ひとりぼっちのレギオン
テイル
前 消えた魔王
普段は荘厳な気に満たされている王城。
しかし、その日、そこには剣呑な気配が溢れていた。
剣戟の音、血臭、悲鳴と怒号。
どこからともなく生まれたそれは、大きなうねりとなって、すさまじい速度で城を駆け巡っていく。
うねりはやがて、王城最奥部に到達する。
地獄の門を思わせる巨大な扉が、弾かれるようにして開かれた。
ずかずかと踏み込んでくるのは、政治家でもなければ侍女でもない。物々しい武装に身を包んだ兵士だ。
彼らは一人の例外もなく全身を紅に濡らしている。その兜も、鎧も、そして屈強な肉体を覆う緑色の鱗も。
精悍な面の、前に突き出た顎からは、興奮と緊張の熱い吐息が漏れ出している。
リザードマンの種族は、生まれながらの戦士だ。城の中で政を担っていた者達では、歯が立たなかっただろう。
「なんだ、騒々しいな」
濃密な殺意を身に纏った集団。そこに、穏やかな声がかけられる。
豪奢な装飾の施された玉座に深く身を沈める、一人の男の声だ。
彼は兵士達を睥睨すると、気だるげに続けた。
「そんな格好で城をうろついていたら、大臣にどやされるぞ。団長」
「彼は、既に死んだよ」
その男に答えるのは、兵士達の先陣を切ってきた者だ。
団長と呼ばれたリザードマンは、他の者達よりも二回りは大きな体躯を誇る。世に生まれ落ちてより敗北を知らないのだという逸話にも頷けるほどの迫力だ。
しかし、その団長をして、今は武者震いに全身を
「そして、次は貴方の番だ。魔王!」
頭上で、ぐるり、と得物のハルバードを振り回し、団長は吼える。
それは彼ら皆が主と仰いでいた魔王への、明確な反逆だった。
ややあって――。
笑い声が、漏れる。
クーデターを仕掛けた団長への嘲笑でもなければ、彼を迎え撃とうという気迫の哄笑でもない。
それは、失笑だった。
目の前で繰り広げられている出来事への、最大級の侮辱だった。
「クーデターなんて起こさなくても、魔王の座がほしいなら喜んで明け渡してやったものを。王様ごっこにも嫌気が差していたところだ」
「ごっこ……だと?」
歯を軋ませ、団長が呻く。まるで地獄の底から響いてくるような声だ。
彼は不甲斐ない魔王に、ずっと不満を抱いていた。
遥か昔から争い続けてきた魔物と人間。その戦況が魔物の側に傾き始めてきたというのに、魔王はいっかな全面戦争を始めようとしない。
それでも、魔物達をまとめ上げて、人間達に対抗できるだけの軍を作り上げた功績に敬意を表し、度々の進言で止めていた。
きっとなにか思惑があって最後の命令を下さないのだと信じていたのだ。
だが、それも既に我慢の限界だった。
機を逸しては、人間達に立ち直る隙を与えてしまう。ここで攻めなければ、かつての虐げられてきた時代に逆戻りだ。
だからこそ団長は、クーデターを起こして軍の全権を握るべく動いた。
魔王に心酔していた者は多かった。団長も、その中の一人だ。だが魔物達の悲願のため、皆は血の涙を流して最愛の主を裏切ることに決めたのだ。
その悲壮な決意を嘲笑ったばかりか――王の責務を、ごっこ遊びと言い放った。
魔王の傲岸不遜な態度に、兵士の目が紅にぎらつく。赫怒の発露だ。
「玉座だけでは、不十分だ。古き者が滅び、魔族を導く偉大な王が生まれたことを示すには、その首が不可欠!」
がしゃ、と音を立てて団長がハルバードを構える。その背後で、陣形を組んだ兵士達もまた、同時に武器を構えた。
魔王軍最強の戦士と、その配下の精鋭たち。人間の軍ならば余裕を持って蹴散らせてしまうほどの戦力だ。
彼らを前にして、死を覚悟しない者などいないと思われた。
「愚王よ、最期に残す言葉はあるか!」
「……言いたいことは山ほどあるが、あえて一つ選ぶなら、そうだな」
肘掛に頬杖を付いていた身体を起こし、寝起きの間延びした声で魔王は言う。
その両手が、何気なく持ち上げられた。
それは殺意どころか戦意も害意もない、ただの日常の動作のはずだった。
ぱり、と音を立て、魔王の腕に光が奔る。
瞬間、なんの前触れもなく、魔王と団長達の間の空間が鈍く照らされた。
血を吸ったような色の絨毯に広がるのは、畏怖を覚えるほど精緻な、幾重にも重なった魔法陣。
