第二章 『花』火の閃き 桃子視点 PART2
15.
「さ、着いたよ。……だけど、本当にいいの? まだ早いんじゃない」
「いいの、自分を信じてくれている人がいるから、止まれないの」
桃子は目の前にある建物の中に入った。建物の中は薄暗くどんよりとした空気を放っている。それでも前に進み目的を果たさなければならない。
手続きを済ませ看守に挨拶をする。いよいよこの世で最も一番会いたくて、会いたくない顔に面と向かなければならない。桃子は戦慄と恐怖を覚えながら指定された椅子に座った。
向かいの扉が開く。その扉は熱を持たず冷ややかで重たい空気を作っていた。まるで今から地獄からの死者を迎えいれるようだ。
扉が開いたことで彼女の全身に寒気が襲う。だがその扉から現れた人物が目に入ると内から来る鼓動は熱を持ち全身が火傷するようなエネルギーで満ちていった。
そこには自分の母親を殺した夏鳥皐月がいた。
「……久しぶり、だね」
「……そう、だな」
桃子は椅子についた後、自分の気持ちを落ち着かせるため深呼吸をした。心の中には冷静でいようとする自分と興奮の中で怒りに身を任せようとする自分が存在している。
そのどちらも本当の自分だ。だが数秒毎に気持ちが入れ替わるのは初めて味わうものだった。
皐月を見ると明らかに変貌を遂げていた。長い金髪は丸く散切り頭にされ一気に若返って見える。褐色のよかった肌も日に当たっておらず白くなっており絞まっていた胸板は見る影もなく細くなっていた。
「元気に、してる?」
「あ、ああ……」
「あのさ……皐月君に……」
ここに来るまでに何度も想定していた言葉がいつの間にか宙に消えていた。どうしてお母さんを殺したの? 私との付き合いは全部、嘘だったの? 病院で初めて会った時からこの計画を考えていたの?
訊きたいことは山ほどある。だが始めに確かめないといけないことがある。
「あなたに……訊きたいことがあるの」
「ああ、何でも正直に答えるよ」
「あ、あのさ……お母さんは本当に蘇鉄さんと不倫していなかったのかな?」
そういうと彼の顔が突然歪んだ。
「ど、どういうことだ?」
「私もね、実は蘇鉄さんとお母さんは付き合ってたんじゃないかなと考えたことがあったの」
ゆっくりと言葉を選んでいく。
「……でもそれでもいいと思ってた。お母さんからお父さんの話は聞いたことがなかったし家にはお父さんの物が全くなかったから」
父親が自分の家を建てたことは知っている。でもそれだけだ。父が何をして、どんなことをしているのか自分は全く何も知らない。
「だから、もし私が皐月君の立場だったとしたら、復讐を考えていたかもしれないと思ったら、話をちゃんと訊かなきゃいけないと思ったの」
蘇鉄は月に二回、桃子の家の庭を手入れしていた。それは本当に父親のことを思ってのことだったのだろうか。
皐月の母・桜が病死していることも知っている。その前日に庭の手入れに来たことも知っている。だが全ては蘇鉄から聞いたことだ。当の本人達はすでにこの世にはいない。いくらでもごまかそうとすればできることだ。
「桃子、何をいってるんだ……今更何をいってるんだよ……」
皐月の表情は強張ったままだ。それでも彼女は続けた。
「私はね、正直……皐月君に会いたくなかったよ。こんな現実を受け入れる力は私にはないからさ。きっと一生あなたのことを許すつもりもないし許さないとも思う。
だけど……真実が知りたいの。もし桜さんが生きている間からお母さんが蘇鉄さんと付き合っていたというのなら……私はどっちも軽蔑する」
皐月は頭を捻りしばらく沈黙した。やはりこの質問は想定になかったらしい。先ほどまで強張っていた表情が一変していつもの彼の表情に戻っていた。
「親父は庭を見ればわかるといっていた。俺はもちろんあれから見ていない。だがそれも親父の言い分だな」
その後、突然皐月は声を上げた。
