マキナと追憶のドレスコード




「マキナさんは、何色が好きですか?」


 いつものように背中の傷の具合を見てもらっている間、リーゼにそんなことを訊かれた。


「んー……」


 今まで考えたこともなかったけど、とっさに思い浮かんだのはいつも見ていた線の細い背中だ。


「……黒、かな」


 あの黒くて暖かいコートに包まれて、雨に打たれる車内で眠ったことを思い出す。


「なんか、安心するから……リーゼは?」

「私、ですか?」

「その色、好きだから着てるんだろ?」


 リーゼは今日も相変わらず、黒のブラウスにスカートだ。

 別に意外な質問でもないだろうに、鏡越しのリーゼの顔はさっきのマキナと一緒だった。そんなの考えたこともなかったって顔。


「私、この色が好きなんでしょうか?」

「訊かれてもなぁ」

「あ、マキナさんの目の色は好きですよ。綺麗ですよね」

「あ……そ……ありがと」


 さらりと恥ずかしいことを言われると、どう反応していいか困る。当のリーゼは特に気にする風もなく、


「はい、終わりましたよ」


 シャツのボタンまで留めようとするものだから、マキナは慌ててその手から逃れた。


「い、いいってば! 自分でやる」


 施薬院の子供たちと同じ扱いはごめんだ。


「人のこといくつだと思ってるんだよ」

「いくつなんですか?」

「さあ……? 一五とか一六とか」

「私は今年の秋で一七です」

「じゃああたしは一八だ」

「それ、ずるい」


 笑って薬箱を片付けるリーゼを横目で気にしながら、マキナは手早く身支度を整えた。

 整えた、と言っても。マキナは鏡の中の自分をまじまじと見る。

 ヴァージニアから借りっぱなしのシャツはマキナには大きすぎる。袖を折り返して着なきゃならないし、裾を出すとショートパンツが隠れてしまう有様だ。履き古したブーツはボロボロ。上着代わりの作業着は元からサイズが合わないうえに、破れた部分を繕って着ているので、体裁がいいとはとても言えない。

 とはいえ、シャツや下着の替えを用意してもらえただけでもありがたいことなので、あとは自分でなんとかしないとなあと考えていた。


「そうだ、お土産はなにがいいですか?」

「お土産?」


 話の脈絡が掴めず首を傾げるマキナに、リーゼが目を瞬かせる。


「あれ、聞いてません? 私たち中央に出かけるんですよ」

「へっ? いつ?」

「あさって、ヴァージニアが戻ってきたらすぐ……」





「一緒に行っちゃいけないって、どうして!」

「気持ちはわかるけど、今回は大人しくしてなさい。あんた体調も万全ってわけじゃないんだし」


 詰るマキナの剣幕もまったく気に留めず。さっきからこちらに背を向けたままの魔女は「もう、あの靴どこへやったっけ」なんてぶつくさ言いながらクローゼットの中を掻き回していた。

 一向に身支度が進まない様子を見かねてか、ベッドの上に放り出された三角帽がむずむずひとりでに震えたかと思うと、華奢なヒールの靴を「ぺっ」床へ吐き出した。


「あ、それ! ありがと」


 やっぱりどうなってんだこの帽子は。

 なるべく距離を取ろうと身を引いてみても、魔法の縄っぽいもので椅子に縛り付けられているせいでうまくいかない。体調が万全じゃない弟子に対する仕打ちか、これが?


