第三章 楓の『終』幕 桃子視点 PART2
4.
「ついに今日、家が完成しました。まさかこの年で自分と同じ年のローンを背負うことになるとは考えたこともありませんでした。だけど楓と二人で決めたことです。そこで今日から日記を書いてみようと思います。思ったことを淡々と書いていけばきっと日記になるでしょう」
そんな書き方をしていたら小学生の日記になっちゃうよ。
桃子は心の中でつっこみをいれながらパラパラと捲っていった。綾梅の字を見ると母親の存在が浮かび上がるようで安心した。
彼女は母親の存在を噛み締めるように続きを読んだ。
「ついに今日、楓が京都に出張する日です。国宝を手掛けると調子にのっていましたが、今度の仕事は四年滞在しないといけないみたいです。あいつは本当に約束を守れるのでしょうかね。今から心配しています。
あんたが帰って来る頃には他の男と住んでいてやろうかと企んでいますが、残念ながら今の所そういった相手はいません。ばっちり気合を入れて頑張って来て下さい」
そんな気なんてなかったくせに。
いつもの親子のやりとりが蘇る。何だか時が舞い戻るような感じだ。
父親は確かに存在した。それだけで桃子の心は落ち着いていく。楓は京都に四年いると書かれてある。なら間違いなく写真は京都にある建物だろう。やはりこの写真は楓が送ったのだろうか?
「桃子が誕生して一ヶ月経ちました。夜鳴きが激しくて毎日が睡眠不足です。とてもじゃないけど習字の教室などできません。当分は楓の少ない仕送りに期待しましょう。
楓がいたらきっと桃子の寝顔をじっと眺めているでしょう。泣いている時は見向きもしなかった癖に。×××な楓が目に浮かびます。あんなやつでもいないとやっぱり寂しいです」
綾梅が自分のことを書いてくれているだけで嬉しかった。何かあるたびに夜泣きがうるさかったといって桃子のことを苛めてきたが、今となってはいい思い出だった。
文章が消えている部分があったが、特に問題はなさそうだ。桃子は次のページを捲(めく)ることにした。
「今日、一通の手紙が届き写真が入っていました。手掛けていた塔が完成したのかな? それにしても早いです。四年といっていたのに二年しか経っていません。
桃子の顔が恋しくなって別の塔の写真を送ってきたのかな? 仕事を終えてなかったらしっかり戸締りして出迎えてあげようと思ってます」
母親のきついジョークが桃子の胸に染みわたった。綾梅は桃子に対しても結構きつい口調だったが、あれは自分に対しての戒めでもあったのだ。
綾梅は書を出展する時、凄い気迫で何日も和室に引きこもっていた。納得がいかないものを木の籠に丸めて捨てたと思ったら、またそこから引っ張り出して吟味する。
ゴミ箱の周りには小学校のクス玉入れのように丸まった紙が転がっていた。そうなったら何か店屋物を頼めという合図だった。
小さい頃は色々と頼んでいたが、中学、高校に上がるにつれて桃子自らが料理を覚えていった。綾梅は紫蘇の葉を巻いたカツが好きだった。その中に梅干の身を擦り込んで揚げたものを作った時には泣いて喜ばれどんな時でも必ず食べてくれた。
……あの頃にはもう戻れない。
たまりに溜まった思いが再び自分の胸に押し寄せてくる。ここで泣いてはこれ以上日記が読めない。気を引き締めページを捲らなければ。
「今日、桜が遊びに来てくれました。寝たきりが続いていたので会えたのは本当に嬉しかった。前もって作っていたざぼんの砂糖漬けを出すと、毎日食べている桃子の方がたくさん食べていました。顔から火が出るとはこのことをいうんでしょう。
楓の話をすると、さすがに何かあったのではないかという話になりました。確かに今のままじゃいけない気がします。この写真を頼りに探してみようかな。しかし桃子がつけた墨で塔のほとんどが見えません。
消印は京都になっていたので、間違いないと思いますが。
