第三章 楓の『終』幕 桃子視点 PART1
3.
……さすがにマフラーだけじゃ、この冬は越せない。
桃子はマフラーを掛け直し実家に戻った。今日は衣替えのための荷物整理だ。ダンボールにあった冬物を厳選し一階へと降ろす。お気に入りの服を眺めるだけで一昔前の光景が蘇ってきそうだ。
しかし今では実家の風景が別世界のように覚える。リリーの家に長居しているため、生活環境が変わったと実感してしまう。
自分の部屋に入ると、今まで当たり前だったものが遠い過去のものになっていた。毎月集めていた雑誌も三月で止まっており、爽やかな匂いがする香水も今の時期には合わない。荷物を取り出してこの部屋から出ると、二度と戻って来れなくなるようだ。
……父親の部屋の鍵を開けてみよう。
階段を降りて和室の中を捜索する。畳はすでに変えられており全ての畳からイ草の香りが充満していた。綾梅が貴重品を管理している箪笥の扉を開けると、そこには茶色の鍵が入っていた。確かこの鍵で綾梅は閉めていたはず。
父親の部屋に戻り鍵穴に通し部屋の扉を開けてみる。
……思ったより狭いわね。
部屋の中は畳四枚が入るくらいで窓もなく倉庫のようだった。中には埃も溜まっておらず空気以外、何も詰まっていなかった。
……本当に何もなかったんだ。
愕然とし思考が停止する。やはり会ったことがない父親に期待していたのだ。きっと父親は自分に何かを残してくれている、その何かが愛情の証になり自分を安心させてくれる。
この部屋があったからこそ今まで父親のことを考えなくてすんだのだと彼女は思った。気になった時にこの部屋に入ればいいと思っていた。
しかし何もない。父親という存在が自分にはいないことを改めて証明されてしまった。
……ここにあったものはお母さんが処分したの? 何もかも?
処分する理由がない。綾梅は他の男の話をしなかったからだ。もし楓のことを忘れて再婚しようというのならわかるが、今までにそんな形跡は見当たらなかった。
……やはり蘇鉄さんなのかな?
桃子は先日会った蘇鉄の顔を思い出した。あの悲愴めいた顔は自分に対してではなく綾梅に対してのものなのか。だが仮に付き合っていたとしてもお互い知っている友達だ。処分する程のことじゃない。
……わからない、どうして何もないの?
不意にこの家に住んでいた事自体が怖くなる。自分の知らない存在がこの家を建てたのだ。それに他にも疑問はある。この家は築二十年になるが、まだ若かった二人がどうしてこんな立派な家を建てることができたのだろうか。
……どうして、お母さん。何もわからないよ。
思わず涙がこぼれそうになる。こんなにも母親の存在が自分の中に占めていたとは想像していなかった。ただそこにいる、というだけの存在がこんなにも大切だったなんて思わなかった。
…もう自分には家族の絆はないのだな。
切り取られた心には、ぽっかりと穴が空いていた。心自体が綻びているのだと認めざるおえなかった。
リリーの家へ戻り心を落ち着かせようとするが、不安に覆われた心は戻らない。今まで自分は逃げていただけなのだ。母親の死からもこれからの生活にしても。リリーの優しさに甘えているだけだった。
このまま彼女に縋って生きていていいのだろうか、リリーがもし結婚したら自分はどうすればいいのだろうか。
……このままでは駄目になる、ちゃんと動かないと。
夏に皐月に会いにいったように、再び動く時が来ている。やはり父親が何をしていたのかを知らなければならない。自分はどうやって生まれたのか、そして父親は自分のことをどう思っていたのか。
綾梅と蘇鉄が付き合っていたかどうかというよりも、楓のことが純粋に気になり始めていた。彼の写真を見てから自分の胸が騒ぐのだ。生きているのなら、一目でいいから会いたいと。
……お母さんの愛情はわかる。でもお父さんは?
そっと首に巻いてあるマフラーに手を差し伸べた。このマフラーは小学生の時に、綾梅にだだをこねて作って貰ったマフラーだ。大分痛んでいるが丁寧に扱ってきたことでまだ十分に使える。
無性に母親の声が聞きたくなった。しかしそれはできない、永久に。それでも彼女の声が聞きたい。
……そうだ、日記。
桃子は引き出しにしまってある日記を取り出した。この日記には楓の写真だけでなく綾梅の気持ちも綴られているはずだ。
彼女は埃被った日記を捲ることにした。
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