「情報はちゃんと渡すって言った」

「だから渡したわよ、今」

「せっかく手がかりが見つかったのに……!」

「そうよ。よりによってウェルカニアのド真ん中、学徒の庭コンセルヴァトワールでね」

温室コンセルヴァトワール?」

「ウェルカニア中の良家の子女が集う名門校。ひとつの都市が丸ごと教育機関になってるの。もちろん、そこにいるのは自分で虫一匹殺せないような連中ばっか」


 靴をひっかけたのと逆の手で、テーブルに出しっぱなしのチェスセットから黒のルークをつまみ、白の陣地の只中へ置いてみせる。


「わかるでしょ、そんな場所じゃマナなしのあんたはとにかく


 まるで白い紙の中心に落ちたインクのシミだ。マキナは唇を噛んで黙り込むしかなかった。


「ヴァージニア、準備できましたか?」


 よそ行きのコートに身を包んだリーゼが、椅子に括り付けられたマキナを見て目を瞠る。


「どうしたんです、それ」

「師匠の横暴」

「弟子の傲慢よ」

「……ケンカはいいから、早く支度を済ませちゃって。もう馬車が来てますよ」

「わっヤバ」


 旅行鞄に荷物をぎゅうぎゅう押し込む魔女を横目に、マキナは鼻を鳴らした。日頃から、なんでもかんでも謎の帽子に放り込んで横着しているからだ。

 一方のリーゼはすでに荷物を馬車へ預けてあるのだろう。小さな肩掛け鞄ひとつで身軽な装いだった。


「それにしたって……なんでリーゼを連れて行くんだよ、危ないだろ」

「潜入のために必要なの。言っておくけど、マナの扱いに関しちゃリーゼのほうがあんたより格段に上よ」


 突然、拘束されていた体が楽になる。リーゼの指がそっと触れただけで、あれだけ固かった魔法の縄が簡単に解けたのだ。


「この国の中じゃ、まず変な手出しができる奴はいないわね」

「ヴァージニアのお仕事ならこれまで何度か手伝ったことがありますし、大丈夫ですよ」


 両手を握って引っ張り上げられる。


「ありがとうございます、心配してくれて」


 間近でそう微笑まれてしまっては、なにも言えなくなってしまう。


「……そうだ、これ」


 チェス盤からさっきの黒のルークを取り、リーゼの手に握らせた。


「持ってって」

「なんですか?」

「お守り、みたいなもんかな」

「盗聴器でしょう、それ」


 ヴァージニアが顔を顰める。


「普通そんなものお師匠様の部屋に仕掛ける? 手先が器用なのも考えものよね」

「情報の隠匿があると困るだろ。どうせ気づいてたくせに」

「それで、なにか収穫はあった? それともわたしのえっちな声でも聞けたぁ?」

「ばっ、そういう目的じゃないから!」

「ですって。安心して持ってていいわよリーゼ」


 ばかなやりとりをしている間にヴァージニアの旅行鞄はどうにか口を閉じ、普通の旅行者っぽい体裁が整った。

 いつもの三角帽とマントがないと、一目で魔女だとわからないぶん謎めいた女ぶりが増すような気がする。詐称する身分は「病で両親を亡くしたため、寮へ入ることになった薄幸の令嬢」と「付き添いの叔母」だそうだ。


「よくわからないんですけど、これでマキナさんに声が届くんですか?」


 興味深そうに黒のルークを翳したリーゼが尋ねてくる。


「いや、距離が離れすぎると無理だ。だからこれはほんとにお守り」


 ウェルカニアほどマナの濃度が高い地では、機械が思わぬ動作をすることが多い。もしかしたら偶然つながることがあるかもしれないけれど、そんなものはもちろん当てにならない。

 肝心の捜査に参加できず、代わりに無関係なはずのリーゼを危険に晒すことになった。あまりに不甲斐ない自分への気休めで押し付けた、本当に身勝手なマキナのためのお守り。

 それなのに、リーゼは大切にそれを鞄へしまいこんで、嬉しそうに笑うのだった。


「危なくなったら、これでマキナさんに助けを呼ぼうかなぁ。飛んできてくれます?」


 マキナを安心させるために冗談めかして言うのだろう。恥じ入る気持ちと同時に、なぜだか胸の内に暖かい波のようなものが広がった。


「……うん、行くよ、絶対」


 リーゼが信じてくれるのなら、きっとできる。そうしなければならないと強く思った。

 玄関ホールへ降りていくと、駅馬車の御者が「早く早く」と急かしてきた。


「天気が荒れそうだぁ。嵐になる前に発っちまうべ」


 館の外はすでに薄暗く、遠い空の一面に真っ黒な雲が物々しく垂れ込めていた。雨が降る前の湿った風が剥き出しの肌に不安を波立てていく。

 旅行鞄を渡してこちらをひらり振り返ったヴァージニアが、伸ばした手でくしゃりと頭を撫でてくる。


「それじゃ、いい子にしてるのよ」

「そっちこそ、駄々こねてリーゼを困らせるなよ」

「あら、そんな生意気言う子にはやっぱりお目付役が必要ね」

「へっ?」

「なにをぐずぐずしているのです?」


 風に吹かれて乱れる短い銀髪を撫でつけながら、上品な装いの婦人が開いたままの門から昂然と入ってきた。

 皺の刻まれた重そうな瞼の下、理知を湛えたアイスブルーがマキナを一瞥する。


「見送りを待ってたのよ。不肖の弟子をお願いね、ヘレン」

「行ってきます、院長先生」

「ええ、お気をつけて」

「あ、マキナさんがご飯の時に本を読んでたら注意してくださいね」


 あれお行儀悪いんですから、と眉をひそめるリーゼを慌てて馬車に押し込める。


「そ、そういうのいいから! 行って! ほら早く!」


 ひとつ高い嘶きをあげて、迫る暗雲から逃げ出すように馬車は走り去った。


「………………」


 その場にひとり、いや二人で取り残されたマキナは、たいそう気まずい思いをすることになる。

 施薬院の院長といえばおそらくリーゼの祖母も同然で、この村の有力者でもある。ここへはマキナの意思で来たわけではないし、怪我の治療で動けなかったにしても、勝手に村の中へ上がり込み、挨拶もなしに居座り続ける無作法者と思われていて仕方ない。


