妖怪からの依頼

第26話 妖怪からの依頼 その1

 ある金曜日の夜、いつきの住む街に男がひとりやって来た。見た目に特に何の特徴もない男はかなり疲れた様子で、ぶつぶつと何かをつぶやいている。


「ハァ……ハァ……折角ここまで来て……寝ちゃダメだ…寝ちゃダメだべ……」


 男は苦しそうにしながらひたすら自分に言い聞かすように同じ言葉を繰り返していた。時間は夜の8時30分。夜とは言えまだ早い時間帯だ。男はこの街まである噂を聞きつけてひたすら歩いてやっと辿り着き、かなり疲弊してしまっていた。それが強烈な眠気へと変わってしまったのだろう。

 眠るまい、眠るまいと必死に本能に抗っていたものの、やがて理性の糸はぷつりと切れ、その場にバタリと倒れこんでしまった。


 道端に倒れピクリともしない男の姿は下手したら行き倒れたんじゃないかと勘違いするほどだった。

 しかしそれから数分後、すっかり眠ってしまったかに思われた男の体が、突然小刻みに動き始める。


「ウガァァァァ!血が!血が足りねぇェェェ!俺に血を見せろォォォ!」


 そう、一度眠り意識を失った男が別人格を表に出しながら起き上がったのだ。その豹変ぶりはまるで二重人格のそれで、人が変わった男はその溢れ出る狂気を何ひとつ隠そうともせず、そのまま繁華街へと向かう。

 まるで人を襲う為に通行人を値踏みするように次々に睨みつけながら歩いていくその荒ぶる男の存在に、周りの人々も怯え始めた。


 表情から狂気が溢れ出し、血走った目は獲物を探す。男の射程範囲に入ったらそれが何者でも容赦はしない、そんな雰囲気だった。

 繁華街に入った男はゆっくりとした足取りで獲物を探す。人々もその異様な雰囲気を察してすぐに男の周りから離れていった。


「うわぁぁぁぁ!」


「キャァァァァ!」


 怖くなって逃げ出す人々。それを男はジロジロと見定めると舌を出して上唇を舐める。適当な通行人を見つけて突っかかるものの、足元がおぼつかないのか、運良くその通行人は男の攻撃を交わす事が出来た。攻撃を避けられたのがすごく気に障ったのか、男は空に向かって絶叫する。


「血だよォォォ!血を見たいんだァァァァ!」


 思いっきり叫んだ男は手当たり次第に暴れ始める。そこには何の理由もなかった。破壊衝動だけが男の精神を支配していた。これがさっきまで苦しんでいた男と同一なのだろうかと言わんばかりの暴れっぷりだった。


 やがて騒ぎを聞きつけた警察官が到着する。事の成り行きを一部始終眺めていた人のひとりが駆けつけた警察官に事情を説明する。


「おまわりさん、あそこです!」


「おいお前!馬鹿な事はやめろ!」


 現場に案内されてすぐに異様な雰囲気を察した警察官はすぐに男の説得を試みた。

 しかし警察官の熱意の入った説得の言葉は男の精神を逆なでする事しかしなかった。


「馬鹿な事だァ?ザッケンナァァァ!」


 逆ギレした男は警察官に向かってそう叫んだ。もう手がつけられない!この様子を見た警察官は直感的にそう感じたらしい。念の為に腰に下げた拳銃に手をかけようとする警察官を見て、男は更に逆上した。


「何だァ?撃つか?それで撃つか?」


「くっ」


 男はまだ具体的な行動を何ひとつ起こしてはいない。さっき通行人に襲いかかったのも結局は未遂で終わっている。この状況で相手に銃を向けると言うのは警察官として行き過ぎた反応でもあった。男も撃てないと分かっていて挑発しているのだ。


