記憶

ある時一つの独立した精神に遭遇した。立会人のアドバイスで安定的な個としての存在意義を探すことを延期したので、そのときぼくは中途半端な精神状態でぼんやりと世界を漂っていた。存在意義はあえて空洞化しておいたほうがいいという意見が最近の主流になりつつあるらしく、彼はそれの審議と意義を見識者に訊くことになっていた。

ぶらぶらと自意識を伸縮させていると、見知らぬ思念がぼくの意識に語り掛ける。

__記憶をほしくない?__ 思念はささやく。記憶がないぼくにとって他人の記憶というのは非常に興味深い代物だった。ぼくは思念に訊く。

__記憶というのは、いったい誰のだい?__

__誰もかれもさ!抽象化された意味だけの記憶から個人の人生まるまる一本分まで、色々とあるぜ!__

ぼくは少し不安になった。もしかすると彼が持っている記憶の中には、わざわざぼくが金を払って消した記憶があるかもしれない。ぼくはいま自己を確立している真っ最中だ、望まなくともかつてぼくの一部だった記憶が、不十分なぼくに呼応して姿を現す可能性だってありそうなものである。

__その記憶って、昔は誰かの一部だったんだろう?記憶の持ち主はこんなところで自分の過去が売り買いされているなんて思ってもいないだろうね__ 

__とんでもない!!__ 彼は弱く振動しながら強く否定した。

__俺の持ってる記憶はみんなコピーだ。つまり、記憶を持つ人が自分の意志で複製を作ったのさ。そもそも記憶のコピーなんか同意がないとできないじゃないか。それに君は勘違いしているようだ。俺の記憶たちは商品じゃない。交換して回ってるのさ。例えば君の持ってる記憶をコピーさせてもらう代わりに、ぼくの持ってる記憶の中から一つ好きなのを君が選ぶんだよ。物々交換さ。君はちょっと記憶が他人に除かれる代わりに他人の記憶をのぞけるのさ__ 

少々悪趣味だとも思った。しかし他人の記憶というものをぜひ見てみたかったのだ。しかしぼくには当然問題がある。

__その、お話はすごくよさそうなんだけど…__

__そうだろう!なかなか面白いのもあるんだ。例えば、世界の横断に失敗して、思考が真っ二つに分裂した人だとか、金銭的な成功にありついた男がとにかく二時間豪遊した記憶とか、ありとあらゆるドラックをむさぼった完全なジャンキーとかね__

__なんだかすごそうだ__

__だろう!でも気を付けてくれよ、こないだジャンキーの記憶を取り込んだ男が、自分は全く素人のなのに、完全な禁断症状に陥ってな、いわゆる精神依存ってやつだけど、一週間くらいヤクを求めてたってんだからな!君も気をつけな!__

__すごく魅力的なお話なんだけど、実はぼく、記憶を持ってないんだ__

彼は少し驚いた様子だったが、この世界のこと思い出したらしく、こう切り出した。

__君は、記憶を消したんだな?__

__そうぼくは記憶を消した__

__そりゃいい!!__ かれの思念は小躍りしたかのように弾む。

__交換できないのにかい?__

__なにを言っているんだ、君は立派な記憶を持っているじゃないか!記憶がないという記憶だよ__ ぼくは少し戸惑った。

__わからないのかい?記憶を持っている人が多数派の中で記憶がないのはまれだろう?それに記憶を消してみたい人がどんなものか試してみることも可能だ__

__なるほど、そういうことか__

__とにかく好きな記憶を選んでくれ!俺は君の記憶を複製しないと__

ぼくは空っぽの記憶の見返りに、世界を100階層移動した旅人の記憶をもらった。


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