「ええと……あの、院長先生? あたしは……」

「小柄で黒髪、加えてその目の色、母音にアクセントを置く発音……」

「はっ?」

「エルグスト系。あなたのような年で戦場に立っていたのならば、出身はヴォルカ自治共和国ですね」


 手を伸ばしてマキナの顎を掴む。そのまま何かを確かめるようにしばらくなぞったあと、


「歯を見せなさい」

「ふぉあ」


 返事をするより前に口を開かれたものだから、間の抜けた声が出た。無遠慮な視線が、時々角度を変えながらマキナの口の中を隅々まで観察する。


「ふむ、顎の骨も歯も実に健康。摩耗具合から見るに、あなたはおそらく一五前後でしょう」


 ようやく口を解放されたかと思えば、今度は肩に手を置かれてバランスを取るように軽く揺すられる。


「姿勢も良し、無理な力も入っていない……どうやら怪我は綺麗に治りそうですね」

「……おかげさまで」


 この、自分の調子に相手を巻き込んでいく話し振り。間違いなくリーゼとヴァージニアの関係者だとマキナは納得した。


「私はヘレン。施薬院の院長を務めています。この村に来た経緯はどうあれ、あなたを歓迎しますよ、マキナ」


 丁寧な自己紹介に続いて、かちゃりと耳慣れた音がした。

 顔を上げるのと同時に、反射的に伸びた手が腰の後ろを探る。でもすでに手遅れなほど近く、小さな黒い穴があった。


「これでようやくゆっくりと話ができる」


 アイスブルーの瞳が揺るぎなくこちらを見据える。隠し持っていた小型の銃を構えるその仕草にすら暴力的な気配はなく、毅然として舞踏のように優雅だった。


「えっと、冗談……には、見えないんだけど」

「勿論、冗談ではありませんよ」


 わかっているでしょう? とでも言いたげに小首を傾げる。

 引き金に指がかけられた。


「あなたに神の祝福を、マナなしの子」




 あの黒くて暖かいコートに包まれて、雨に打たれる車内で眠ったことを覚えている。




 意識が浮上するにつれて、静かな雨音が耳に戻ってきた。

 頬にあたるセーターの生地がちくちくする。でもそれを通して伝わる温もりからは離れ難くて、再び顔を擦り寄せてしまう。


「寒い?」


 小さく首を振って答えると、確かめるように背中を撫でさすられた。


ウェルカニアここほどマナが濃い土地だと、やっぱり車じゃ燃費が悪すぎるな……まだ夏だし、凍えすぎることはないだろうけど」


 燃料計がゼロを差すのと、雨が降り出すのがほぼ同時だったのだ。立ち往生してからかれこれ小一時間ほど経っていた。

 ぼんやりと上げた視線の先、薄ら汚れた車の窓越しに見えるのは色濃い針葉樹の森だ。


 ど・こ・に・行・く・の?


 腕を捕まえてたぐり寄せ、白い手のひらに指で文字を書く。くすぐったいだろうにこの人は、こうしてじっと無音の声に耳を傾けてくれるのだった。


「この先に知り合いがやってる狩猟小屋がある。しばらくそこで養生しよう。大丈夫、今度はマナなしだからって追い出されたりしない」


 この国の猟師は変わり者が多いから、と楽しそうに笑う。


「大きな鹿を仕留めるよ。丸々一頭食べさせてやるから覚悟して」


 また小さく首を振る。死にかけてぼろぼろなこの体は、スープを飲むだけで精一杯なのに。

 皿の上に山盛りされた肉の塊を想像するだけで胃の奥がむかむかした。


「しっかり食べて大きくならないとね。マナの濃い地にいればそれだけ傷の治りも早い。きっとすぐ元気になれるよ、マキナ」


 マ・キ・ナ?


「私が付けた、君の名前。気に入らない?」


 へ・ん・な・な・ま・え


「え、そう? 私が一番好きな言葉なんだけどな……」


 困ったように眉を下げると、固い義手のほうの指で前髪を優しく撫でてくる。


「機械が好きなんだ。強くて頑丈で無駄がない……それに、いつも正直で公平だ」


 よくわからないけれど、穏やかに語る調子がまるで子守唄のように耳に心地よかったので、まぁいいかと思うことにした。好きなように呼べばいい。どうせ本当の名前なんてもう覚えてない。


「雨が止んだら、小屋までひと走りして燃料を取ってくる。いい子で待ってて」

「……っ」


 置いていかれる?

