第2話、になりますの 「おねえさまは、手ぐすね引いてあなたを待っていたのよ」
「な、なるべく口呼吸でね、ヒメちゃん」
「う、ううう、口呼吸だと、喉が焼けるような刺激臭が、口いっぱいに広がるぅ」
「我慢よ、我慢。わたしの経験だと、あと数分で臭覚神経がマヒしてくれるからさ」
つばめの住まう部屋は、キムチ、ニンニク、ニラに納豆、その他さまざまな発酵製品の作り出す強烈な臭いが化学反応を起し、さらなる激臭に汚染されているのだ。
ふと首を
六畳の部屋は窓が閉めきってある。キッチンの窓も防犯用の曇りガラスが閉じられている。エアコンは、ない。扇風機もない。
にも関わらず暑さを感じないのだ。
暑さどころか、むしろゾクリと寒気がする。いや、風邪など引いてはいない。
Tシャツから出ている腕に知らぬ間に鳥肌が立っている。
この寒気はなに?
得体のしれない恐怖感が、凜子を包み始めていた。
誰かに見られている? そんな気配がキッチンから感じ取れる。
ま、まさか「事故物件」の元凶が本当にいるの?
姫二郎はきっちり正座して、ジッと畳を見ている。女子の部屋へ入るなど、経験がないのかもしれない。
その様子を目にした凜子は苦笑を浮かべ、少しだけ落ち着いた。
六畳の部屋はベッドに勉強机、その横にはカラーボックスがあり、小さな液晶テレビとDVD機器が設置されている。
あとは
見上げる壁にはあの有名な江戸川乱歩のモノクロ写真が掲げられ、反対側の壁には漫画家
キッチンから、つばめが楽しげに鼻唄を歌っているのが聴こえてきた。
いや、ハミングなどという生やさしい代物ではない。
音階もリズムも、音楽と称する
多分誰も聴いたことのないと思われるそのメロディは、地獄で流れているBGMのように戦慄の走る旋律であった。
怖気の走る悪鬼の調べ、それをつばめはフン、フフーンと上機嫌で口ずさんでいる。
コワい。
凜子はその鼻唄を聞き流すために、人形をおぶったままの姫二郎に声をかけた。
「ヒ、ヒメちゃん、その人形を降ろしてつばめに見せてあげたら?
アッ、でもわたしのほうに顔を向けないでちょうだいね」
「ああ、はいはい、そうでしたな。なにやら思考回路が尋常ではなくなってきておりまして、自分が何しに来たのか、すっかり忘れておりましたぞ」
「それはわたしも同じ。
ねえ、つばめ?」
凜子はキッチンに向かって声をかける。
「お茶はいいからさ、こっちへおいでよ」
「もうしばらくお待ちになって。きょうはとっておきのお紅茶、マリアージュフレールよ」
確かに焼肉店も真っ青のキムチやニンニクなどの刺激臭が占める室内に、ほんの微量ながら紅茶の香りが漂う。
それは大海原で乗っていた船が転覆し、アップアップと今にも海の
~♡♡♡~
さあって、手際よく準備いたしましたところでティー・タイムですわ。
本日わたくしがチョイスいたしました茶葉は、マリアージュフレール。この気品あふれる香りに包まれるだけで、わたくしはもう夢心地。
叔父さまに感謝しなくては。
わたくしのパパの弟、つまり叔父さまからのプレゼントよ。と申しましても、わざわざフランスから輸入しているわけではございませんの。
叔父さまは広大な土地を保有されており、そこであらゆるブランドのお茶の葉を栽培いたしております。
日本茶、紅茶はもちろんのこと、中国福建省のウーロン茶まで。
世界中の高級ブランドのお茶の葉を生産、販売いたしております。
お値段は驚くなかれ、本家の市場価格十分の一、でございますのよ。
にもかかわらず、容器やパックに至るまで、きっちりと本家と
そうだわ。
凜子さん、テレビをお付けになってくださらないかしら。
DVDが観られるように、ああ、ヒメさまはお得意ですのね、電器関係は。
そのまま再生してくださる?
