中 軍勢

 いつの間にか、なにかの羽ばたく音が、村を取り巻いている。

 それは酒場にいる人々にも容赦なく降り注いだ。おびただしい数のなにかが空を飛んでいるのだと、否が応でも理解させられる。


「魔物、か」


 旅人の男は色めき立つ村人達を横目に、ゆっくりと立ち上がった。

 その服の裾を少女の小さな手が握り締める。恐怖からかと思えば、様子が違った。


「厨房の奥に、裏口があります。そこから逃げてください!」

「逃げるって言っても、この調子じゃ難しいだろ」


 空から監視されては、暗闇に紛れたとしても逃げおおせられるかは五分五分だ。

 男は少女の手を押さえると、事態の深刻さをわかっていないような顔のまま立ち上がった。


「……それに、ちょっと気になることもあるしな」


 少女はその呟きに不穏な気配を感じる。だがそれを問いただす時間はなかった。


 村人達は、一斉に酒場の出口へ殺到している。

 魔物がいるのなら、どこか安全なところに身を隠すべきだ。それでも彼らには外へ向かわねばならない理由があった。


 酒場の扉の向こう側に広がっているのは、地獄の光景だ。

 空を埋め尽くさんばかりの魔物の群れが、次々と村に降り立ってくる。

 ひょろりとした四肢と蝙蝠こうもりの翼を備えた、伝承に現れる悪魔にも似た魔物達だ。


 村人達の民家が魔物の手によって、焼かれ、砕かれ、無惨に打ち壊されていく。

 そしてその中から、恐怖に泣き喚く若人達が引きずり出されているのだ。

 悲痛な声が飛び交う。村人達の、我が子を呼ぶ声だ。


「通りかかったんでな。また収穫しにきたぞ」


 その瞬間、身の毛もよだつ響きが降ってきた。

 星すら見えない曇天の夜空。そこに、夜よりも暗い色をした魔物が浮かんでいた。


 他の魔物と同じ、人間のようなシルエットのものだ。

 だが体躯は他のものと一線を画する。

 丸太のような腕と足。直立すれば成人二人分、横幅はそれ以上にもなる。

 並の人間など、彼は指一本で蹴散らしてしまうだろう。


「待ってくだされ! もうこれ以上は……村が立ち行かなくなってしまう。どうかご勘弁を!」


 地へ降り立つ黒き魔物に、酒場にいた老齢の男が叫んだ。

 魔物は怪訝そうに唸ると、今まさに崩れ落ちようとする家屋を振り返る。


「おい、人間はぽんぽん生まれては勝手に育つって話だろ。違うのか?」

「さぁ。俺達よりは早いのは確かだが。さすがに一年やそこらじゃ、成体にはならないようだな」


 地を震わせる声と共に、全身を灰色の毛で覆った魔物が焼けた家の中から現れる。

 他の魔物と比べ、より獣に近い姿形の魔物だ。

 黒い魔物と同じく、高度な知性を持っているようだった。


 その巨大な掌には、ぐったりとした女性が無造作に握られている。

 村人の中から、押し殺された呻き声が漏れた。彼女の父親のものだ。


「頼む、娘だけは! 代わりに俺が生贄になる、それでいいだろう!?」


 恐怖心さえも凌駕する矜持に突き動かされ、彼は親玉と思しき魔物に詰め寄った。

 その瞬間、魔物が腕を一薙ぎする。

 まるで突風のような衝撃が、娘の父親を吹き飛ばした。

 魔物にとっては人間など、手を触れずともあしらえる程度のものでしかないのだ。


「お断りだ。年老いた人間の肉は、臭くてまずいからな。やはり若いものに限る」


 それは、あまりに残酷な言葉だった。

 息子や娘を過去に奪われただろう親達が、その場に頽れる。


「くそっ……魔王は勇者様が退治したって話じゃないのかよ。なんで、こんなことに……」


 それは誰の呟きだったものか。あるいは村人達全員の嘆きだったのかもしれない。

 そう、人間を苦しめていた魔物の王は、数年前に勇者が討ち果たしたはずだった。

 国は湧き、使者が国中の街や村を巡ってそれを喧伝けんでんした。そして確かに、魔物の被害は減ったのだ。

