第一章 一『瞬』の輝き PART8
8.
「この部屋なのですね。しかし綺麗な庭だなぁ」
店主と共に家に入り事件現場の和室に入った。電気を点けた状態でも外の様子は暗くてわからないが、彼には感じるものがあったらしい。
「春花さん、理由をお聞かせ下さい。なぜ桃子さんが犯人ではないと?」
「そうですね、ここに来てやはり桃子ちゃんが犯人ではないと確信しました」
「それはなぜですか?」
「僕には三つの疑問があります。まずですね、一つ目の疑問は何故曲刃のフローリストナイフを使ったかということです」
店主は右手の人差し指を鎌のように曲げた。
「曲刃というのは植物の茎を引っ掛けやすくしているんです。つまり、余分な力をかけないで切れるということですね。こういう風に引いて切るんです」
左手の人差し指に鎌を引っ掛け、引く素振りを見せた。
「つまり桃子ちゃんがこのナイフを使ったのなら引く動作をするしかない。血の跡を見ると畳の上にしか残っていないですよね」
リリーは頷いた。綾梅が庭を見ている時に後ろから襲われたのなら、いくらか庭に血が飛び出さなければおかしい。
「被害者の首筋に切り傷があるとのことでしたね。このナイフを正しい状態で扱うとなれば被害者から見て右から左にかけて切る形になります。でも桃子ちゃんは左利きなので、殺害に使うとすれば右から左に流れるはずです」
気づかなかった点だった。確か鑑識官は右から左に切られた跡があるといっていた。
「ええ、その通りです。右に引っ掛けた形跡があります」
店主は強い口調で断言した。
「何も知らない人間が桃子ちゃんのナイフを奪って左手で犯行に及ぶでしょうか? そんなことはありえない。右で使っても支障がないからです。犯人は桃子ちゃんが左利きということを利用しています」
「たまたま犯人が左利きだったということも考えられますが?」
店主はくるりと回って庭を背にした。だが表情は揺るがない。
「もちろんそういった考えもあります。しかし犯人が桃子ちゃんならこのナイフは使わないでしょう。背後に回らないといけないし何より自分が疑われることはわかっているはず。桃子ちゃんが犯人だとするなら、家にある包丁のほうが立派な凶器になるんじゃないでしょうか」
「確かにそうかもしれません。しかし勢いでナイフを使ったのかもしれません」
口論の末、桃子が綾梅の寝首を掻いたのかもしれないとも思う。しかし争った形跡がないことは証明されているので、彼の言い分の方が正しい。
「では次の疑問に移りましょう。二つ目の疑問は庭の池に落ちていたということです。あそこの池の中にあったんですよね?」
リリーは頷いた。「間違いありません」
「これも疑問が残るんです。庭に踏み込んだ形跡はなかったとのことだったので、ここから慌ててナイフを投げたと仮定します。もしここから直接投げたとすると、目の前にある木の中に入ってもおかしくないですよね?」
部屋から池までの距離は10~15m離れている。そこまでには低木の照葉樹林が無数に茂っており、行く手を遮っている。
「敢えてあの池を狙ったのでしょうか、そうだとすれば余程コントロールがいいんでしょうね」
店主はにやりと笑って続ける。
「ナイフは閉じたままでしたね、これはナイフの血が外に漏れないためとも考えられます。仮に犯人が衝動的にとった行動だとすれば、わざわざ折り曲げるのは不自然です」
心臓に圧迫感を覚えた。もし衝動的に投げるのであれば、わざわざ折りたたんで投げるはずがない。
「これも推測です。そして最後の疑問ですが刑事さんもご存知の通り、畳の上に松の葉が残っていたということでしたね。先日もいいましたが花屋でも松は扱います。ですが今の時期は扱いませんし、うちの店にはありません」
店主は大きく息を吸って続けた。
「代わりに一年中松を扱う職業があります。それは庭師です。大学病院の手入れは十一月から三月に剪定を行います。青々とした松の葉が落ちていたというならば、庭師の方が確率は高いですね」
リリーは初日に松の葉を眺めたことを思い出した。松の葉は綺麗な緑色をしていた。店主のいうことに辻褄は合う。しかし決定的な証拠ではない。
「なぜ松の葉が落ちていたんでしょうかね? それは普段の道具を用いた時に落ちたのではないでしょうか。鋏をしまう袋などからです」
「なぜ鋏をしまう袋が登場するんです、犯行はナイフですよ?」
店主は人差し指を立てて振った。
「傷が一つとはいえ、刃物が一つではない可能性だってありますよ」店主は自前の鋏を取り出した。「例えばナイフが扱いづらく、愛用している鋏をナイフにして切りかかった。その後に、桃子ちゃんのナイフを使い偽装工作を施した後、何食わぬ顔で家を出る」
……刃物が一つじゃない?