うふふ、わたくしの実家で飼っております愛犬の様子を、パパが映して送ってくれたのです。
画像、出ましたかしら。
実家のすぐそばにあります山へ、散歩しに行った時のものなのです。
チャッピー、もう出て参りましたでしょうか。
ええ、我が家の甘えん坊さんはチャッピーと申しまして、とてもかわいいワンちゃんなのです。
お座りして、撮影しているパパに愛嬌をふりまいておりますでしょ。
はい、チワワですの。小麦色と白い毛並みが綺麗ですのよ。
えっ? 後ろに映っている樹木との対比が変?
山に生えている木々はミニチュアか、とお訊きになってらっしゃいますのかしら。
いえいえ、どこの山とも同じですわ。
逆にミニチュアの樹木が生えている山があるのなら、わたくし是非行ってみたいものです。
CG? はい?
ヒメさま、申し訳ございません。仰っている意味がわたくしの頭では理解不能でございます。
ははー、なるほど。チャッピーはチワワにしては巨大過ぎる、そういうことですのね。
チャッピーは、実はミックスですの。
あっ、でもチャッピーの両親は血統書付きの、由緒正しき
お父さんがチワワ。
チャッピーと瓜二つですのよ。
それでお母さんが、
これでお分かりになって?
チャッピーは、見かけはお父さん譲り、体格はお母さん譲りでございます。
ですから体高は約八十センチ、体重は九十キロくらいかしら。
お父さんが体高十五センチ、体重が二キロですから、いつのまにかお父さんより大きくなりました。
性格はお母さんの遺伝子をきっちり受け継いでいるようでして、たまに山の中でヒグマに出会うと、猛然と立ち向かっていきますのよ。
グリズリー級のヒグマだって、一噛みで昇天させちゃったこともありますの。勇ましい女の子ちゃんなのです。うふふ。
さあ、お紅茶が良い香りを発してくれております。
はい、どうぞ、召し上がれ。
暑い季節には熱い飲み物ですわ。
レモンはこちら。ヒメさまはシュガーをご所望でいらっしゃるのかしら?
少々お待ちになって。普段わたくしは使用いたしませぬものですから、たしか勉強机の引き出しの奥にあったような。
ああ、これですわ。わたくしが小学校に上がる頃、おやつ代わりにとおばあちゃまがくださったのよ、角砂糖を。
あらっ?
いつの間にか茶褐色に。いただいた時は真っ白でしたのに。
えっ? 必要ございませんのですか? でしたらお土産にでも。
間に合ってる、ってことですわね。あい、わかりました。
嬉しいですわね、こうして志を同じくした者同士でお茶をいただけるなんて。
今夜はお二人がいらっしゃるとお聴きいたしましたので、お夕飯を腕によりをかけて、わたくし準備いたします。
いつもお野菜をいただく田中さまの畑から、もう少し先に
まあ!
正解ですわ、凜子さま。どうしてヒントもなしで鳥飼さまが養鶏場を営んでおられるのがお分かりに?
わたくし、ビックリでございます。
田中さま同様、鳥飼さまのお顔も存じ上げないのですけど。
ええ、鳥飼さまの養鶏場には元気のいい鶏さんがいっぱいですの。生みたての卵はもう絶品ですのよ。
漫画制作で深夜まで及ぶ時がございますでしょ。
そういたしますと恥ずかしながら、小腹が空いてしまいます。
そんな時はお丼に白いご飯をテンコ盛りによそいまして、お箸をご飯に突き刺し鳥飼さまの養鶏場へ走ります。もちろん全速力よ。
到着いたしましたならば、素早くゲージから生みたて卵をいただいて、その場でご飯にかけて食しますの。
たまらなく、美味ですわよ。もう何杯でもいけてしまいますのですが、わたくしも乙女、腹八分と申しますものね。
そうなのです。ですから後ほど鳥飼さまの養鶏場へうかがって、手ごろな鶏さんを一匹締めてこようかなと思っておりますの。
わたくし、こう見えましてもジビエ料理なるものまで手掛けますのよ、うふふ。
えっ、今日はご都合がお悪いのですか? お二人とも?