 だがそれも、あくまで全体の話だ。実際に被害を受けている当事者には、なんの関係もない。


 その呟きを聞きつけて、魔物が一斉に笑い出した。

 四方八方から降り注ぐ哄笑。村人達は耳を塞ぎ、震えるしかない。


「馬鹿が。魔王様は、御身おんみを隠されているだけに過ぎん。またいずれ我らを率いてくださる」

「貴様らなど、かの御方の胸三寸で塵芥に帰す運命よ」


 悪夢のような時間が過ぎ――ぴたり、と笑みが止む。

 そして黒い魔物は、冷徹な声で言った。


「この狩場は駄目だな。全部喰っちまおう」


 それは、虐殺の宣言だった。

 その意味を理解した村人達は顔を蒼褪めさせ、身を震わせる。

 だが、あまりの恐怖に逃げ出すことすらできなかった。


「そうだな。仲間も増えた、次はもっとでかい街を狙おうか」


 毛むくじゃらの魔物が楽しげな声で首肯する。

 そして、おもむろに、手に握った女性を口元に運んだ。

 あまりに無造作な動きだった。人間が野いちごを摘むように、人間を喰らおうとしているのだ。

 誰一人、魔物達に立ち向かうことはできなかった。


 自分達では戦いにさえならない。

 そう理解してしまった者は、ただ立ち尽くすしかないのだ。


「――――なるほどな」


 そのとき、ぽつりと零れ落ちる小さな声。

 囁くような声は、しかしなぜか、その修羅場に驚くほど広く行き渡った。


「ちょっとどいてくれ。通してくれよ」

「ま……待ってください! 危ないです!」


 それは、二度の土下座の末にようやく食事にありつけていた、旅人の男だった。

 制止しようとする少女を逆に押さえ、人垣を押し退けて前へと出て行く。

 そして、平然と魔物の親玉達と対峙した。知り合いに挨拶に行くような気軽さだ。


「おかしいと思ってたんだよ。計算どおり、人間どもは魔王がいなくなったのを自分達の手柄にしてくれたし、あとはほとぼりが冷めるのを待つだけだったんだが」

「あぁ? てめぇ、なにを言って……」


 魔物の苛立ち混じりの声は、ばさ、という音にかき消される。

 それは、羽ばたきの音だ。

 魔物達が背に備えた大きな翼で、空を切る大きな音。


 少女は、村人達は、そして魔物に取り押さえられている若者達でさえ、驚愕と恐怖に凍りついた。

 男は、背に翼を生やしていた。

 黒く大きな、皮膜の翼――魔物の象徴たる悪魔の翼だ。


、どこに行っても魔王復活の噂を聞くのは何故かと思えば……お前みたいなのが、あることないこと言い触らしてたんだな」


 腹腔から吐き出される、怨嗟の声だ。

 みしみし、と崩壊した家の残骸が激しく軋む。

 無形のプレッシャーが、滅びに瀕した村の中で渦を巻いているのだ。


 そのすさまじさは、目前にいる魔物の群れよりも、村人達を恐慌に駆り立てた。

 ほとんどが腰を抜かして倒れこみ、意識さえ失う者が続出する。

 ただそこにいるというだけで、この場にいるどの魔物よりも格上だと示していた。


「貴様、まさか魔王様か?」


 しかし、黒き魔物の声には喜悦が滲み出ている。

 様という敬称に込められたのは畏敬ではなく、揶揄やゆだ。


「そうか、そうか! あんたには世話になったぜ!」


 げらげらと毛むくじゃらの魔物もわらう。

 それにつられ、気圧されかけていた他の魔物も余裕を取り戻し始めた。


「魔王様の復活をほのめかせば、どんな軍隊でも恐れおののいてくれたからな。やりやすくてしょうがなかった!」


 男――否、魔王は苛立ちと忌々しさに口の端を歪ませる。


「お前ら、軍の末端にさえ加われなかった半端者のごろつきだな。素行も悪けりゃ力も弱い小物が、俺の名前を勝手に使って調子に乗りやがって。迷惑料、ちゃんと払えよな」


 そう言って、魔王も笑う。

 それは、失笑だった。

 怒りこそ感じているものの、その熱のあまりの低さ。

