第三章 楓の『終』幕 PART6
8.
食事を終え、後片付けをし二人で紅茶を飲むことにした。今日の紅茶はオータムナルだ。芳醇でまろやかな味は秋にこそ相応しい。
椿の様子を眺めるとどことなく表情が弱々しい。
「うわー、生き返るなー。これ、とってもおいしいですね」
「生き返る?」リリーは疑問を感じ尋ねてみた。
「いえっ、あれだけおいしい味噌汁を頂いた上にとってもおいしい紅茶を頂いて、僕は幸せだなぁと思って」
今日の椿は表現がおかしいが、無理もない。きっと自分の作った味噌汁がそれだけの衝撃を与えてしまったのだろう。
……才能とは本当に恐ろしい。
「……春花さん、紅茶にミルクは入れる方ですか?」
「どちらでも。なくても美味しいです」
彼の言葉を聞いて安堵する。どちらにしても、この家にはコーヒーフレッシュはないし、入れるのなら普通の牛乳しかない。
「桃子ちゃんが明日から店を閉めるといっていたのですが、お花は大丈夫なんです?」
「もちろん、予定通りに使い切っていますので、ご心配には及びません」
そういって椿はリリーの顔をじろじろと眺めてきた。
「どうしたんです?」
「冬月さんもお花に興味をもたれたみたいで嬉しいんですよ。僕が花屋になったのは、出会った人に花を好きになって貰うことですから。やっぱり屋久島での体験がよかったんですかね?」
「そうかもしれません」リリーは彼のおかわりを足してから答えた。「最近、外の世界が自分の中で変わってきてるんですよ。街路樹なんて全く見てなかったんですが、あ、今日は実がついたなとか葉っぱの色が変わってきたなとか」
「それはいいことですね。季節を感じることができればそれだけ楽しみも増えます。辛いことがあっても時間が解決してくれるようになりますよ」
椿はリリーが愛でているクワズイモの葉を眺めながら続けた。
「植物っていうのは絶えず呼吸をしているんです。一日の終わりにそういう変化をみると、ああ、今日も頑張ったな、といい気分に浸れます」
日常に変化をもたらすものはたくさんある。だけど植物と共に過ごすだけで穏やかな気持ちになる。この気持ちはきっと花でしか味わえない。
「仕入れで一足早く色々な花が見れるんですが、その時にはやっぱり心が躍りますね。得した気分になります」
……この笑顔には敵わない。
世の中にはこんなに純粋な人がいるのだ。自分のように人を疑っている職業もあれば人を信じる職業もある。できればこの笑顔をずっと見ていたい。
「すいません、今日二つほど嘘をつきました」リリーは頭を下げていった。「味噌汁を作りすぎた、というのは口実で、春花さんに謝っておきたかったんです」
もう一つの嘘は桃子が作ったということだが、これに関しては美味しいといっていたので大丈夫だろう。
「屋久島で春花さんの過去を教えて貰ったでしょう? あの時は私、酔っ払ったままあんな話を尋ねてしまったので申し訳なく思っていたんです」
椿は家業のことを隠そうとしていた、それなのに自分は何度も尋ねてしまったのだ。彼の態度は変わらなかったが訊かなかった方がよかったのかもしれない。
「いえ、僕の方が悪かったんです。お酒が入って自制心がなくなってしまってすいませんでした」
「そんなことないですよ、私は聞けてよかったと思ってます」
「そういってもらえると助かります」
……よかった。
心の中でつっかえていたものがとれていく。紅茶を啜ると、まだ暖かく美味しかった。
「……実は明日から行くのは大阪なんです」
「それは……前の奥さんの」
「はい。命日なんです」
花瓶に佇んでいるコスモスがふっと自分の方に顔を向けた。咄嗟に彼女は顔を背けた。
「そうだったんですか……。確か秋桜美(あさみ)さんでしたよね」
「そうです、って名前まで出してたんですね」椿は頭を掻きながらいった。「この間三人で楽しくお茶をしてたじゃないですか。桃子ちゃんにあの場で話す訳にもいかないし困ってたんですよ」