「撃てないよな……」


 まだ特に行動を起こしていない事を盾に男は余裕の笑みを浮かべる。男はターゲットを警察官に切り替えてじわじわと彼の方へ距離を詰めていく。

 その時、騒ぎが始まって静かになった繁華街の銃声が響き渡った。


「うわァァァァ!撃ったァァァ!」


 男には当たらなかったものの、まさか撃たれるとは思っていなかった男はこの現実にひたすらビビっていた。そして恐怖が勝ったのだろう、今度は死にものぐるいで繁華街から逃げ出していった。


「威嚇でいいからビビらせたらいいんだよ、ああ言うのは」


 銃を撃ったのは警察官の先輩のベテラン刑事だった。どちらかと言うとひょろっとしていてどこか頼りないメガネ警察官に対して、先輩刑事は体も大きく百戦錬磨の経験に裏打ちされた抜群の判断力を備えていた。

 この様子を見ていた警察官はそんな刑事に質問する。


「あの、追いかけなくていいんですか?」


「結構ああ言うのほど無害なんだよ。何、もう一度迷惑をかけたらその時は捕まえればいい」


「はぁ……」


 ベテラン刑事のその答えに今ひとつ彼は納得出来なかったものの、もう相手が姿を消してしまっていたため、今回は警察としても探すのは止めた。あの怯えようならきっともうおかしな事はしないだろうとの判断だった。

 ただ、ほとぼりが覚めた後でまた何か問題行動を再開させる可能性も否定出来なかったので、しばらくはパトロールを強化するようにはなった。


「ハァ……ハァ……まさか撃ってくるなんて……この街は怖いぞ……」


 その頃、警察から逃げ切った男は住宅街に迷い込んでいた。もちろん土地勘なんてないので適当に走った末の結果だった。男の言葉から察する限り、他の街では暴れても警察官が撃って来る事はなかったのだろう。勇敢な刑事がいるおかげでこの街の平和は守られていた。

 それから男は疲れ切ったのかふらふらと道を歩いて、そこで小さな小石につまずいてしまう。


「わっ!」


 石につまずいた男はその瞬間にそう叫んでで盛大にコケた。その衝撃で体はボワンと煙に包まれて――その姿は小さな狸へと変わっていた。疲れが溜まっていたのとお腹が空いたのと怖い思いをしたのとで人の姿でいるほどの気力すらなくなってしまったのだろう。


「おや?」


 そんな狸を発見したひとつの影があった。その影は倒れた狸を優しく抱きかかえると自分の家に持ち帰った。


「今度は何を拾って来たんだよ。無視出来ないの?」


「そんな事言ったって……目についたらどうにかしたくなるじゃん」


 そう、狸を持ち帰ったのはいつきだった。いつもの夜の空の散歩中に道の真ん中で倒れている狸を見つけたのだ。また変なものを持ち帰ってヴェルノはおかんむりだった。彼女が何かを持ち帰ると必ず何かトラブルになる。それは最早お約束のようなものになっていた。

 けれどそれが分かっていてもいつきは困っていたり苦しんでいたるするものを見つけると体が勝手に動いてしまうらしい。癖だから仕方ないね。


 今その狸はいつきのクッションの上に寝かされている。怪我でもしているのかと思ったら特に外傷はなったので、そこで様子見をしているところだった。


「……むにゃ、ここは?」


 2人が狸そっちのけで漫才めいたやり取りをしていると、その賑やかさに彼はゆっくりと目を覚ました。その声を聞いて2人は同時に同じ言葉を口にする。


「「喋った……」」


「あ、しまっただ!」


 自分の失態に気付いた狸は直ぐに人の姿に化けた。それが逆効果になるとも知らずに。ボワンと言う音と共に煙に包まれ、その隙に人の姿に変わった彼を見ていつきは大声でその事を叫ぶ。


「化けたーッ!」


「こいつ、何者なんだよ!」


 ヴェルノもまた人の姿に化けた狸を見て大声を出して驚いていた。腰を抜かしたかも知れない。

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