 急に体がぐらぐら揺れた気がして、背中に回した手でセーターの生地をぎゅうと掴んだ。


「……すぐ、戻ってくるよ?」


 いやいやをして胸に顔を埋める。

 思案顔した沈黙が通り過ぎたあと、頭の上で笑い混じりの溜め息が聞こえた。


「?」

「ちょっとね……初めてあなたの苦労がわかりそうだよって言ったら、サリタは多分嫌な顏をするだろうなって……」


 膝の上でマキナを抱え直すと、シートに深くもたれかかる。


「計画変更だ。雨が止んだら一緒に小屋まで行こう」


 ご・め・ん


「どうして?」


 わ・が・ま・ま


「……そういうのは、とてもおぶっていけないくらい大きくなってからでいいんだよ」


 謝罪の言葉を書く指を、暖かな手のひらにそのまま握り込まれる。

 黒いコートと雨の音に包まれながら、マキナはまた、ちくちくするセーターに頬を押し付けて目を閉じた。





「てっ」


 軽い炸裂音と共に飛び出した弾が、マキナのおでこにぶつかって地面に落ちた。

 カラカラとどこか間抜けな音を立てて転がっていく。


「……このように、高濃度のマナの中で使用される火器は、威力をほとんど殺がれてしまいます。相手がマナなしであろうとなかろうとね」


 もっとも、こんなおもちゃのような銃では外での威力もたかが知れていますが、と肩をすくめて言う。


「知ってるけど、なにもほんとに撃つこたないだろ」


 赤くなったおでこをさすりながら抗議する。なにかの手違いで中途半端に弾が頭に刺さりでもしたらどうするんだ。


「わざわざこんなことしてくれなくても、今回置いてかれた理由ならちゃんとわかってるよ」

「おや」

「ここがサンゲルタなら、あたしだってリーゼを連れ歩いたりしない。銃が使えないこの国じゃあ、あたしは丸腰も同然のなんだから」


 ウェルカニアは特殊な国なのだ。七王家統一後の五百年間、争乱に明け暮れる周辺国と隔絶されたかのような平穏と独立を保っていられたのは、ここが異様なまでにマナの濃い地であるからだ。神聖ウェルカニアと呼ばれる所以でもある。


「その通り。晩餐であれ戦場であれ、場に相応しいドレスコードというものがある」


 マキナの頭からつま先までを眺め回すその表情は、出来の悪い生徒を見るようだった。


「確かにあなたはまだ、招待を受けるだけの準備が整っていないようですね」

「………………」ぐうの音も出ない。

「とはいえ、ただ手をこまねいているわけではないのでしょう?」


 そう言ってヘレン院長が差し出したのは、飾り枠どころか宛名すら書かれていない真っ白な封筒だった。


「先ほどの定期便で届きました。御者があなたに渡すようにと」


 慌てて受け取って封を切ると、中から薄く小さな歯車が転げ出てきた。咄嗟に手のひらで受け止める。

 折りあとの付いた紙の中央に、殴り書いたような素っ気ない文字があった。


 ——今の名は知らず 一七で拾った折よりユーリと呼んでいた それも奴は好まなかった


「……ユー、リ」

「立ち入ったことを訊くようですが、それは?」

「……あたしの親の、名前。これだって本名かはわからないけど」

「なるほど。このところ、あなたとヴァージニアが捜しているのはその人なのですね」


 不意に落ちてきた大粒の雫が紙に丸い点を打ったかと思うと、次々音を立てて地面を叩きはじめた。濡れた地面があっという間に色を濃くしていく。


「中に入ろう」


 手紙を懐にしまってから、大急ぎでヘレン院長の手を引いて館へと戻る。


「施薬院の子供たちは?」

「村の者が付いています。今日は館に泊まりがけであなたのお世話を……」

「監視を?」

「……するように、と」

「それならちょうどいい」


 こっち来て、と、訝しげなヘレン院長をヴァージニアの書斎に案内する。


「まあ、足の踏み場もなかった魔女の巣が」


 あらゆる平面を埋め尽くすべく散らかっていた本や紙束が綺麗に片付いて、今やこの部屋はきちんと床も見え立派な調度品が並ぶ、ごく普通の書斎としての風景を取り戻していた。どうせすぐ元通りにされてしまうのにと言いたげな目をしたリーゼの手も借りて、頑張って掃除をしたのだ。


「あの魔女はいい弟子を取りましたね。ようやく少しは片付いて……」


 胸がすくほどすっきりとした床面を辿った視線が、本棚のない右手側の壁に向けられた途端にぴたりと止まる。


「あ、えっと、ヴァージニアの許可は取ってあるんだけど……一応」


 広げた両腕ほどもある大きな世界地図を中心に、壁一面を大小様々な紙片が覆っていた。

 例えばサンゲルタの事件を報じる新聞記事、マキナが記憶を頼りに描いた獣の構造のスケッチ。それらを留めるピンと、地図上のサンゲルタを刺したピンの頭は紐でつながれている。そうして関連づけられた情報を幾筋もの紐が結ぶ様は、さながら巨大な蜘蛛の巣のようだった。