リリーは驚嘆した。その着眼点はなかった。確かに傷口は一つでも可能性はある。
「まさか、鉄鋏をナイフに変えたと?」
店主は首を縦に振った。「花屋なら考えられることだと思います。これを研ぐ時にはネジを取らないといけないので必然的に二つのナイフになります」
背中に電流が走る。書類の概要だけでこの事件を考えてしまっていた。犯人を桃子だという点からだ、刃物も一つという視点でしか見ていなかった。
それは全て論理だけで考えた結果だ――。
「どうですか、庭師の方にもう一度尋ねてみては?」
しかし夏鳥皐月にはアリバイがある。腑に落ちない点がいくつもある。
「春花さんの推理には辻褄があいます。でも夏鳥皐月にはアリバイがあり、秋風桃子にはアリバイがないんです。なぜ夏鳥皐月を疑うのです?」
リリーの疑問を余所に店主は質問を返した。
「桃子ちゃんは何故、昼ごはんを店の前で約束をしなかったのでしょうか?」
「それは、お気に入りのパン屋の進行方向上に大学のゲートがあったからじゃないんですか」
「お互いがフランスアのパンが好きだとします。しかし、なぜ大学側のゲートなのでしょうか? 病院側のゲートの方が自然なんですよ」
リリーは反論した。「それは大学側のゲートの目の前にパン屋があるからですよ、そっちの方が効率がいいからです」
「でも二人は恋人同士ですよね? 病院側のゲートでの待ち合わせの方がいいんじゃないでしょうか。大学側のゲートでは二人とも十分間一人で歩いている構図になるんです」
店主の真意がわかる。二人が恋人同士なら病院のゲートで待ち合わせをした方が恋人といる時間は延びるのだ。
確かにそっちの方が自然な気がする。
リリーはその時、桃子の証言を思い出した。
――いつもの待ち合わせ場所でといわれたんです。
ここから店主の店まで歩いて二十分、大学ゲートまで二十分。つまり桃子は四十分掛けて待ち合わせ場所まで歩いている。仮に動揺して大学ゲート側で待ち合わせをしたとしても病院ゲートを通るのだ。病院ゲートといい直しても問題ない。なぜこんな面倒な手筈をとったのだろう。
「反対方向にもパン屋はあります。仮にそちらで買ったら桃子ちゃんの自宅で食べようという話になるかもしれません。それを避けるため、大学側のゲートを待ち合わせ場所にしたんじゃないでしょうか?」
「なぜそんな発想が? 根拠はあるんですか」リリーは思わず大きな口調でいった。
「今の所はありません。でも秋風家の庭の手入れは蘇鉄さんがしているのですよね? この庭はとても美しい。ならここを皐月君が見に行きたいと思ってもいいんじゃないんでしょうか」
――プロになりたいんです。
背筋に冷たいものが通っていく。この仕事を本気でしたいといっていた皐月の顔が浮かぶ。本気で庭師を望んでいるのなら、勉強するには格好の場所だ。
「それを毎回反対側のパン屋へ向かうというのはやはり不自然だと思うんです。これには必ず訳があると思います」
皐月は父親達には付き合っていることを隠している素振りを見せていた。だが桃子とは幼馴染だ。一度くらい桃子の家に遊びに行ってもおかしくない。
「確かに、何かあるのかもしれませんね……春花さん、すいません。刑事として冷静に調査を行えていませんでした。すぐに庭師の彼に連絡をとってみます」
頭を下げると、店主は大げさに手を振った。
「そんなことはありませんよ。刑事さんは純粋に事件に立ち向かっていると思います。きっと事件は解決します。どうか焦らないで下さい」
「ありがとうございます。では帰りをお送りします」
「いえ大丈夫です。それより先を急いだ方が……」
時計を眺める。二十二時前だ。急いで向かわなければ話を聞いてくれる時間帯ではなくなる。
「すいません。また用件が済み次第、報告させて頂きます」
もし皐月が犯人で鋏を処分していたら……。
例えようのない不気味な空気が胸を覆う。急がなければ、人の一生が狂ってしまう。だがファーストギアに入れようとしても手の震えが静まらず中々入れることができない。
いくつもの不安を拭いながら、リリーは彼のアパートへ急いだ。
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