第三章 楓の『終』幕 PART5
7.
「それじゃリリーさん行って来ますね」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」
三人で雑談を交わして一週間後、桃子は予定どおりに京都に向かった。新幹線で行くため最寄の駅まで彼女を送った所だ。
リリーはマフラーを揺らしている桃子に思いを馳せた。父親の残した建物を探しにいくというのはどんな気分なのだろう。
……あまりピンと来ないな。
自分に置き換えてみるが、イメージは浮かばない。父親が建てたものを見てないからだ。今頃彼は欧州を駆け回っているだろう、裏切られることがない数字だけを追いかけて―――。
……そういえば冬に帰ってくるんだっけ。
夏に上司の橘がいっていた言葉を思い出す。そろそろ連絡を取ってもいいかもしれない、今なら母親の話をすることに躊躇いはない。
……それよりも今は今日の夜ご飯だ。
今日の朝は桃子が作り置きしてくれたおかげで大丈夫だったが、夜は自分でなんとかしなければならない。これから三日間、料理の腕を上げるため自炊することを決めているのだ。
今日は手始めに味噌汁からだ。昨日買ってきた料理の参考書をお手本に分量を調節し味を確かめてみる。
……なかなかいい感じにできている。
鼻を鳴らし再び味見する。自分には料理の才能があるんじゃないかという期待を誘うほどの出来だ。しかし自分の舌だけでは確証は得られない。作り過ぎたという口実で椿に連絡してみよう。
電話のコールがやたら長く感じる。今まで普通に電話できていたのに、なぜか体が強張っていく。
……初めて彼を、自分の家に誘うからだ。
そう思うと、体が熱くなっていく。なぜこんな大事なことを電話で伝えようと思ったのだろうか。きちんと桃子に段取りを組んで貰えばよかったと悔やまれる。
無情にも椿は電話を取る。もちろん自分から掛けているのだから、切るわけにはいかない。着信履歴に残れば、必ず向こうから掛けてくる。
「こんばんは、どうされました?」
「ええっとですね、じ、実は……」
味噌汁を作ったから、家に来てくれといえばいいのだろうか。軽すぎないだろうか。しかしここまで来て、誘わずにはいられない。
「も、桃子ちゃんが味噌汁を作り過ぎてしまって……それで春花さんは、晩御飯、食べていないかな、と思いまして……」
咄嗟に嘘をつくと、椿は嬉しそうに返事をした。
「味噌汁ですか。いいですね。是非食べたいのですが、伺っていいんでしょうか?」
桃子がいないのに、という言葉が含まれている。
「ええ、桃子ちゃんが是非、二人でといっていたので」
再び嘘をつく。ここまで来たら、嘘を突き通すしかない。
「それは助かります。今日のご飯がなくてどうしようか、悩んでいたんですよ」
「そうなんですね」リリーは拳を作りながらぐっと力を入れた。「実は、私も一緒に作ったものなんですが、よければどうですか」
「おお、それは楽しみです。冬月さんって料理してるイメージがないので全く想像がつきませんね」
本当に素直な人だ。頭に血が昇るのを感じながらも話を続ける。
「春花さんの想像通り、自分で料理するのは初めてなんです。是非感想を聞かせて欲しいんですが、どうでしょうか?」
怒りを込めていったつもりだったが、彼は全く気づかない。
「是非、御馳走になります。他に必要なものがあれば買いますけど、何かあります?」
「そうですね。味噌汁とご飯しか作ってないので、おかずが必要でしたら御自分の分だけお持ち下さい」
「わかりました、それじゃまた後で」
電話を切った後、小さくガッツポーズを取りながら黙考する。このまま普通の味噌汁を振舞っていいのだろうか。
椿のことだ。初めてにしては美味しいけど普通だ、という感想を述べるに違いない。彼をぎゃふんといわせてやりたい。さらに工夫を重ねるとしよう。
三十分後。インターホンが鳴る、自分の心臓も高鳴る。ドアの鍵を開けに玄関へ向かうと、椿が笑顔で待っていた。
「こんばんは、最近はめっきり寒くなってきましたね」
「そうですね。すぐに暖めますから。どうぞ、入ってください」 スリッパを用意し中へ案内する。
「凄い綺麗に片付いてますね。冬月さんらしい」椿は辺りを一瞥しながら感嘆の声を上げる。「よかったら、これ部屋に飾って下さい」
受け取って中を見ると、茜色の可憐な花だった。
「まあ、ありがとうございます」
……う、嬉しい。
思わず胸が高鳴る。純粋に嬉しくて、花を貰うことに対してここまで心が動かされるとは思わなかった。
……しかしこれは、コスモス。
花に罪はないなと心の中で呟き花瓶に入れテーブルの中央に飾る。