 さっき届いた手紙を取り出して、上目遣いに院長の顔色を伺う。軽く嘆息した彼女は喉に引っかかった文句を払いのけるように手を振った。


「今更、壁紙に穴がひとつ増えたところで変わりはないでしょう」


 投げやりな許可を貰ったマキナはちょっと躊躇った末に、やはり自分で描いたサリタの似顔絵の隣へそれを貼った。

 ユーリ。

 初めて知った、サリタの名前。


「その方が、あなたの?」

「……うん」

「血のつながりはないようですね」


 細かな筆筋のひとつまで目に収めるかのように似顔絵へ顔を寄せて、ひとり言みたいな調子で院長がつぶやいた。


「頭蓋の形は、そう……東方のノイスベンゲル群島の系に見えます。あの地方で青眼は珍しい。かつて侵略を受けた際に混血した名残で、本島では時折見られるそうですが」


 机から赤い色鉛筆を取って、大陸の南東に点在する島の中で最も大きいものを丸く囲い、すぐ脇に『出身?』と書き加える。


「……すごいな、これを見ただけでそんなことまでわかるんだ」

「今回、コンセルヴァトワールへ推薦状を書いたのは私ですよ」


 これでも卒業生総代でしたから、と言う口ぶりの何気なさに内心で舌を巻く。そんな飛び抜けた秀才なら、今頃官僚になっていてもおかしくなかったはずだ。マキナの疑問を見透かしたのか、院長は苦笑しながら言葉を補った。


「若い頃は中央で医師として働いていました……引退して戻ってきたのです。私は施薬院ここの出身ですから」

「ああ……」


 それなら納得だ。


「院長先生に手伝ってほしいことがあるんだ」

「あなたの人捜しに、田舎の苔むした老人が役立つとは思えませんが」


 緩く首を振った。役に立っていないというなら今のマキナもそうだろう。


「外に手がかりを探しに行けないなら、自分の中に探すしかない……でも、思い出そうとしてみてわかった。あたしは一緒にいた自分の親のことさえろくに知らなかったんだって」


 どこで生まれて、どんなふうに育ってきたのか。マキナと出会うまで、誰とどのように関わり、何の仕事をして生きてきたのか。

 そんなことを知らないままでは、今サリタがなにを考え、求めて行動しているのか理解することはできない。

 遠回りな道に見えるけれど、考えの起点として定めるならばそこだろうとヴァージニアと話し合って決めた。

 なるほど、と院長は頷いた。


「目に見えるものだけが真実とは限らない……けれど、内に抱えた病は外見や振る舞いに現れることもある。観察に正しい知識を裏付けて診察することも、できなくはないですね」


 例えば、粉が付いたそのシャツからあなたが今朝スコーンを焼いたことがわかるように。澄ました顔の指摘にマキナは慌てて自分の服を確かめた。


「今度、前掛けを用意しましょう」

「……その前に、お茶を準備するよ。結構うまく焼けたんだ」





 館を丸ごと洗うかのように雨は激しくなっていった。風に飛ばされた細かな枝が窓に当たって音を立てる。

 暖炉で踊る火を見つめていると、一度だけウェルカニアの狩猟小屋で過ごした冬を思い出してもの懐かしさを感じた。

 紅茶の入ったカップを両手で包むように持つのを見て少し笑われた気がする。行儀が悪かっただろうか。マキナから受け取った膝掛けを広げ、安楽椅子に深く身を預けるその姿は「とおいとおい、むかしのはなし」から長い話が始まりそうな佇まいだった。


「一緒に立ち寄った国はそれが全てですか?」

「うん」


 大陸の主に西から南にかけてが、マキナの記憶を頼りに赤い印で埋め尽くされた。


「ユーリは伝手が多かった。普段は機械の修理を生業にしてて、色んな国の組合ギルドに顔を出してたよ」

「さっき届いた手紙は、そのお知り合いから?」


 カップから顔を上げて首肯する。


「ここに落ち着いてすぐ、思いつく限りの連絡先に手紙を出したんだ。なにか知っていることで、あたしにはないかって」


 手紙に同封されていた小さな歯車は、サリタの子同士が連絡を取り合う時の符丁だ。

 サリタの子のつながりは地下茎のように世界中張り巡らされている。しかしそのありようは血族のようにわかりやすいものではない。ユーリと親しい間柄であるからといって、マキナに協力してくれるとは限らないのだ。特に今回のような場合は。