それは残念ですわ。
それよりも肝心なこと?
あら、なんでございますでしょう。
先ほどから気になっておりますのですが、ヒメさまがおんぶされておられるのは、隠し子? それとも誘拐? どちらもはずれ?
はて、わたくしには想像もつきませぬ。
はい? わたくしが以前ヒメさまにお願いしていた?
もしや、もしやそれは、あのお人形でございますか!
拝見させていただいても、よろしくって?
ほらぁ、こっちへいらっしゃいな。おねえさまは、手ぐすね引いてあなたを待っていたのよ。
恥ずかしがり屋さんなのかなぁ、フードでかわいいお顔を隠してるわね。
どーれ、バアッ!
まあっ、かわいい!
わたくしが今日からあなたのおねえさまよ、よろしくね。
~※※~
つばめは
ひしゃげたカボチャを彷彿させる
アンバランスに離れた大きく見開かれた真ん丸な目は、真っ赤に充血していた。彫刻刀で無操作に
半開きの口からはギザギザの牙がむき出している。額の右側には穴が開き、何匹もの
正常な精神の持ち主には、見るに耐えがたい造形であった。
だがここまでリアルに作られていると、もはや芸術である。
つばめはうっとりとした恍惚の表情で、ジッと人形を見つめる。
隣に座る凜子はおびえるように、つばめから距離を取ろうとしていた。
「どう? つばめさん。お気に召しましたかな」
姫二郎はようやく室内に充満している刺激臭に慣れたきたのか、ニタニタと不気味な笑みを浮かべる。
それは人形の世界をトコトン追究する、オタク、いや、マニアとしての矜持であるのだろう。
だが他人から見れば、ただ単に薄気味悪い表情であった。
「ええ、とても素敵ですわぁ! ありがとうございます、ヒメさま」
つばめは抱え上げた人形の横から、とびっきりの笑顔で答える。
「それにですな、ピエール氏は精巧な仕掛けを施しておられたのですぞ」
「仕掛け? と申しますと」
「人形の背中にスイッチがあってね」
つばめは白いベビー服の背後に手を差し込んだ。指先に小さな突起部分が当たる。
「えいっ」
躊躇することなくつばめはスイッチをオンにした。
直後、「ゥ、ゥ、ゥウオオーンンッ」と人形が大きく口を開け、唸り声を上げ始めた。
「グギギギッ、ゴゥゴゥッ、ウオオーン」、と音声テープを低速で再生したような、聞く者の背筋を凍らせる泣き声が室内に響き渡った。
「ヒーッ、助けてーっ」
凜子は両耳を押さえながら叫ぶ。
「まあ、なんて可愛いお声だこと」
つばめは人形に頬ずりし、姫二郎は満足げに何度も頷いた。
「もうひとつ。脇の下にもスイッチがあるんですがな。そのスイッチはですなあ、なんとモーター駆動によって人形がハイハイするんですわ」
人差し指を立てて姫二郎は言った。
「いたれりつくせり、ってとこでございますわねえ、ヒメさま」
「ぐふふっ、どうやらすでにその子の
「もちろんでございますとも! これで寂しい夜も楽しい夢をこの子といっしょに見られますわ。えーっと、お代金でございますけど」
「ああ、お金なら気にしないでいただきたい。実はその人形の前の所有者から、十万円払うからぜひとも引き取ってくれないかって懇願されましたんですわ」
「あら、では逆にお金を頂戴できたってことなのでしょうか」
「そうなのです」
姫二郎はポーンと胸を叩いた。
二人の会話を割り込むように、凜子がサッと挙手した。
「ちょっと待って、お二人さん」
「えっ?」
凜子はやけに真面目な表情で、なるべく横のつばめと人形を見ないように真っ直ぐ正面に顔を向けている。
「おかしくない? それって」
「なにがですかな、凜子さん」
「だってヒメちゃんが言うには、人形オタクの間ではカリスマ的な、そのピロリ菌なんちゃらって」
「ピエールですぞ、ピエール
「どっちだっていいわ、この際。そのピロリ菌が作った希少価値の高い人形なんでしょ?」
「さよう。当初の売値は五百万円以上とネットでは評判でしたな」
姫二郎は鼻の穴をふくらませて自慢げに言う。
「そこよ、問題は。いいこと。普通はオークションで競売すればさ、当然プレミアムがついていくものじゃない」