 小動物に砂をかけられた程度にしか思っていない、と言外ににおわせているのだ。


 魔王の態度は、自らの力に絶対の自信を持っていた魔物達のプライドを傷つけた。

 毛むくじゃらの魔物が、手にしていた女性を物のように放り投げる。

 そしてその手を、背後にある建物に振るった。

 倒壊しかけの家屋は、腕から放たれた衝撃波だけで根こそぎ消し飛んでしまう。

 ただの打撃ではない。魔力によって練り上げられた、魔法の一撃だ。


 魔物達の群れの気配が、変わる。

 村人達は、これこそが魔物の本来の姿だと知った。

 今まで恐怖の権化ごんげのように思えていた魔物達は、しかしその本来の力の一端すら村人達に見せてはいなかったのだ。

 いつか奴ら一矢報いたい、そう腹の底で願い続けてきた村人達の心が折れた瞬間だった。


「あんたには、がっかりしたぜ。噂には聞いていたが……まさか本当に、人間まがいの形をしていたとはな」


 魔物達は本能から、魔王が並々ならぬ力を秘めていることに気づいている。

 だが数の有利、そして魔王が消えてより積み上げてきた経験が彼らを奮い立たせているのだ。


「貴様は《軍勢レギオン》などと呼ばれていたらしいが、自慢の魔王軍は既に散り散りだ。人間を喰らいまくって力をつけた俺達を、たった一人で相手にできるはずがない」

「あんたを喰らえば、俺達はもっと強くなる。俺達のために死ねよ、魔王様!」


 空に広がっていた魔物達が、一斉に動き出す。同時に、二体の親玉も全身に魔力を漲らせ始めた。

 当然ながら、彼らは村人のことなど考えてはいない。

 突然始まった仲間割れ。その巻き添えになって死ぬのだと、村人達は生気を失った空虚な目で、ただ呆然としていた。


 そのとき、稲妻にも似た閃光が魔王の腕をはしる。

 予備動作のない魔法の発動に、仕掛けようとしていた魔物達は蹈鞴たたらを踏んだ。

 突如として、魔王を中心とした巨大な魔法陣が地面に現れている。

 魔法に精通した魔物が集まり、複数集まってようやく成立させられる。そういう規模と精緻さの代物だ。


「たった一人だと? 間抜けめ。俺に《軍勢》とかいう異名がついたのは、魔王軍ができる前なんだぜ」


 魔王は、今度ははっきりと笑みを浮かべた。

 愚かな魔物達への哀れみと、殺戮の愉悦だ。


「《高位死霊術ハイ・ネクロマンシー》!」


 魔法陣から生まれた黒い稲妻が、村の中を縦横無尽に駆け巡る。

 その直後、村人達から悲鳴が上がった。

 なにもない地面に深淵の穴が開き、そこから骨でできた手が生え出てきたのだ。

 それは穴の縁を掴むと、一息に身体を持ち上げて現世に侵出する。

 アンデッドの戦士、スケルトンだ。

 なにも身につけていない骸骨が、魔王を守るように数十も立ち上がる。


「《木偶創造クリエイト・ゴーレム》!」


 新たな魔法が、更なる魔王の下僕を呼び出す。

 大地の一部が切り取られ、それが自らの意思を持って起き上がる。

 その拳で城壁すらも突き崩す恐るべき木偶の群れが、家屋の残骸を拾い上げて武装し始めた。


「《広域無差別使役テイム》! 《召喚サモン》!」


 村の中、そして周辺にいた獣達がなにもない空間を切り開いて現れ、一斉に吼え声を上げる。

 野の獣も、家畜も、すべてが魔王に従っているのだ。


 ほんの一瞬で現れた、魔王の配下達。

 それは、数だけならば既に相対する魔物達を凌駕していた。


「怯むな! こんなもの、こけおどしだ。雑魚を侍らせて、いい気になってるんじゃねぇ!」


 己を奮い立たせるための叫びは、しかし明らかに震えていた。

 あるいは、彼らは既に理解していたのかもしれない。

 ここまで練り上げてきた力、技、強い意思。

 そのすべてが、この光によって打ち砕かれるのだということを。


「対象、俺の味方全員! 《伝説級付与魔法レジェンダリー・エンチャント》!」