「あの手紙は、ユーリの義親おやからの返事だと思う。あたしが会ったのはもう何年も前だけど、まだウェルカニアの端に住んでるらしい」


 サンゲルタではぐれた時にも連絡はしたけれど、梨の礫だったので半ば諦めかけていたのだ。彼があの狩猟小屋に滞在するのは夏の終わりから翌年の春にかけてなので、今回はたまたま折よく本人に届いたのだろう。


「そのようなつながりがありながら、ウェルカニアと周辺国に近づくことは極力避けていたようですね」

「……それは多分、あたしが一緒だったから」


 この村はいいところだと思うけど、と付け足すマキナに院長は「……そうですね」と目を伏せた。本来ウェルカニアは、マナなしが長居したいと思う国であるとは言えない。どこへ行っても忌避されるのがこの国でのだ。


「マナの濃い土地では機械修理の需要も少ない……この分布は当然の結果にも見えますが、出身地と思しき群島にも一度も寄り付かなかったという点が気になります。子供を拾い育てるならば、慣れた土地に戻りたいと思うものでしょう」

「どうかな……あたしだって、今更ヴォルカに戻りたいとは思わない」

「現代のノイスベンゲルは平穏なものですよ。あくまで植民地としてですが。商港としても栄えていて人の出入りが多いぶん、マナなしに対する風当たりも比較的弱い」


 顎に手を当てて沈思する。


「なのにあえて、治安の悪い地域や紛争中の国を選んで滞在していた。しかも子供を連れて。並外れた知識や戦闘能力、人脈がなければ難しいことです……元は軍人、それも特殊任務をこなすような部隊にいたのでは?」

「確かに、あたしなんか敵いっこないくらい強かったけど……」


 いつどのような敵を相手にしても、サリタは常に冷静沈着で対処を間違えることがなかった。マキナを庇って怪我をした時も、表情ひとつ変えずに自分で弾を抉り出して傷を縫っていたくらいだ。「一度味わった痛みには耐えられるようになっていくものだよ」と言っていたサリタがどんな経験をしてきたのか、想像するだけでやるせなくなる。


「でも、ユーリは


 魔法も魔術も嫌いだと言っていたけれど、簡単な火起こし程度の術ならやむなく使うことがあった。それに銃で狙うのはいつも相手の足や腕。戦意を素早く削いだらその場からすぐ離れるのが鉄則で、少なくとも、マキナの目の前で誰かの命を奪ったことはない。


「……どうもそれが、齟齬を起こしている点のようですね」


 ひとまず脇に置きましょうか、と空になったカップをマキナに手渡す。


「なにか他に、身体的な特徴はありませんでしたか? 所属を示すような刺青や……目立った傷などは」


 サリタの子の証以外に。マキナは心ともなく自分の左腕を指でなぞった。


「左手が義手なんだ。いつも手袋をしてたし、あまりよく見せてくれたことはなかったけど……仕事で客の義肢の調整をすることもよくあったよ」


 特に相手が子供の場合は定期的な調整が必要で、でもそういう仕事の時にはほとんど金を取らなかったからやりくりに苦労したな。マキナにとっては何気ない思い出話のつもりが、院長の顔色がみるみる変わっていくのを見て思わず姿勢を改めた。