「そうですわね」
つばめは首肯する。
「それが、なんですって? 逆に十万円付けるから引き取ってくれ? どうしてそうなるのよ。どうして前の持ち主は手放したがっていたわけ?」
部屋の中はシーンと静まり返った。
凜子は恐るおそる隣に座るつばめに視線を向ける。
つばめはニコリと微笑みを返す。
そのあまりのチャーミングさに、凜子は思わずスケッチブックを取り出して写生しようとする己をたしなめた。
「ねえ、ヒメちゃん」
「は、はいー」
「十万円もくれた前の持ち主さん、何か言ってなかった?」
凜子の問いに、姫二郎は細い目を宙に彷徨わせた。
「い、いえ、特には」
「おいっ、ヒメ!」
ドスの効いた凜子の声音に、思わず姫二郎は顔を正座する自分の太腿にうずめた。
「悪気はなかったんですぅ! だって、つばめさんがどうしても手に入れたいって僕にお願いしてくれたものですからぁ」
半ば泣き声の姫二郎の肩を、凜子は優しくなでる。
「さあ、
重要参考人から被疑者、そして被告人となり果てていく姫二郎。
「じ、実はですねえ」
ついに隠していた事実を話し始めようとする姫二郎。
ところがその声を
「佳子は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで」
凜子は「あちゃあ」と目をつむった。
つばめはいったん口を閉じ、抱いた人形に話しかける。
「わかるかしら、赤ちゃん。わたくしがあなたくらいの頃に、ママが寝物語でお話ししてくだすった、江戸川乱歩先生の『
つばめは長くカールしたまつ毛を伏せながら、再び『人間椅子』を暗唱し始める。
こうなると、誰にも止められないことは漫研同期であれば誰もが知っていた。
鈴の音のようなつばめの声であるが、江戸川乱歩の小説を暗唱し出すと、何かが
つばめの語る『人間椅子』が終了し、さらに『
朗々と語るつばめの視界に、もはや来客の姿は映ってはいない。
凜子は姫二郎に目配せした。もうこのまま黙って帰ろう、そういう意味合いを込めて。
姫二郎もうなずいた。
「お邪魔しましたぁ」
凜子は玄関で靴を履きながら、奥の部屋でキムチの汁が飛び散った
「行こっか、ヒメちゃん」
「さようですな。それではつばめさん、またクラブで会いまみえましょうぞ」
二人は合板のドアを開けて外へ出た。
太陽はすでに沈んでいるが、まだ明るい。熱せられた大気がムアッと凜子の身体にまとわりつく。
「ああ、空気がこんなに美味しいだなんて」
湿気が百パーセントであろうが構わない。少なくとも胸いっぱいに吸い込む新鮮な空気は、臭いがない。
横で姫二郎も両腕を上げ下げして、深呼吸を繰り返していた。
「ヒメちゃん、晩御飯はどうする? 駅前に居酒屋が一件あったけど、軽く喉をうるおしていかない?」
「確かに喉がまだヒリヒリしますなあ。それでは少しだけ飲みますかな。
今日はお付き合いいただいたので、僕が驕ります」
「思い出した。そういえば大金を懐に持っていらっしゃったわねえ。ご
姫二郎はしゅんとうなだれながら、「はい」と小さく返事する。
二人が階段を下りた後、入れ替わるように男性二人が階段を上がっていく。
ひとりはかなり小柄で、もうひとりは相撲取りのようにでかい。
ちらりと凜子は様子をうかがう。二人とも髪を五分刈りにし、グレーのTシャツに迷彩柄のズボンを履いていた。年齢はどちらも三十歳前後か。ただ黒いサングラスをしているため、人相はよくわからなかった。
先を行く小柄な男が玄関キーを手にしていたため、多分二階の住人ではないかと推測した。
一応念のため、階段下でむき出しの廊下を見上げる。男二人は五つある玄関の真ん中で立ち止まり、ガチャリとドアを開ける。やはり住人だ。
だけど、どこか得体のしれない雰囲気を醸し出していた気がする。
凜子はつばめが心配になりかけたが、思わず苦笑する。
「つばめを襲う男がいるなんて想像できないわ。襲う前にあの激臭でノックダウンされるわね、間違いなく」
「どうしましたかな、凜子さん」
「なんでもないよ。さあ、冷たーいビールがわたしたちを呼んでる!
レッツ、ゴーッ!」
凜子は姫二郎の肩を叩きながら、歩き出した。
~※※~
小柄な男は玄関ドアを開けると、素早く周囲を見回して中へ入った。
大柄なほうも真似しながら太い首をまわすが、確認というよりも単にふりをしただけのように見受けられる。
室内はつばめの住まう造りと同様で、玄関を入るとすぐにリビングキッチン、奥が六畳の和室だ。
和室には数個の段ボール箱と布団袋が置かれており、どうやら引っ越してきたばかりの雰囲気であった。
二人は古びたシューズを脱ぐと、奥の部屋へ進む。
「兄貴ぃ、な、なんか臭いませんかぁ?」
大柄な男は大きな鼻の穴をさらに広げて、クンクンと顔をかたむけた。
とたんに、バキッ! と小柄な男に頭をグウでこづかれる。
「馬鹿野郎っ、兄貴って呼ぶなってあれほど言って聞かせたのに、まだ呼ぶか!」
言いながら叩いた拳が変な音を立てた。「クウッ! てめえが石頭だってえのを忘れてたぜ」と小柄な男は両手を腹部で抱え込む。
叩かれたほうは、「えへへーっ、すいやせん、あに、いや、えーっと」とポリポリと頭をかいた。
「いい加減に覚えろや!
俺のコードネームは、ネズミだ。しかも階級は軍曹だ」
「あ、ああっ、そうでした。ネズミ」
「呼び捨てにするな! ネズミ軍曹殿だ」
「へ、へい、殿」
「チッ、まあいいや。ところでテメエは自分のコードネームくらい覚えてるだろうな」
「あ、当たり前でさあ」
「じゃあ、念のため言ってみろ」
「兄貴ぃ、な、なんか臭いませんかぁ?」
大柄な男は大きな鼻の穴を再び広げて、クンクンと顔をかたむけた。
「キーッ! なんだってこんな奴と共同生活しなきゃならんのだ」
小柄な男、ネズミは畳の上で地団太を踏む。
「それは、我々が平成革命軍『
来たるべき日本の真の姿を求め我々は
ネズミはあわてて大柄な男の口を両手でふさぐ。
「貴様は、馬鹿なのかそれともフリをしているのか、どっちだよ、ったく。
そんな大声で叫んだら、我々がテロリストであることを宣伝しているようなもんだろ!」
えへへーっ、と大柄な男は嬉しそうに笑った。
「こっちがおかしくなりそうだぜ。いいか、貴様のコードネームはウシだ。しかも階級は二等兵、つまりペーペーだ。
本部から連絡があるまでは、一般市民に紛れ込んでなきゃならんのだ。
とにかくだ、しばらくはここで寝食を共にするんだから、しっかり頼むぞ」
ネズミはウシを見上げた。
「へ、へい。リョーカイいたしましてございまするーっ」
ウシは大きな掌を裏向けて、敬礼の真似をする。