「綾梅さんの日記がある。あれには俺たちが生まれた時のことが書かれてあった。それに一番後ろのページには何かの建物の写真があった」
「建物の写真?」
皐月は頷いて続けた。
「何か細長い建物だった。赤い色が混じっていたが写真全体が墨で塗りつぶされていてよくわからない状態だったが」
細長い建物。きっと楓が手掛けた建物に違いない。楓が大工をしていたことだけは知っている。
「なんで墨に塗りつぶされていたんだろう」
「わからない。だが真実を知るためには綾梅さんの気持ちを確かめるしかない。だから……」
「うん。その先は……いわなくてもいいよ」
皐月のいいたいことはわかる。楓のことを調べるしかないといっているのだ。
「そっか……。そうよね……。今まで見てない振りをしていたけどやっぱり調べるしかないか……」
桃子の表情に気づいたのか皐月は声のトーンを落として告げた。
「質問はそれだけか?」
時間が迫っていた。別に日を改めればいくらでも話すことはできる。だが再びここを訪れる日はないだろう。
「じゃあ最後に一つだけ。最初からだったの? 私が秋風桃子だったから復讐の対象として近づいたの?」
皐月は首を横に振ろうとしたが、そのまま目を背けたまま桃子に告げた。
「……あ、ああ。そうだ。全部、最初から最後まで計画を手掛けるためにやったことだ。だから俺を恨んで貰って構わない」
「そう……そうなんだ」
看守が足を踏み出した。それに合わせて桃子は席を立ち部屋の扉を開けた。
「……お疲れ様」
菜乃香は車のエンジンを掛けながら無言でアクセルを踏んだ。
「訊きたいことは訊けました。ありがとう」
「……そっか。よかったね」
しばらく走っていると視界がぼやけているのに気づいた。それが自分の涙だと気づくのにしばらく掛かった。
「泣きたい時は泣いていいんだよ」
菜乃香はそっとハンカチを取り出した。だがここで泣いてしまっては理性を保つことができそうにない。
「……違うの。これはね、花粉」どうしようもなく溢れてくる感情に抗えない。彼女のように理性を保つことができればいいのにと思う。「私、花屋なのに花粉症なんだ……」
……きっとリリーさんも今頃、立ち向かっているのだろう。
居候先にあった古びたアルバムを思い出す。幾重にも重なった屋久島の写真、庭にあった隙間のない花写真、幸せそうな家族写真。
今の彼女には見られない面影がたくさんあった。そこには無邪気に感情を振りまく一人の少女が映っていた。
……彼女もきっと、ぎりぎりの状態で生きている。
アスファルトで埋め尽くされた庭を見ると、そう確信させる何かがあった。踏み込んではいけない領域だとも思う。しかしあの時の彼女の強い瞳を見て、送り出すことを決めたのだ。
……私も負けられない。
ここに来たのは自分の意思でありながらも、自分の意地だ。痩せ細っていた感情をリリーに見せたくなかった。彼女のためにも今まで泣くことを我慢していた。それは一重に彼女に純粋な献身を受けていたからだ。
先に進むことは確かに怖い。それでも身内でもなく信じてくれているリリーがいるから、私は前を向くことができる。
折れそうになりながらも懸命に生きている彼女がいるからこそ、私は前へ進むことができるのだ。
「辛かったよね、桃子。今は泣いていいよ。我慢しなくていいんだよ」
「我慢なんか……してない。涙なんか……涙なんか……」
……彼女と一緒にいるためなら、これくらい。
弱いままではいられない。共に潰れてしまうのが怖い。
きっとリリーはどんな私も優しく受け止めてくれるだろう。それが何より怖い。彼女の荷物になるのが怖いのだ。
「……これ貸してあげるから。今だけは泣いていいんだよ」
目薬と共にハンカチを受け取る。やはり菜乃香には敵わない。
桃子は目薬を差した後ハンカチで顔全体を覆った。そしてしばらく身を丸め彼女の前で泣き崩れた。
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