そのとき、兵士達は同時に絶対的な予感に全身を貫かれていた。
逃れえぬ死の予感。
それは猛り狂っていた彼らの熱情を、一瞬で塗り潰してしまう。
後に残ったのは、もはや無事で切り抜けることなど不可能なのだという諦観のみ。
ここまで練り上げてきた力、技、強い意思。
そのすべてが、この光によって打ち砕かれるのだと、彼らは知ってしまった。
自分達では戦いにすらならない。
そう理解してしまった者は、立ち尽くすしかないのだ。
「せめて、その千倍、兵士を連れてくるべきだったな」
圧倒的な驚愕と恐怖。歴戦の勇士さえ身動き一つ取れない重圧。
団長達は
◇ ◆ ◇
それが吉報なのか凶報なのか、人間達は図りかねていた。
人類を苦しめ続けてきた魔物、その親玉たる魔王の棲む城――忌まわしき魔の象徴が、一夜にして消え去ったという。
野には未だに魔物が
人間達が抱いていた警戒心と猜疑心は、時が立つにつれ、歓喜に変わっていく。
魔王軍による人類への侵略戦争は、統率者の消滅という致命的な出来事により終焉を迎えたのだ。
しかし魔物の脅威はすぐには収まらなかった。
散らばってしまったとはいえ、魔物は単体でも脅威だ。低級の眷属でさえ、訓練された兵士が数人がかりで一匹倒すのがやっと、というほどの力量差がある。
そして、行方が
彼が、またいつ突然に表舞台へ戻り、人間に絶望を与えるのか。人々は格段に改善された生活を享受しながらも、心の底では恐怖し続けていた。
◇ ◆ ◇
魔王が消えてより数年の時を経た、とある村にて――――。
「頼む! ほんの少しだけでいいんだ!」
そう叫んで、男は土下座した。
この日、都合二度目の土下座である。
一度目は、夕暮れを過ぎた頃に村の門を通してもらったときだった。
集落を出て数分も歩けば魔物に出会うような世界だ。陽が傾いたあとは、どんな街や村でも門を閉めて外部からの侵入を拒む。
彼はまさに閉まろうとしていた門に滑り込み、渋い顔をする門番に頼み込んで、なんとか入れてもらったのだった。
「そう言ったってねぇ……」
そして性懲りもなく額を土にこすりつけているのは、単純な話で、食料を持ち合わせていないからだ。
彼は数日間、まともなものを口にしていない。そろそろ名も知れない草や生焼けの獣肉ではなく、調理された食物を摂りたかったのだ。
ただ悲しいことに、男は
「なんかの切れ端でもいいから! なんなら残飯でも!」
「いい加減にしておくれ。人の店の前で……営業妨害だよ、これじゃ」
二人の脇を村人達が怪訝な顔をして通り過ぎ、酒場に入っていく。変なのが入り込んだもんだね、と客の男に同情され、女将は肩を竦めて苦笑いを返した。
「女将さん」
か細い声は、酒場の中からだった。
男が顔を上げると、みすぼらしい格好をした痩せぎすの少女が視界に映る。
女将は
「なに油を売ってるんだい。さぼってるんじゃないよ!」
「私の賄いを分けますから、その人をお店に入れてあげられませんか?」
理不尽な暴力にも怯まず、少女は言い募った。
意思が強いのか、あるいは慣れ切っているだけなのか。いずれにしても、その健気さは見ていて痛々しいほどだった。
「そこで、そうされているよりは、ましだと思いますけど……」
「……勝手にしな」
女将は地面に伏した男と少女を順繰りに睨みつけたあと、ちっと舌打ちをする。少女を押し退けて店に戻る途中、吐き捨てるように呟いた。
少女は安堵の吐息をつくと、地面で小さくなっている男に駆け寄る。そのそばに跪き、恐る恐る手を伸ばした。
水仕事に荒れたその手を、男が勢いよく掴む。
「ひゃっ!?」
「ありがとう……本当にありがとう……!」
がばっ、と身体を起こした男は、この辺りでは見かけない風貌をしていた。
女将が渋っていたのは、そんな輩を店に入れたくないという理由もあった。
少女は感動に目を潤ませている男に呆れながらも、店の入り口を指差して言う。
「とにかく、入ってください。隅にある席なら使ってもいいと思いますから」
男は少女に促され、ようやく立ち上がった。
酒場の中は薄暗く、人々の話し声がさざなみのように寄せては引いている。
しかし、酒が振る舞われる店にしては、やや活気がない。
それもそのはずで、ここにいるのは壮年から初老の年齢の者ばかりだ。