「もうできますから、先に座ってて下さいね」
ついに勝負の時が来たと気を引き締める。はたして彼の舌を満たすことはできるだろうか。用意していた器に汁を入れご飯をつぐ。
「リリーさんは食べたんですか?」
「いえ、せっかくなので一緒に頂こうと」
「よかった、ちょっと多めに唐揚げ買ってきたんですよ」
彼が取り出したのは桃子がよく買う唐揚げだった。家で揚げる暇がない場合は大抵この商品だ。
……味噌汁との相性もばっちりだ。
「いいですね、暖めましょうか?」
「さっき買ったばかりなので大丈夫ですよ」
椿と共に箸に手をつけた。その先には自分の思いが籠もったお椀がある。
「それでは頂きます」
緊張の一瞬が始まる。箸を構えるが視線は椿の方に釘付けだ。
「どうしたんです? なにか自分の顔についてます?」椿は首を傾げている。
「いえ、何でもないですよ」
椿は先に唐揚げに手を伸ばし美味しそうにほうばっている。我慢できずにリリーは味噌汁を促した。
「冷めちゃうんで、ぜひ先にどうぞ」
「ああ、そうですね。お先に頂きます」椿はお椀を手に取り丁寧に啜った。
「どう、ですか?」
椿の表情は無表情で白紙の状態になっていた。どういう感情なのか、全くわからない。
「ええっ、おいしいですっ。とってもっ!」
「本当ですか?」
「ええ、本当ですともっ!」
椿はそういって豪快に味噌汁を啜り続けた。余程美味しいのだろう、お椀まで食い尽くす勢いで食べ続けていく。
……なんだ、やればできるじゃないか。
心の中でほっと胸を撫で下ろす。今まで自分は料理に興味がなかっただけで、やらなかっただけだ。これからは桃子に教えてもらってレパートリーを増やそう。
彼の慌てふためいた顔を見ると、つい顔がにやけてしまう。
「よかったです。おかわりはたくさんあるので、是非遠慮せずに食べてくださいね」
「えええ、はいっ。是非、頂きますともっ! 冬月さんこそ全然箸が進んでないじゃないですか、早く食べないと冷めますよ」
しきりに椿は進めてくる。確かに自分のために作ったのだ。きっちりと吟味しよう。
「そうですね、じゃあ私も」
ゆっくりと啜って舌で味わう。塩加減がちょっと濃いが、さきほどの味見と変わりない。これなら客人に出してもいけるレベルだ、悪くない。
妙に椿の熱い視線を感じる。よくみるとお椀の中身が空になっていた。もしかしたらおかわりを催促しているのかもしれない。
話しかけようとした瞬間に椿が先に口を開いた。
「リリーさん、ど、どうですか。み、味噌汁の味はっ?」
「ええ、初めてにしては上出来じゃないかと」
自分で褒めるのもどうかと思ったが、椿に絶賛されたためここで卑下する訳にもいかない。
「そうですか……、そうですよね……。うん」
どことなく椿の顔色が悪い。
「そういえばお椀が空になっていますが、おかわりはいかがですか?」
「あああ、はいっ。頂きたいんですが……」彼は困惑した表情で続けた。「でも冬月さんの分がなくなってしまうんじゃないんです? やっぱり押しかけた形になっているので、頂くのは申し訳ないです」
「いえいえ、そんな遠慮なさらずに。他の人にも味見してもらおうと思ってたくさん作ったんですよ」
「味見っ? まさかお隣さんとかにですか?」
「そうですね。一人じゃ食べきれないので」
「ちなみにどのくらい作ったんです?」
「三日分くらいですかね」
「三日分っ!?」椿は大声で叫んだ。
「味噌汁ってたくさん作ったらまずいものなんですか」
「いえ、本来なら問題ないです」
「本来なら?」
「いえいえっ」椿は大きくかぶりを振った。「桃子ちゃんもいたらという意味です。あんまり多く作ったら腐っちゃうかも、しれないし……」
「ああ、そうですね。そこまで考えてなかったです」味噌汁は腐るものなんだなとリリーは初めて知った。
「ええ、次回からは少なめに作られた方がいいと思いますよ」
「そうですね」
「そうですよ」
「ではおかわりは?」
「頂きますっ! お隣さんにあげるなんて勿体ない。お隣さんに上げる分を全部僕に下さいっ!!」
……椿にそこまでいわれるとは、想定外だ。
料理の才能があることを確信し、桃子と一緒に作ったなどといわなければよかったと後悔する。
どうせなら、お椀で出すのも勿体ない。そこまで望むのであれば、大きめの丼ぶりで提供しようではないか。
「そんなに喜んで頂けるなんて嬉しいです。是非お好きなだけ食べて下さい」
「はいっ! ありがとうございますっ!」
椿はとてもいい返事をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます