第四章 睡蓮の『灯』り PART12
21.
「……そうですか、それじゃ入りますよ」椿が服を脱ぐ音が聞こえる。
リリーは自分の頬を触った。火傷しそうなくらい熱くなっている。もちろんこれは風呂に浸かっているからではない。
どうやら服を脱ぎ終えたようだ、彼が扉を掴んでいる姿が見える。
「実はですね。リリーさんとこのお風呂に入りたかったんですよ」
「へっ?」
「いえ、決していやらしい意味ではありませんよ。ただどういった感想が貰えるかなと思って」
何について? とリリーは答えようとしたが口が動かなかった。そのまま押し黙る形になる。
「入りますよ」
「ど、どうぞ」
……落ち着け、落ち着くんだ。
呼吸を整え無理やりいい聞かせる。しかし彼のタオル一枚姿を見た瞬間、再び動悸が走る。
「……ここに入っていいですか?」
「ど、どうぞ」
リリーは直視できず顔を背けたまま答えた。二人分の重みでお湯が溢れていく。水音が流れると共に自分のの心にも激しい波が襲う。
「ふー、やっぱり冬は温泉ですね」
「春花さん、私、次のお風呂いっときますね」
「はーい」椿は首を回しながら答えた。
目の前にある扉を開け樽湯に入った。一人用の風呂に浸かると身を守る鎧を装着したようで心の底からほっと吐息が漏れる。炭酸の泡が体をほぐしてくれるようだ。
「僕も、そっちいっていいですか?」
「も、もちろんですよ」
リリーが答えると、彼はゆっくりと反対側の樽湯に浸かった。
「いい湯だなぁ。冬月さん、本当にありがとうございます」
椿は頭にタオルを載せながらいった。
「冬月さんが事件を見抜いたからこんないい温泉に入れたんです。僕の貧しい給料じゃこんないいお風呂には入れないですからね」
「いいえ、そんなことないです。春花さんが助けてくれたからですよ」
「いえいえ、やっぱりそれは違いますよ」椿は真面目な顔で答える。「冬月さんが今回の事件を公にしなかったからだと思います。警察官としての立場を振りかざさなかった。だからこの旅館はきっと再生しますよ」
「正直、その件についてはまだ迷っています……」リリーは目を伏せて静かに続けた。「今回の私の判断は決して正しいものではありません。警察官という立場から見れば間違いなく失格です。でも……」
「でも?」
「私はあの人にかけてみたくなったんです」
正直に思ったことを告げる。
「罪を犯そうとしたことは一生消えません。ですが人の心は枯れても再び芽が出ます。あの人ならきっと立派な花を咲かせることができるのではないかと思ったのです。もちろん私は裁判官のような立場にはありませんから、私が決める資格なんて元々ないんですが」
この問題に正解はないし、不正解もない。心の葛藤は今でも自分の胸の中でうごめいている。
「大丈夫、冬月さんの対処がベストだったと思いますよ」
「……そうでしょうか」
「そうですよ」
椿にそういわれると安心する。肩の力を抜くと、彼の心に触れた気がした。
……次は私の番かな。
リリーは心を決めて尋ねてみた。
「……あ、あの。一つ尋ねても?」
「ええ、何でしょう?」
「お、大阪は……どうでした?」
「ああ、とってもいい所でしたよ」
「いえ、そうではなくて……」再び体中が熱くなっていく。「お墓参りはきちんとできました?」
「ええ、おかげさまで。二回目のお墓参りで時間に余裕があったのでついでにお寺巡りができました」
「法隆寺に行かれたんですよね? 桃子ちゃんにちょっとだけ聞きました」
「そうなんです」椿はゆっくりと頷いた。「法隆寺はですね、元々妻の好きな所だったんです。何回か行ったことがあったんですけど、やっぱりいい所でした」
「たとえば……どんなところがですか?」
「そうですね……。今の世界は当たり前じゃないってことを感じとれた所ですかね」
椿は穏やかな口調で続ける。
「今こうやって僕達が存在しているのは当たり前じゃないんです。僕にはもちろん両親がいて冬月さんにもいて。その連鎖があるから僕達はこうしてこの場で話すことができています。これって当たり前なんですけど、当たり前じゃないんです。偶然の重なりなんです」
「そういわれると、凄い偶然が重なっていますよね」
確かに、とリリーは思った。最初に彼と出会った時点で一緒に風呂に入ることになるとは想像もできない。こういった未来も偶然の重なりからだろう。
「法隆寺も同じで僕達の中では当たり前に存在してます。学校で習いますし名前を聞けば何となく想像はつきます」
椿は熱を込めて答える。
「でもお寺だって生き物なんです。何もしないで維持しているわけじゃありません。そこには昔の宮大工から今の宮大工への連鎖があるんです。だからこそ今の法隆寺は現代に残ることができているんです」
椿のいいたいことはわかる。存在しているから当たり前のように思ってしまうだけで、全ての五重塔が法隆寺のように現代に存在しているわけではない。あり続けることで当たり前だと錯覚してしまうのだ。
「妻はそれを知っていたんです、僕と出会う前から。純粋に一本の檜から心を読み取るようにして建物と会話していました。今になって僕は彼女の気持ちを知ることができたんです」
……やっぱり彼女には勝てない。
椿の妻を想像しいいようのない焦燥感を覚える。彼の心の中では未だ彼女が大きく占められているのだ。予想はしていたが、まさかここまでとは……。
「そうですか……」
リリーはうな垂れて樽の中で身を丸めた。しばらく沈黙が続き湯の中の泡がモクモクと音をたてるだけになった。
泡の音が突如消えた。その時、椿はぼそりと呟いた。
「……冬月さんと一緒に見たかったなあ」
「えっ?」
「屋久島に行った時のこと、覚えてます? 倒木から生えた小さい花を見て喜んでたじゃないですか。そんな冬月さんを見てこの人はほんとに純粋なんだなと思ったんです」
「ああ、あの時はですね、なんか、その、偶然というか……」
「偶然じゃないですよ」
椿は微笑んでいった。
「冬月さんが真剣に縄文杉に取り組んだからです。自然と向き合うことができたから、出会えたんだと思いますよ」
……ああ、そうだった。
一瞬の時が過ぎた後、心が震えていることを実感した。これはいつもの感覚とは違うものだと理解できる。椿に褒められると言葉では表せない感情が波となりとめどなく溢れてきてしまうのだ。
それは彼に認められたという安楽の感情だ。
……ここで自分の過去を伝えてもいいだろうか。
揺れからくる波紋はやがて激しく高ぶる荒波となっていく。彼に今の気持ちを正直に伝えて、自分の気持ちを知って欲しい。
「……今度は私の話をしてもいいですか?」
リリーは椿を見つめていった。
「ええ、もちろん。聞かせて下さい」
……よし、きちんと告げよう。
リリーは深呼吸をして続けた。
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