「しかし、こんなアパートをよくみつけたもんだな。家賃も安いらしいぜ。一階は五部屋とも空室で二階は奥の一室と、ここの俺たちしか入居してないしな。多少の物音なら誰にもとがめられないぜ。
さあ、荷物の整理だ。
エアコンはないから、ともかく窓を全開だ。こう暑くちゃあ思考まで鈍っちまうぜ」
ウシが木枠の窓をガタピシいわせながら開く。
涼風とまではいかないが、日没後の生ぬるい風が部屋の中へ吹いた。
「あ、あに、いや違った。えーっと、ネズミ、ネズミ先輩?」
「貴様、わざと間違えてるだろ。それは演歌歌手だ! ネズミ軍曹っ」
ぐ、ん、そ、う、としっかりと区切った。
「やっぱり、な、何か臭ってきますぜえ。こうなんというか、ニンニクやら香辛料やら腐敗した魚のはらわたを混ぜたような」
「そうかい、俺は何も臭わんぞ」
「ぐ、軍曹殿は、も、もしかしたら慢性鼻炎?」
「そうだ。よくわかったな」
「俺のオツムは、ちょっぴしノンビリ屋さんなんだけども、そ、その分、目や鼻、耳はいいんだなあ」
「ほう、そりゃあ動物界においては重要な能力だな」
ウシは褒められたと思って、満面笑みで胸を張った。
「えへへーっ、あ、ありがとうごぜいやすーっ」
「本部の工兵部隊がこの空き家を押さえてくれて、物資もこのように運び込んでくれている。
近日中に軍事訓練の連絡があるからな。それまでは待機だ。
そうだ、ウシよ。布団袋の中に例のモノがあるはずだから、確認してくれ」
ネズミは押入れ前に置いてある布団袋を指した。
ウシは「へーいっ」と頭を下げて布団袋の紐を丁寧にはずす。
薄い敷布団にタオルケットが折りたたまれており、その間にウシは太い指を挿しいれた。
ごそごそと動かしながら、ゆっくりと引き抜かれた指にはB5版程度のジッパーで閉じられた黒い布袋が握られている。布袋は膨らんでおり、重量がありそうだ。
そのままネズミに片膝をついて、頭を下げながら両手で渡す。
ジッパーを開いて中を確認するネズミ。茶色い油紙がのぞいていた。
ネズミはニヤリと口元を上げた。
「おい、これをこのまま便所の棚の上にでも隠しておけ」
「
これは本部が我々の武装に用意してくれたトカレフですね。
正式名称を、トゥルスキー・トカレヴァと呼び、一般には設計者フョードル・トカレフにちなみ、単にトカレフの名で知られております。
安全装置すら省略した徹底単純化設計で、生産性向上と撃発能力確保に徹した拳銃であり、過酷な環境でも耐久性が高く、かつ弾丸の貫通力に優れております。
先の大戦でソビエト軍が正式に採用したことは、周知の事実であります。
現在では中国で生産され、我が国においても」
「ダーッ! そんなことはどうでもいいんだよっ。つーか、おまえは人間ウィキか!