「なに?」

「そこの地図を取って……そう、ラックの三段目に掛かっているものを」


 言われるまま手に取ったのは、壁に貼っているものよりもかなり古い紙の地図だった。ひと回り小さなそれを上から重ねて貼る。


「ノイスベンゲルは入植した帝国民によって付けられた地名です。古来の島の名はクォルン」


 本島の部分に書いてあるのは、マキナが見たこともない文字だった。


「巧みな外交と商才で大国を相手取っていた海洋国家で、鋭い毒牙を持つことでも恐れられていた」

「毒牙?」

「骨手と呼ばれた暗殺者たち……彼らは左腕を自ら切り落とし、暗器として開発した独自の魔法義肢マギカリムを装着していました」

「……は?」

「おそらく、彼女の名前をクォルン風に正しく発音するならば、ユウ・リー。六十年以上も前に解体されたはずの暗殺組織の、亡霊であるかもしれません」


 二度、三度、意識して深く呼吸をする。力を込めた手のひらの下の地図に皺が寄った。


「……んなわけ」


 笑おうとした口の端が引き攣るのが自分でもわかった。


「……そんなわけない、だって、サリタはマナなしじゃなかった!」


 声を震わせるマキナにも、院長は眉ひとつ動かさない。やはり、あの歯車の符丁の意味に気づいていたのだ。

 痛ましげな目をした院長がなにかを言おうと唇を開いた、その時。


「先生! 院長先生!」


 玄関扉が勢いよく開く音と共に、複数のけたたましい足音が館になだれ込んできた。

 視線を交わして軽く頷いてから部屋を出る。雨具から雫を滴らせた村の男たちが、息せき切って駆け寄ってきた。


「どうしました」

「ロッドん家の裏の木が風で倒れて、家さ潰しちまっただ! 子供が下敷きになってる、急いで来てくれ!」

「リーゼ様も魔女っこも留守にしてるこんな時によお……」

「おらたちの力だけであの木を退かすんじゃ時間がかかりすぎっべ!」


 口々に飛び交う声を聞きながら、マキナは急いで裏口の脇に掛けてあった雨具を取って玄関ホールへと戻った。院長が袖を通すのを手伝ってから自分の分を羽織る。


「隣の家を開けてもらって、救出が済んだらすぐに治療を始められるよう準備を整えましょう。村中の者に声をかけて灯を集めて。それからマキナ」


 目深に被ったフードの影から厳格な目がこちらを見ていた。


「あなたはここに残りなさい」

「どうしてだよ! あたしも行く!」

「あなたにできることはなにもない、危険です」


 ぴしゃりと容赦なく言い放つと、雨具の裾を翻しながら扉へと向かう。村の男のひとりが気遣わしげにマキナの肩へ手を置いた。


「あんた、ヴァージニアのお弟子さんだべ? 例の、マナなしの」

「あ、ああ」

「気持ちはありがてえけど、院長先生の言う通りだ。怪我でもしちゃかなわねえ。ここはおらたちに任せとけ」

「…………」


 なにも、言えなかった。

 マキナは魔法も魔術も使えない、大人の男のような膂力もない、ただの痩せっぽちな子供だ。。慌ただしく館を出て行く後ろ姿を、ただ見送るだけ。

 肩に羽織った雨具が鉛のように重かった。

 なんでもいい、なにかないだろうか。めまぐるしく頭の中で考えを巡らせる。マキナにできること。ここに重機でもあれば、倒木を動かすことだって。



 ——約束は、ひとつだけ



 耳元に穏やかな声が甦る。

 雨と風の吼える音が急速に遠のいた。波立つ水面が凪ぐように。



 ——目の前に苦しんでいる人がいたら、君にできる限りのことをすると、約束して



 波紋が消えるのを見送ってから瞼を開ける。そうだ。

 辿るべき道は、ひとつだけ。最初から迷う必要なんてなかった。


「……わかってるよ、サリタ」 


 踵を返して階段を一気に駆け上る。

 ヴァージニアの部屋の扉を開けると、魔法の帽子がひっくり返ったまま机の上にあった。

 引っ掴んだ鍔の端がほつれていることに気づいて指で弾く。


「ここ、あとで治してやるよ。だから今はあたしの言うことを聞いてくれ」


 頭に被るのはなんだか躊躇われたので、小脇に抱えて部屋を飛び出した。雨が打ちつける前庭はまるで冥府の穴まで流れ落ち続ける滝みたいな有様だ。水を吸った帽子がみるみる重くなる。

 逆さになった帽子の穴が、見開かれた黒い瞳のようにこちらをじっと見つめ返した。


「気に入らなけりゃ腕を齧り取れ……腹を壊しても知らねーけどな!」


 突っ込んだ指先がなにかに触れた。掴もうとして空振りした手首を、逆に強い力で握られて引っ張られる。


「っわ」


 足が浮いた。そのまま頭から、大きな大きな滝の中へと落ちていく——





「その薄気味悪い子供を連れて、とっとと出てってくれ、さあ早く……!」


 乱暴に閉められた扉のベルが、抗議するように甲高い音を立てた。

 冬を越し、山を下りて一緒に旅を始めてからほんの数日、そんな台詞と共に店を叩き出されるのはもう何度目かわからない。


「忘れ物だよ」


 扉の下の隙間に紙幣を挟んで、サリタは紙ナプキンで包んだサンドイッチを片手に「行こうか」マキナの肩を叩いて足早に車へ向かう。


「缶詰を買い込まなきゃ。今日も野宿だ」

「また豆のスープ?」

「特製スパイス味にしよう。この国を抜けるまでは、燃料代のためにとにかく節約だね」


 行き交う人波が、マキナたちを避けて不自然な弧を描く。サリタはマキナを庇うように、いつもちょっとだけ前を歩く。マキナの歩幅に合わせてゆっくりと。

 マキナは気づかれないように、歩幅をさらに小さくしていった。やがて完全に足を止めると、サリタの細い背中が雑踏の向こうに揺れながら消えていく。


 ——このまま


 すぐ右手に続く路地の暗がりを見る。溶け込んで、消えてしまえれば。

 狭い建物の間に潜んだ影の顎が、マキナの全身を飲み込もうとする。


「どこへ行くの?」


 四角く切り取られた光の中に浮かんだ人影が、背後からマキナを呼び止めた。


「今日はスープに干し肉も入れようと思うんだけど、どう?」

「…………どうして」


 この人は、こんなにマキナに構うのだろう。

 狩猟小屋での暮らしは居心地が良かった。サリタの知り合いの猟師たちは皆、気難しかったりばかみたいに陽気だったり酒飲みだったりしたけれど、決してマキナを邪険に扱ったりはしなかった。だからつい、忘れてしまいそうになっていたのだ。