悪戯好きなのは父親にそっくりです。楓が帰ってきたら、二人まとめて矯正するしかなさそうです」
改めて写真に目をやる。この写真は自分が汚したのか。記憶を辿ると一つの映像が浮かんできた。
綾梅はこの写真を見ながら泣いていたのだ。その時に桃子は写真が悪いのだと思って彼女の筆で無茶苦茶に塗りたくったのだ。
綾梅はいつものように激しく叱りはしなかったが、この後じっと写真を眺めていた。目に焼き付けるように、じっと……。
ざぼんの砂糖漬けは綾梅の得意料理の一つだった。秋になると、一本の木からドッチボールくらいの大きな実がなる。実の皮を剥いて砂糖漬けにするのだ。毎年あくを抜くのが桃子の担当だった。ほんのりと苦味がありその後の甘さが堪らない。桃子にもこの時の記憶がある。
桜の顔が思い浮かんだ。ガラスの陶器のように細く、美しく、儚さを秘めた優しい人だった。桃子に対しても優しい衣で包むように接してくれた。来る時はいつも植物図鑑を持って来てくれて桃子はそれを楽しみにしていた。
母親から習字の宿題を出された時には、こっそり図鑑に逃げていたものだ。この時から桃子は花の種類の多さ、花の形の違い、同じ花でもたくさんの色があることを知った。毎日、本をめくれば新しい花に出会える、その喜びに浸っていた。
しかしそれは長くは続かなかった。桜は元々体が弱く家に来る回数が減っていった。彼女が家に来なくなり、しばらく経ってから亡くなったことを知った。綾梅と蘇鉄が血眼になって庭の手入れをしている時期だった。
この時に初めて人は死ぬということを知ったのかもしれない。いつも笑顔で頭を撫でてくれる桜が亡くなった、という事実は到底受け入れられなかった。次は自分が死ぬんじゃないかと想像するだけで怖くて一人で寝付くことができなかった。この夜は綾梅の布団に潜り込んで彼女の両足に体を挟んで貰って布団の中でまるまって寝た記憶がある。
棺の中に花で囲まれた桜を見て恐怖が安らぎに変わっていた。花に囲まれて穏やかな笑顔を浮かべていた彼女はいつも通りだった。死んでも花に囲まれるのなら大丈夫だと安心した。
この時には将来の仕事がすでに決まっていた。
日記はここで終わっていた。その後、何枚か破りとられた跡があったが、今となってはわかるはずもない。二十年以上前の日記だからだ。とても残っているとは思えない。
様々な謎が脳裏に浮かぶ。楓はなぜ連絡をよこさなかったのか? なぜ宛先を書かずに写真だけを送ったのか? なぜ楓は帰って来なかったのか?
綾梅は結局楓の元に辿り着けたのだろうか? 今となってはその手がかりはない。
考えた結果、桃子自身が京都に行くことを決めた。自分なりに決着をつけなくてはいけない。そして楓の消息を確かめなくてはならない。
とりあえず今の時点でできることは写真の場所を調べることだ。蘇鉄がいうには宮大工はその周辺で暮らして塔の修復に当たるといっていた。まずこの塔の場所がわからなければ楓を探すことは不可能に近い。
しかし五重塔といっても無数にある。どうやって調べたらいいのだろうか。そう思った時に桃子の頭に一つ、閃いたことがあった。綾梅の日記では国宝と書いてあったのだ。これなら大分絞れるのではないだろうか。
携帯のインターネットで「京都」「五重塔」「国宝」で検索した。二件ヒットした。それは「東寺」「海住山寺」という寺だ。
二つの塔の画像を見比べてみた。どちらも青々とした木に囲まれている写真でかなりの迫力がある。東寺の五重塔は木を剥き出しにした感じで重々しく長い歴史を感じさせた。代わって海住山寺の五重塔は朱色に染まっていてグリーンとの対比が綺麗だった。
楓の写真の塔には朱色が微かに残っている。
……これだ、海住山寺だ。
桃子は思わずガッツポーズをとった。母親の日記とも辻褄があう。
心の中でほつれていた糸が徐々に動き始めていた。
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