なめてんだろ、俺のこと、本当は馬鹿にしてんだろ! ヌケたふりしやがって、実は俺を踏み台にして幹部のイスを狙ってんじゃねえのかっ」
ネズミは背伸びし、ウシの顔に唾を飛ばしながら喚く。
「い、いやあ、お、俺は、いえっ、自分はずっとアニ、いや、ネズミ先輩軍曹兄貴の下で立派な兵士になる、しょ、所存でありまするからしてからに」
ウシは額に汗を浮かべながら弁解した。
本当は自分が先ほどしゃべったことは意味不明であり、口が勝手に動いたのである。
はあっ、ねずみは肩を落として頭を振る。
「もういい、わかった。
それを仕舞ったら、夕飯用にコンビニで弁当でも買いにいくぜ」
「お、俺はショウガ焼き弁当が食べたーい! そ、それとサラダがいいなあ、うん、サラーダだなやっぱりサラーダーッ」
ウシは嬉しそうに宙にサングラスの視線を向ける。
「一日の食費はひとり千円だからな。そのことを念頭に置いておくように」
「へ、へーい」
ちょっぴり残念そうに肩をすぼめるウシであった。
~♡♡♡~
はい、おしまい。ちゃんといい子にしてお話を聴いていましたね。
思い出しますわ。わたくしのママは、毎晩こうして同じようにご本を読んで下さったの。
深夜二時を過ぎますと、どうしたって
殴る蹴るなど序の口、スイッチが入ってしまったママは、パパでさえ恐れおののいてオトナですのにオシッコをよくお漏らししてましたもの。
一度パパは半殺しの目にあったそうなのですよ、うふふ。三ヶ月間入院したって言ってましたっけ。
それでも、せっかくママが乱歩先生の御作を、わたくしのために読んで下さっているのだから当たり前ですわね。
ママは興に乗ると徹夜をいとわず、朝陽が差し込んできてもずっとお話を続けられたのよ。子を想う母の気持ち、わたくしもそうありたいな。
今になって、そのありがたさがよくわかりますもの。
あらっ、いつの間にかお部屋の中が真っ暗。時間の経つのが早いこと。
凜子さんとヒメさまは、わたくしたちを早く二人っきりにしてあげようってことで、こっそり帰られたのね。つばめはそんな友人に囲まれて、本当に幸せ者です。
そうだわ、お夕飯の準備をしなければ。
あなたは何を召し上がる? うふふ、赤ちゃんだからミルクでいいかしら。
でも冷蔵庫にミルクなんてあったかしら?
やはり置いてないわねえ。どうしましょう。
そうだわ! わたくし今夜は白いご飯にママ特製の白菜キムチをいただくのですが、お米のとぎ汁って、ミルクに似ておりませんこと?
さすがですわ、わたくしって。食材を余すことなく使うって、とても大事なことなのですよ。
キムチの漬け汁を少々垂らしてかき混ぜますと、いちごミルクに
じゃあ準備いたしますわね。
えっ、寂しいの? まあ、甘えん坊さんですこと。
ヒメさまが置いていってくれましたこの抱っこ紐で、よいしょっと。あら、意外に重いのね。
お米を
その間にお散歩しましょうか。ついでに田中さんの畑によって、お茄子と胡瓜をいただいて参りましょう。
~※※~
ネズミとウシはコーポから少し離れた場所にコンビニを見つけ、夕飯と明日の朝食用にお握りを購入した。
ウシはお弁当コーナーで、並べられた弁当類を物欲しそうにジーッと見つめるが、ネズミに怒られしぶしぶその場を離れた。
「いいか、兵士たるものいつなんどきでも戦闘態勢に入らねばならん。したがってだな」
二人はコンビニの帰り道、すっかり暗くなった夜道を歩いている。
国道から離れた住宅街で夕飯の時間帯であるためか、人通りは無い。
「おい、聴いてるのか」
ネズミはウシに問いかけるが、横に歩いていたはずのウシの姿がない。
驚いてサングラスをずらし、細い目で辺りをうかがう。ウシは百メートルほど後方で、コンビニの袋を持ったまま、なぜかジッと立っているのが目に入った。
チッと舌打ちをしたネズミは、仕方なく歩いてきた道を小走りで引き返していく。
「おい、おいっ、なにボーっと突っ立てるんだよ」
ウシはポカンと口を開けたまま、あらぬ方向に顔を向けている。
「おいってば! 上官の質問に返答せよっ」
「あ、あのう」
「なんだっ」
ウシはゴクリと
「あそこ、なんでさあ。あ、あそこに誰かいるんですぅ」
「あん? どこだよ」
ネズミは背伸びしてウシが指さす方向を見やる。
道路の反対側、民家の間に田んぼや畑が続いている。
「うん?」
ネズミはサングラスを取ると、目を凝らした。
畑には夏の野菜類が元気よく育っている。外灯はほとんど役に立っておらず、住宅から漏れる明かりでは全貌を確認することができない。
ところがよく見てみると、確かに畑の真ん中にボウッと白い影が浮かんだり消えたりしている。
「
「いやあ、お、俺、目と鼻と耳はすごくいいんです。動物界においては、じゅ、重要な能力だって、褒められたんですぜぃ。ハテ? 誰にだったっけ?