「本当に素直な人なんですね。嘘をつけばいいのに」
「嘘をつくとすぐバレるんですよ。うまくごまかせるようになるためには当分修行が必要みたいです」
思わず口元が緩んでしまう。嘘を見抜くのが仕事なのだが、嘘をつけるようになりたい人間がいるとは考えもしなかった。
「今のままの方がいいですよ。そっちのほうがずっと春花さんらしい」
「そうですかね」
「そうですよ」
少し間を置いてから、リリーは再び尋ねた。手から汗が滲み出てきている。
「やっぱり、まだ、奥さんのことを……?」
「……そうですね。やっぱりふとした時に考えてしまいます」椿は腕を組んで宙に視線を逸らした。「去年は開店して間もなかったので余計なことはあまり考えずに済みました。でも少しゆとりが出てくると……無意識のうちに出てきますね」
「そう……ですよね。去年のことですもんね」
「いきなりいなくなっちゃったんで、まだ実感がわかないんですよね」椿は微笑しながらいう。「そのうちひょっこり帰ってきそうで。それで今は色々報告をしているって感じです」
「律儀なんですね」
「そうなんですかね?」
「そうだと思います」
「……そうですか」椿は紅茶を啜り爽やかな笑顔を見せた。
一時の沈黙が流れた。自分の家にいるのに居心地が悪い。話題を変えたかったが何を話していいかわからず紅茶に手が伸びるだけだった。紅茶は冷え切っており味を確かめることはできない。
「そういえば、桃子ちゃんはどこに行ったんです?」
「ああ、そういえば春花さんはご存知なかったんですよね。京都に行ったんですよ」
「へぇ。それは紅葉を見にいったんですか?」
「それもあるのですが……」
椿になら話をしても大丈夫だろう。桃子だって意地を張っただけなのだ。要点を掻い摘んで話すと、椿は訝った。
「国宝なんですよね? その塔は赤と黒ならどちらでした?」
「赤でしたね」リリーは再び写真を思い出した。「朱色が混じってたので赤の塔になるんだと思います。けどその写真がひどく汚れてて全体像は見えなかったんですよ」
「なるほど。塔の周りはどんな感じでした? 何か花など咲いてました?」
「確か木に囲まれた感じでしたね。塔の周りにサツキのような花がたくさん咲いていたようでした」
「えっ、サツキみたいな花?」椿は真剣な表情で携帯電話を開き画像を提示してきた。「もしかしてこんな建物じゃなかったですか?」
写真を見てイメージが重なった。確かにこの写真だ。
「ここです。こんな感じでした。春花さん行ったことがあるんです?」
「ええ、実は一度だけ」
秋桜美さんとですか、という言葉を思わず飲み込む。そんな話をぶり返したら再び自分の心を痛めるだけだ。心を落ち着かせるため、桃子の予定を義務的に話した。
「今日は海住山寺という所に行ってるはずです。明日は東寺で明後日が清水寺に行く予定みたいですよ」
「行ってるみたいというのは連絡を取ってないんですか?」
椿の眼にたじろぎながらリリーは答えた。
「実は桃子ちゃんを駅まで送ったんですけど、その時に私の車の中に携帯忘れて行っちゃったんですよ」
「……なるほど、そうでしたか」
椿は大きく溜息をついた。その目は何か遠くのものを見るように鋭く細まっていた。
次の日。リリーは出勤する前に椿の店の前を通り過ぎ、店が閉まっているのを確認した。
今頃椿は大阪に向かっているのだろう。
店の中を覗き込んでみると、たくさんあったコスモスの花がなくなっていた。きっと墓参りに持っていったに違いない。
ふと、相手の顔が気になった。奥さんはどんな人だったんだろうか。想像はシャボン玉のように浮かんでは消えるだけだった。浮かぶのは恋焦がれたように臙脂(えんじ)色に染まったコスモスの花だけだった。
心が急速に色褪せていく。
彼女は再びガラス玉で心に封をしたい気持ちになった。
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