少女に言われたとおり、隅の席に腰を下ろした男は、怪訝な面持ちで村人達を眺めていた。
「お待たせしました」
そこに、先程の少女がやってくる。
店の手伝いをしているらしく、料理を運び食器を並べる動きは堂に入っていた。
男の前に置かれたのは、色々な料理を一つの皿に少しずつ盛り付けただけのものだった。賄い飯というイメージどおりのものだ。
「見てくれは悪いですけど、味はちゃんとした料理と変わらないはずですから……」
彼女が弁解を言い終わる前に、男はもう手を伸ばしていた。
木でできたスプーンで
その一口目を含んだ瞬間、男の目から雫が零れ落ちた。感涙だった。
「うまい……」
この人、一体どんな生活をしてきたのだろう、と少女は憐憫の情すら抱く。
もっとも、痩せた身体のとおり、彼女自身も満足な食事をできているわけではなかった。
男は食事の手を止め、ばつが悪そうな顔で言う。
「悪かったな。これ、本当は君の飯なんだろ?」
「大丈夫ですよ。私の分は、ちゃんと取っておいて……」
あっけらかんと笑おうとした少女だが、男の目を見て、その言葉を止めた。
あれほど無様な姿を晒したこの男は、しかし深淵のような目をしている。
その前では一つの嘘や誤魔化しさえ許されない、そんな恐ろしさがあった。
「ごめんなさい、嘘です。でも、困った人は助けなさいって両親に言われていましたから」
男は、そうか、と呟いて頷いた。
両親のことを語る彼女の言葉は、過去形だった。
それがなによりも雄弁に彼女の境遇を物語っている。
「それより、明日になったらすぐにここを発った方がいいです」
「なにか厄介事でもあるのか?」
彼女の警句に、男は目を
少女はカーテンで締め切られた窓を見た。意識しての行動というよりは、反射の動き。それも、恐怖に駆り立てられた動きだった。
「魔物が、やってくるんです」
彼女は小さく囁いた。魔物という単語すらタブーなのだと言わんばかりの小声だ。
「それも、人間みたいに喋るものが……若い人間をよこせって、頻繁に。拒んだら皆殺しだって……」
「ここに若い奴が少ないのは、そのせいか」
男は酒場の活気のなさを理解する。
残された数少ない若者達も、それぞれの家などに
「あの……あなたは旅人なんですよね。王都に行くことがあったら、この村のことを伝えてくれませんか? 何度か陳情書を出しているんですけど、まだ返事かなくて」
「構わないが、たぶん無駄だな」
男は、にべもなく言い放つ。
あまりに薄情な物言いに、少女は言葉を失った。
だが、それは男の優しさでもある。
「魔物の討伐は、軍にとって最重要の任務だろ。なのに助けを求める村人を無視してるって言うなら、理由は一つだ」
「り、理由って……」
「見捨てたのさ」
自分の国の領土を侵す
だが、それがあまりにも厄介な強者であれば話は別だ。
人語を解する魔物は、特に高い知性と能力を持つ。人間の軍もそれは知悉しているに違いない。いくつかの小さな寒村のためそれらを刺激したくはない、と考えられてもおかしくはなかった。
「そんな……じゃあ、私達はどうすればいいんですか?」
声を震わせる少女に、男は肩を竦めるだけでなにも言わない。
下手な希望を持たせれば、つらい。そのためにあえて真実を告げた。
そして、彼女の問いに答えないのも、同じ優しさからだ。
見捨てられたのだとすれば、この村の行く先は、魔物の胃袋でしかない。
そればかりは、少女に伝えるのはあまりに残酷だ。
「いつまでそこでくっちゃべってるんだい。手伝いな!」
黙りこくった男に少女が詰め寄ろうとしたとき、遠くから怒号が届いた。
彼女を呼ぶ女将の声だ。
「はい、ただいま!」
少女は頭を下げると、慌てて走り出していく。
ぱたぱたと忙しない足元。
それがもつれて、少女は前のめりに倒れ込んでしまった。
それは、彼女のそそっかしさが原因ではない。
地面が大きく揺れ、彼女を転倒させたのだ。
「なんだ、今のは?」
「魔物だ!」
酒精にまどろんでいた村人の一人が、切迫した様子で叫ぶ。
それは、平穏な夜の終わりを告げる声だった。
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