あれ、さ、さっきからモゾモゾ動いてるんですよう」
ウシは見てはいけないものを発見したかのように、語尾を震わす。
「エッ!」
ネズミは声を裏返し、ウシの背後に隠れるように身体の位置を動かす。
「白い着物姿の、お、女のようなんです。背中には赤ん坊を、お、おぶってるんでさあ。
そ、それに、聴いたこともない不気味な歌を口ずさんで」
その言葉に、ネズミは気づかぬうちにウシのシャツをギュッと握りしめていた。
「わ、わかった。貴官の報告は受理する。ささっ、帰ろう。早く帰って飯にしよう」
握ったシャツを引っ張りながらネズミはきびすを返す。
「あ、あれって、もしかすると、ゆ、ゆうれ」
「あーっ! 言うな言うなーっ。上官の命令だ、早く、早く帰ろうよう」
ネズミは必死にウシの巨体を引っ張ろうと試みるのであった。
~※※~
凜子と姫二郎は駅前の居酒屋カウンターで、焼き鳥にサラダ、お刺身の盛り合わせに冷やっこなどをあてにビールを飲んでいた。
「おかわりっ。ヒメちゃん、あんたも飲みな! どうせあぶく銭なんだからさ、パーッとやっちゃおうぜぃ」
すでに大ジョッキを軽く五杯飲みほした凜子は、店員に六杯目をオーダーする。
姫二郎はやっと最初の一杯を飲み終えたところだ。
「で、なんだって?」
アルコールに強い凜子は、すでに丸い頬を赤くしている姫二郎に問う。
「えっ?」
「えっ、じゃないでしょうに、ヒメ。あの人形の来歴についてよ」
大ジョッキ二杯が運ばれ、二人の前に置かれた。
姫二郎は細い目でキンキンに冷えたジョッキを見つめ、いきなり飲み始める。
ゴボゴボと音を立てて黄金色の液体が、喉に流れ込んでいった。
「ぷはーっ」
一気にビールを飲み干すと、姫二郎は首を凜子側にまわす。
「凜子さん。今から申し上げるお話は、本当の事なのかそれとも作り話なのか、僕にはわからないのですな」
「あの人形に関するってことだよね」
「さよう。まさかそんな与太話と、一笑に付すのが良いのかもしれませんが」
真剣な表情の姫二郎。凜子は自分もジョッキのビールを半分ほど喉に流し込む。
「わかった。まずは話してみてよ」
「はい。あの人形をネットのオークションで見つけて、僕はすぐに手を挙げたのです。
その時点での落札最低価格は、なんと三百円でした」
「さ、三百円? だって売りに出された当初は五百万円とか言ってなかったっけ」
「ええ、そうですな。ですから僕もあまりの安さに戸惑いながらも、それでもつばめさんからお願いされておりましたから落札し手続きを取ったのです。
そしたらすぐに持ち主からメールが入り、本当に待ち構えていたかのような早さでしたけど。落札した以上、責任を持って引き取ってほしいと何度も念押しがありましてな。
僕はもしかしたら騙されてるのではと思い、落札を無効にしてもらおうとしたのです」
「そしたら相手から、十万円付けるから引き取ってくれって言われたのね」
「さようです。それならと僕は引き取ったのですが」
姫二郎は大ジョッキの三杯目をオーダーする。
凜子もだまって残りを飲み干し、次は冷酒を注文した。
つづく
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