第二章 『花』火の閃き PART3

  3.


「どうせ君の提案ではないのだろう? いいよ。たまには君もゆっくり休んだ方がいい」


「あ、ありがとうございます」


 リリーが頭を下げると、上司である橘(たちばな)は腕を組み直し小声でいった。


「時に彼女はどうだね? 元気にしているか」


 現在桃子が居候していることを知っているのは橘と万作だけだ。それは警察官という立場を考慮してのことだった。

 事件は解決したが被疑者に肩入れし過ぎるのはご法度だ。警察という組織の公平性が欠けてしまうし何より問題があった場合、自分だけの問題ではすまなくなる。


「ええ、最近笑顔が見られるようになりました」


「そうか。それはいい」


 橘はこほんと空咳をして真剣な表情を見せた。


「ところで君の方は大丈夫なのかね」


「といいますと?」リリーは意味がわからず聞き返した。


「屋久島に行くことがだよ」鋭い視線がリリーに掛かる。「君の父親から話は聞いている。君は行っても大丈夫なのかと訊いているんだ」 


「それは……行ってみないとわからないです。ただ彼女が喜ぶのなら行ってあげたいという気持ちだけです」


「そうか……まあ今の時期の方がいいだろう。冬には帰ってくるみたいだぞ、君の父親は」


「そうなんですか?」


「ああ、日本で仕事の打ち合わせがあるみたいだ」


 聞いていない内容なので答えようがない。父親とはほとんど連絡を取っていないからだ。


「また日程が決まったら連絡してくれ」


「承知しました」


 自分の席に戻ると万作が羨ましそうな顔でこっちを見ている。彼は椅子を回転させ彼女に話し掛けてきた。


「先輩、珍しいですね。夏季休暇を取るなんて。どこに行くんです?」


「屋久島よ。縄文杉を見に行こうと思ってるの」


 万作は驚嘆の表情を見せ腕を組んで唸った。

「それは凄い。世界遺産になった場所でしょう? 友人から聞いてますよ、行くだけで大変だと」


「そうみたいね。縄文杉だけで往復八時間掛かるみたいよ。もののけの森にも行きたいといっていたから、そっちも六時間くらいだけど」


「お察しします」万作は頭を下げていった。「でもたまには山登りもいいんじゃないですか、屋久島では常に雨が降っているみたいですし、先輩が行けば晴れるかもしれませんよ」


 そういった瞬間に万作の表情が曇った。おろおろと怯える彼の前に進むと彼の椅子が大きく曲がった。


「す、すいません。えっ、いやだなぁ、冗談ですよ。冗談。まさか本気に―――」


「ご忠告、ありがとう」


 リリーは躊躇することなく万作の足を力一杯踏んだ。



 家に帰ると、桃子が待ち構えていた。玄関で正座をしてリリーの帰りを待っていたようだ。


「お帰りなさい、リリーさん。ご飯も準備できていますよ」


 まるで子犬のようだなと彼女は微笑んだ。主人の結果を心待ちにして尻尾を振っているようだ。


「それじゃあ先にご飯を食べましょうか」


 ……すぐに結果をいうのは勿体ない。


 こんなに可愛い彼女は見たことがないからだ。鞄を部屋に戻しリビングに向かう。


 テーブルの前にはリリーが好きなものばかり並んでいた。今日は特別に気合が入っているようだ。桃子の得意料理の一つ、肉じゃがもテーブルの上にある。

 椅子に座り桃子と共に食事を始めた。


「それでどうだったんです? お休みはとれそうですか」桃子は顎を引き上目遣いでリリーを見ている。その大きな黒目が再び子犬を連想させた。


「うん。今日管理官に声を掛けたんだけど承諾してもらったわ。三泊四日でいいんでしょ?」


「ほんとに? ほんとですか?」桃子は席から立ち上がりぴょんぴょん、飛び跳ねている。


「そんな大袈裟に喜ばなくても」


「だって嬉しいんですもん。やったっ」


 桃子のはしゃぐ姿を見て、心の底から胸を撫で下ろす。これで少しは彼女も元気になってくれるかもしれない。

 リリーの前では元気な姿を見せようと振舞ってくれているのだが就寝中に声を殺して泣いていることもある。


 無理もない、と彼女は思った。四ヶ月前に母親を失い同時に付き合っていた彼氏に裏切られたのだ。

 血に塗れた畳の上で桃子が声も上げず座り込んでいる姿が再び蘇る。彼女はぐったりとしてじっと庭を眺めているように見えたが、目に光がなかった。彼女は何も見ずにただ呆然とそこにいただけだった。


 もしかすると今度の旅行の際に、内に秘めた何かを語ってくれるかもしれない。


 それに、自分自身にも課題はある――。

「じゃあ早速日程を決めないといけないですね」桃子は無邪気に微笑んでせわしなくガイドブックの耳を折っている。


「桃子ちゃん、片道三時間と四時間の登山になることを知ってるのよね?」


「もちろんです。大丈夫ですよ、それくらい」桃子は嬉しそうに味噌汁を啜りながら答えた。


 ……どうやら腹を括るしかないようだ。


 リリーは観念し大好きな肉じゃがを口に放り込んだ。最高の味付けだったが、しっかりと味わうことはできなかった。

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