message
ぼくはまだ落ち着いていた。薬が効いてるようだ。どうもいまのぼくに実態はないようだ。ぼくは右手をみる。そこにある。左手をみる。そこにある。思い出してみればさっきコーヒーを飲んだ。それに薬を使って記憶を消したのだ。物理的に存在していないとはどういうことなのか。
「意識を安定させる薬を使っているので、あなたは精神世界を物理世界かのように勘違いしているのです」男は相変わらず淡々としている。
「感じ方の違いですよ。薬は使いましたよ、もちろん物理的に存在しているあなたにね」どうもぼくは肉体と切り離されているようだ。
「とりあえず今後につて話しておきましょう」
彼がぼくに説明したのは大まかに分けて二つ。過去と未来についてだ。
過去について意外だったのは、過去の僕が現在のぼくにたいしてメッセージを残していたことと、負債は完済されていたことである。ぼくが記憶を消した経緯については過去のぼくからのメッセージで事足りるといっていた。そして未来について。ぼくが精神的に存在している裏の裏の表の裏世界は、思念としての人口が約二兆から五十兆の間を行き来しており、世界としてはかなり不安定な部類に入るようだ。寄せては返す波の様な世界だそうで、物事が確定されたにもかかわらず、時間的な制約がたびたび意味をなさなくなる特徴を利用して、記憶の操作が産業としては盛んらしい。そして当面の間私はここに住むことになる。場所という概念は必要ないが、精神のよりどころというのがあったほうが記憶削除後の意識安定にいいらしく、部屋という形態をとってぼくに一つあてがってくれた。あのドアのない部屋である。とにかくぼくはこの世界でしばらくの間様子を見なければならないようだ。無理をすると精神そのものが無数に分裂して意味を消失してしまうというのである。
ぼくは部屋にもどった。何よりぼくが気がかりなのは、部屋の殺風景なことではなく、過去のぼくが残したメッセージである。それは音声のような形をしていた。耳で聞くのではない。脳で感じるのである。緑色をしたゴマ粒みたいな形をしていて、つぶして使うと言っていた。不思議なメディアであるが、ぼくには実態がないのだ。空気の振動は無意味である。メッセージを開封してみた。情報が飛び込んでくる。静電気のようでぴりぴりとむずがゆい。意味が展開されていくプロセスが視覚的に知覚できた。過去のぼくが今のぼくに語り掛けてくる。
___えーっと、聞いてくれ__ 挨拶はなしのようだ。
__怒っていると思う、無理もない。でも辛かったんだ。おれは裏の裏世界である女性と出会った。彼女の名は……いやばかげているな。せっかく記憶を消したのにこれじゃあ意味がなくなっちまう。とにかくこの人のことを忘れたかった。本当は記憶の一部を消せば良かったんだ。彼女に会う少し前から現在まで、とかさ。でも領域の指定は金がかかるし、なにより完璧じゃない。とにかく俺はすこしも彼女のことなんか思い出したくなかった。わかるか? 悪く思わないでくれ、俺も必死だったんだ。とにかく真相とか調べないでくれ。いいことはない。高い金払って忘却した嫌な思い出をわざわざ思い出そうとするなんて馬鹿のやることだ。記憶の消去はリピーターが多いみたいだぜ、気をつけな__
嘘みたいだ。女性のためにぼくはぼくをやめたのだ。なんだか全然想像がつかない。それになんだろうこのメッセージは。これじゃまるで別人である。確かに記憶は個人を個人足らしめるのに重要なエレメントである。他人の記憶に置き換えられた場合、自己を保っていることは難しい。なぜなら他人の記憶であることが分からないため、他人を自分と認識してしまうから。それにしてもこうも違うものか。
__それから、今のお前は精神的に存在してるだけなわけだ。じゃあ肉体はどこだって話になる。君の物質的な入れ物は、今俺がいる世界の表側にある。あるんだけど、おれはそれを売っちまった__
売った?売ったって?
__だから必要な時は買ってくれ。蓄えはあるはずだ。立会人からもらったコードに金はある、だからまあ立会人のいうことをよく聞いたうえで好きに暮らしてくれ。じゃあな__
メッセージはこれで終わりだった。
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