 魔王が宣言すると――展開されていた魔法陣が、一気に弾ける。

 その光は、魔王の呼び出した下僕達すべてに吸い込まれた。

 骸骨も、木偶も、獣も、白銀の色に染め上げられる。

 魔物の言うとおり、本来それらは木っ端のような力しか持たない。

 だが、魔王の加護が彼らの力を数十倍にまで引き上げる。


 狼狽する魔物達を目前に、下僕達は静まり返って佇んだ。

 猛る意味など既になかった。彼らは、待っているのだ。

 王の下す、その命令を。


 魔王は会心の笑みを浮かべると、手を掲げて、振り下ろした。

 罪人の首を、落とすように。


突撃いけ!」


 その瞬間、白い残影が飛び交った。

 展開されるのは、阿鼻叫喚の地獄だ。

 だが、それは人の嘆きではない。

 この地を蹂躙じゅうりんし続けてきた魔物達の、断末魔の悲鳴だ。


 ただの鳥や蝙蝠が、その身を矢として空の魔物を貫いていく。

 木偶の振るう木材は攻城兵器の一撃に匹敵し、並み居る群れを薙ぎ払う。

 スケルトンや番犬達が残像すらなく消えれば、次の瞬間には魔物の喉笛を食い千切っている。


「ば、馬鹿な! こんなことが!」


 築き上げてきたものが、瞬く間に崩れ去る絶望。人々を恐怖に陥れてきた黒き魔物は、今は弱者のように震えるしかない。

 その耳に、一つの絶叫が届く。

 見れば、長い時を共にしてきた群れの頭の片割れが、白銀の軍勢に呑み込まれるところだった。

 全身を食い破られ、打ち据えられ、切り刻まれていく。常に敵の血で赤く染め上げられていた魔物の毛並みは、今は自らの鮮血で濡れぼそっていた。


「た、助け……」


 なにかを言いかけた魔物の頭部を、家畜の牛が猛然と踏み砕く。

 灰色の脳漿のうしょうがぶちまけられ、暴虐の限りを尽くした魔物は痙攣を繰り返すだけの肉塊へと変わった。


 かたかた、と軽快な音がする。

 相棒の壮絶な死をなすすべもなく見つめていた黒き魔物は、目の前に一体のスケルトンが現れたことに気づいた。


 なにも存在しないはずの眼窩がんか

 しかしそこには妄執が存在した。底知れぬ恨みと、復讐の渇望だ。


 魔物は恐慌から叫び、その豪腕を振るった。

 人間など一撃で血溜まりに変えられるそれは、しかし手応えがない。

 代わりに与えられたのは、鋭い衝撃と鈍い痛みだった。

 スケルトンは鉄球にも匹敵する拳を受け流すと、魔物の懐に飛び込んでいた。

 まっすぐに伸ばした骨の腕は、魔物の胴体に易々と突き立っている。

 抜き手は肋骨の間を抜け、重要な器官を完全に破壊していた。

 スケルトンは内臓や血管を掴むと、それらを引き千切りながら抉り出す。

 ぶちぶち、と生々しい音と共に、肉片と鮮血がぶちまけられた。


「せめて、その万倍、手下を増やしておくべきだったな」


 血反吐を零して膝をつく魔物に、魔王は面白くもなさそうに言った。

 彼は魔法陣を描いた場所から一歩も動いてはいない。

 深淵よりも深く、暗黒よりもなお暗い瞳は、絶望に歪む魔物の面を眺めている。


「た……頼む。あんたの配下になる。だから助けて……」


 魔王は魔物の懇願を鼻で笑い飛ばすと、周囲をちらりと一瞥する。

 もはや生き残っている魔物などおらず、獲物を狩り尽くした狩人達がいるだけだ。

 白銀に光る身体を敵の鮮血で濡らした彼らは、残った命の灯火に向かってじりじりとにじり寄る。


「悪いな。間に合ってる」


 それは、死刑宣告だった。

 絶望を通り越して諦観に至った魔物の目には、迫る白銀の波しか映ってはいない。


 この村のみならず、国の管理が行き届いていない小さな集落を狙って力を蓄えていた狡猾な魔物の群れ。

 その最期は白銀の軍勢によってもたらされたのだった。

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