第二章 『花』火の閃き PART13
14.
三十分ほど山道を登って行くと、足場は最早ないに等しいくらいに悪くなっていった。岩を登ったり木の根を蔦って降りたりと瞬間的には次の道が認識できない。赤いリボンがなければ間違いなく迷ってしまうだろう。
慎重に手を使いながら道を進んでいくと、目の前に大きな木で出来た階段が現れた。見上げると遥か上空に巨大な木が見えている。ついに辿り着いたらしい。
リリーは思わず声を上げて後ろを振り返った。椿もにっこり微笑んで頷いている。
……あれが、縄文杉。
彼女は走り出していた。10m以上ある階段を夢中で登っていき上空を目指す。早くあそこからの景色が見たい、早く会いたい、その思いから足は自然と駆け足になっている。
登り終えた後、目の前には巨大な生き物がどっしりと腰を据えていた。パンフレットには高さ20mと書いてあったが、天空まで伸びているような錯覚を受ける。本当にこの木は生きているのだろうか?
木の根元を観察してみると、中心から円を書くように根が張り巡らされていた。まるで巨大な横綱が四股を踏んで構えているようだ。
「凄いですね……」
横にいる椿に声を掛けると、彼はゆっくりと頷いた。
「他の木も凄かったですけど、この木は特別に大きいですね。着生してある木の種類も凄く大きい」
背筋を伸ばして縄文杉と顔を合わせるようにまっすぐに立つ。その圧倒的な大きさに畏怖の念を感じずにはいられない。
着生している木、全てが長い年月を生き抜いた賢者のようにどれもが精悍な表情をみせている。一本一本の木が縄文杉の一部であり、全てを合わせて一つの大きな生き物を形成しているようだ。
「本当に生きているんですね……」
「そうみたいですね、本当に信じられないですが」
大学の卒業旅行で行ったフランスのモンサンミッシェルを思い出す。巨大な教会を中心とした様々な建築物が融合し一つの城を構えているような佇まいだ。
枝に茂っている葉にも着目してみる。丸い葉、尖った葉、ふわふわした葉など一言に葉っぱといっても形が違う。色も緑色だが淡い色、濃い色、はっきりした色、色鮮やかな色とそれぞれ違う特徴があった。それは昨日見たもののけの森を連想させるようだった。
……この生き物は一本の『森』だ。
母親が愛した、たくさんの生き物の束を融合させた一つの森。それが今、目の前に存在しており生きている。
これが縄文杉。太古を生き抜いてきたといっても疑う余地はない。
「冬月さん、ガイドの方が縄文杉の話をしてくれていますよ。もしかすると年齢のことも教えてくれるかもしれません」
椿がガイドの方を指差している。そこには団体を連れたガイドが縄文杉の説明を始めていた。その饒舌な口調は長年の経験を物語っている。
「そうですね。でも……私はいいです」リリーは微笑みながら答えた。「最初は年齢のことも知りたかったんですけど、本物を見ているとそんなこと、どうでもよくなっちゃいました」
……お母さん、本当にそう思うよ。
じっと縄文杉を見つめる。この木の本当の年齢なんか知りたくない。これだけ素晴らしい姿を見せてくれるだけで十分だ。
数字に囚われていたら見えるものも見えなくなる。母の言葉だ。今まで自分の人生は全て数字によって支配された。数字に支配されるため、といってもいいかもしれない。それくらい数字に固執していた。
しかし椿を見ていると、その考えこそが間違っているのではないかとさえ思ってしまう。椿の眼は数字ではなく本質を見抜く眼だ。素直な心で見続けありのまま表現する。
……感覚は本当に大切なものだ。
心の中で反芻する。自我を持たず感情に身を委ねるということは、怠惰なものではなく真実を見ることができる強い心の表れなのかもしれない。
百合はこの杉を見て何を感じたのだろうか。答えは永久に出ない。しかし今、自分はきっと母親と同じ感覚を味わっているのだ。そう思うだけで自分の心はふっと軽くなっていく。
