりなしに話している。ひとりじゃなくて、何人ものひとがいる。

 うるさい声に、幸運にも目覚めた。ぼくは目の前に、伊大知さんがいるのをみた。それは奇跡だと疑いもなく思った。

 ぼくが声を掛けるまえに、彼女が怯えたような声を出して、あとずさった。

 ぼくの知っている伊大知さんじゃない。本当の伊大知さん。伊大知さんが守りたかったひとだ。

「……ぁ、あなた、誰ですか……?」

 当然、ぼくのことなんか覚えてない。苦笑いしかできない。諦めるしかない。

 ぼくは、彼女イオに、もう二度と会えないのだ。

 そう思った瞬間に、何故だかぼろぼろと涙があふれてきた。ぼくは俯いて、滲む視界にぼんやりと浮かぶ赤を見た。

 これでもう本当にお別れだ。けれど、せめて、最後に彼女の顔が見られただけよかった。

 ぼくはもう一度、顔を上げて、さよならを言おうとした。そして、いままでありがとうと、伝えようとした。

 けれど──そのとき、ぼくは気づいた。気付くことができた。この混濁する、紛糾する意識のなかで、が、それを覚えていた。

「赤い、靴だ……」

 彼女は途端にはっとした顔になって、自分の足もとをみる。そして顔を上げると、どうしようもないというように表情を崩して、ぼくを見た。

「どうしてそう変なところに鋭いのよ。あんた」

 彼女は──イオだ。ぼくの知ってる、一年間もずっと一緒にいた、伊大知さんだった。

「ぼくは……ぼくは、伊大知さんに謝らなくちゃならない」

「もう伝えたでしょ。伊大知いおは私じゃない。いいえ、もう私じゃいけないんです」

 彼女の口調はどこか悲しげで、けれど満足しているように穏やかだった。ぼくはその綺麗な表情に息を呑む。

 まるで、自分の役目の終わりを、心から理解しているような。

「ぼくはずっと、伊大知さんに嘘をついてた」

 大きな、ため息。

「いまさらそんなの、どうだっていいんです。わかりませんか? いおはこれから新しい生活をもう一度、やり直すんです。今度こそ……私なんかに、頼らない生活を」

「ぼくはそれじゃ嫌なんです……ぼくが、それじゃ嫌なんだ」

「どういう意味ですか……だから、あなたの希望なんてはじめから……」

 深呼吸する。そして、毒のように吐き出した。

「ぼくは、伊大知さんが好きだった。友達なんかじゃなくて、伊大知さんって女の子が、好きだったんです。本当は……」

 伊大知さんは、目を丸くする。

「……だから何だというのです。いまさら、そんなことを言われたところで……それに、私は伊大知いおではないと、何度も……」

「ぼくが好きなのは、ぼくの知らない伊大知いおさんじゃないんだ。ぼくは、ずっと一緒にいてくれたきみが、本当の伊大知さんとずっと一緒にいようとしたきみが、好きなんだ」

「…………は?」

 心底から理解できないという顔をして、伊大知さんは、ぼくを睨みつけた。

「もしかして……あなた本当にマゾなんですか? だとしたらです。私はもう必要ないのだと言ったじゃないですか。消えなきゃならないんです。邪魔しないでください」

「一年間、ずっときみをみてきたんだ。ぼくは、確かにきみのことをちっとも理解できていなかったかもしれない。けど……」

「けども何もありません。言っておきますけど、あなたの状態はずっと危険なんですよ。私に危害を加えられて、その傷口からいくつもの人格に分裂している。そのくせ凶暴性をもった人間はひとりもつくらずに、どれもみんなおさえつけて犠牲にする。そんなありかた……狂ってます」

 彼女は心からぼくを心配してくれているようだった。ぼくはそれでも、言葉を続ける。

「知ってるんだ。大丈夫だよ、ぼくは……」

「何が大丈夫だと言うんです! げんに、あなたいま、笑ってるんですよ……? 笑える状態なんかじゃ、ぜったいに、ないはずなのに……」

「ぼくは、好きな子に告白するのに、笑わないでどうするんだって思うよ」

 ぼくがそう遮ると、彼女は目をまん丸に見開いて押し黙った。ぼくは続ける。

「犠牲になろうとしてるのは、きみじゃないか」

「……私のことは、いいんです! 私は、いおのためだけに……!」

「きみはもっと、自分を大切にしたほうがいいよ……って、ぼくがこんなこと言っても説得力ないけどさ。きみだって……伊大知いおの大切な一部じゃないか。切り離せない不可欠じゃないか」

 彼女はいっそう、悲痛な表情になる。

「バカなことを言わないで! あなたを散々殴るような、好きな男の子を殴るような……殴って、気持ちよくなるような女が……伊大知いおであっていいはずが、ないじゃないですか……」

 その声は震えていた。ぼくは殴られたみたいな衝撃に頭がぐらつく。

 けれど、言わなきゃならないことがある。

「きみを傷つけて、カタルシスに浸ってたのは、ぼくだって同じだよ」

「は…………?」

 戸惑う表情。かまわず続ける。

「きみの手の傷を初めて見たとき、いとおしいと思った。ぼくを傷つけることで、確実にきみは、少しずつ傷ついていく。体も心も、少しずつ、ぼくと同じように傷ついていくのが嬉しかった。歪んでるかもしれないけど、お互い様だよね」

 ぼくの中のすべてが望んだことを。

「きみがぼくを必要としてくれたように、ぼくにはきみが必要だ……ぼくにとってきみだけが伊大知さんなんだよ。だから……ぼくは、きみが」

 深呼吸して、口にする。どうしようもなくねじれまがったぼくの、最初で最後の告白を。

「勝手に消えるなんて、ぜったいに許さない」

 伊大知さんは、伊大知さんを守るための彼女は顔を真っ赤にして、怒っていた。それでもぼくはぐっと近づいて、彼女を抱きしめた。

 彼女は黙ったまま、ぼくの胸を軽く、殴った。

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