この場所は心を開放することができる。これだけ大きな生き物に出会うと人は自分の感情を偽らなくてもいいのかもしれない。
「春花さん、ありがとうございます。私はここに来れて本当によかったです」本心を彼に告げる。「私は数字の世界だけで満足してたんです。それはとても狭い中での出来事だったんだなと思いました」
理論も大切だ。しかし感情も感覚も大切だ。
「今までは感覚に頼る仕事なんて馬鹿にしていた部分があるんです。母の仕事にしてもそうです。確かなものがないというのは妥協できる部分がある、甘い世界だと思ってました」
父の教えをそのまま受けてきた。だからこそ刑事になることができたし、自分の信念を貫くことができた。
「でもこの島に入ってから私はたくさんの感情を知りました。それは数字にはできないけど確かに私の心の中に存在しています。言葉にできなくても、心に残すことはできるんですね」
心のガラス玉が音を立てて崩れていく。眠っていた感情が沸き起こる。この感情を抑えることはできない。
「冬月さんは本当に素直な方ですね」椿は照れながら頭を掻いている。「何だか僕の心まで洗われるようです。そんなに喜んで貰えると僕も嬉しいですよ」
「いえ春花さんのおかげですよ。自然って凄いです」
もう、自分を縛るものは何もない。
……お母さん。
縄文杉を見ながら彼女に囁く。
私はもう自分を偽ったりしません。お母さんのように素直でいることにします。辛いことも楽しいことも全部含めてです。
これから、お母さんが撮った写真を覗いてみることにします。今まで押入れにしまっていてごめんなさい。
お母さんが亡くなってから感情を抑えていました。それが強い者の証であるようにずっと耐えていました。
でもこれからはたくさん泣きたいし、笑いたいと思ってます。
もちろんすぐにはできません。だって二十年も我慢してきたのですから。
それでも私は感情という花を大切に育てていこうと思います。
これからはこの花を枯らさないように生きていきます――。
縄文杉に別れの言葉をかわし帰り道を進んだ。今からは降山になるのでさらに足に負担が掛かるだろう。慎重にステッキを使いながら山道を下っていく。
ぽつぽつと予報通り雨が降ってきた。レインコートを着ていたため濡れにくくなっているが完全に防げるわけではない。
雨の中、周りの景色を眺めてみる。じめじめとした暗い景色ではなく苔や杉が雨に濡れて満たされたように穏やかな表情を作っている。足場は悪くなったが雨が降ってくれたことにも感謝したい気持ちになっていく。
雨が土砂降り状態になり地面がたくさんの波紋を作っていく。さすがにこの状態で歩くのは辛い。辺りを見渡すと雨宿りができそうな窪みがあった。二人はそこでしばらく様子を見ることにした。
「凄い雨ですね」椿がタオルで体を拭いていく。
「でも、この景色も綺麗です。なんだかこの景色こそが本来の姿なんだなって思うと雨に濡れるのが苦にならないんですよ」
レインコートの下はすでに水浸しだ。下着までびっしょりと濡れているが、不快感はない。山と一体化しているような気持ちにさえなってくる。
ふとリリーの目に閃光が飛び込んできた。それは洞窟の一番奥からだった。目をやると苔木の上にすーっと伸びた白い花があった。
近くによって指で測ってみる。人差し指の一節にもいかないくらい小さい花がある。
「春花さん、なんですかねこの花?」
「僕も初めて見ました、何でしょうね」
唐突に写真が撮りたくなった。心がこの閃きを逃すなといっている。
その花は可憐でリリーの瞳を焼き尽くすように光っていた。サクラの花びらを見た時と同じ感覚が迫る。この感情は留まることなく溢れ出てきている。
スマートフォンで一枚だけ写真を撮った後、彼女はこの感覚を忘れまいとしばらく花を眺めることにした。
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