 自分がマナなしだということを。


「やっぱり、だめなんだ」

「なにが?」

「あたしが一緒にいると迷惑だ。サリタまで……まるで化け物みたいに」

「……ここの人たちの目に君がどう見えていようと……見えていまいと、私には関係ないよ」


 迷いのない足取りで、影の中に踏み込んでくる。じりじりと後ずさるその距離を許さないとでも言うかのように。


「私は君が化け物なんかじゃないって、知ってるから」

「なんで……どうして、そんなことがわかるの」


 容赦ない罵声や、汚れたものを見るような目つきに晒され続けていると、果たして自分が人間であるのかどうかさえあやふやになってくる。もしかしたらマキナは本当に人の形を失って、黒くてぐずぐずとした化け物になってしまったのかも。

 サリタはゆっくりとマキナの目の前に膝をついて手を取った。片方は柔らかくて温かい。もう片方は固くて冷たい。けれどどちらも同じだけの力でぎゅっと、マキナの小さな手を握って離さない。


「君は、殺したくなんてなかった」


 はっとして顔を上げる。


「誰も殺したくなかった。なのに、誰かの命を奪うことでしか生きていけないようにした連中がいる。君が小さくて弱いから、それしか道がないかのように思い込ませた」


 静かな怒りを秘めた青い瞳が、マキナの瞳を覗き込んだ。水面の奥で燃える熾火がマキナの目を通して移る。熱い塊が胸いっぱいに広がって喉を押しつぶそうとする。


「そんな奴らに負けたりするな。君はこれから強くなる、誰かに優しくできる人になる……それまでずっと、私が傍にいるよ」


 嗚咽ごと胸に強く、強く抱きしめられた。ぐちゃぐちゃになった顔を遠慮なく黒いコートの肩に押し付ける。形を伴った温もりが、暗闇に溶け込んでしまいそうなお互いの輪郭を確かにした。



 ——……くして


 ——約束して



 瞼を開ける。拡張された視界を容赦なく雨粒が打つ。体が鉛のように重かった。多分それは鋼の手足のせいではなく、ずきずきと痛む傷に怯えて縮む心のせいだ。


 ——そんなものいらない


 一方的な拒絶の言葉が冷たく皮膚を切る。でも、

 約束はひとりじゃできない、ふたりで決めたのだ。マキナが自分の意思で選んだ。サリタが今なにを言おうと、どんなことをしようと、たとえ過去になにがあろうとも、マキナは自分で決めた道を進み続けるしかない。他でもないサリタが手を引いて、やがて背中を押してくれた道。


 ——目の前に苦しんでいる人がいたら、自分にできる限りのことをする


 マナ喰らいの目に、その子供は小さな光の塊のように映った。倒れた古い木を掴んで慎重に持ち上げると、潰れた家具の隙間に挟まっていた体がもぞもぞと動き出す。周りの大人たちが慌てた様子で駆け寄る。

 壁や家具が緩衝材になって、うまいこと直撃を免れていたらしい。両親の腕に抱かれる子供を見てマキナはほっと胸を撫で下ろした。


魔法義肢マギカリム……あなたは、本当に……」


 ずぶ濡れになった院長が、いつの間にか足下に近づいてきていた。


「よかった、怪我ないみたいで」

「ええ、ええ……あなたも」


 なにかを確かめるように数回頷いたあと、赤くなった目でじっとこちらを見上げる。


「感謝します、魔術師サリタの子よ……」


 その言葉はなんだかむずがゆくって、照れくさい。鼻の頭を掻こうと手を上げかけて、マキナは今自分がでかい図体をしていることを思い出した。

 近くを人がうろちょろしている間は動けなさそうだ。マキナは手足の力を抜いて目を閉じた。巨人のスプーンでかき混ぜられているかのような風はまだまだ止む気配がない。

 どうせなら、サリタの元まで声を乗せて届けてくれたらいいのに。

 ねえ、聞きたいことがたくさんあるんだよ。



 ——君は、殺したくなんてなかった



「サリタも?」

 骨手として生きてきたユーリもずっと、同じ気持ちを抱えていたのだろうか。





 嵐が去ったあとの磨かれたガラス玉みたいな青空が、マナ喰らいの表面に映り込んでいる。真新しい黒のセーターを腕まくりして雑巾を絞るマキナの姿も。

 濡れたまま帽子の中に戻すのはなんだかだめな気がしたので、こうして館の前庭で天日干ししているのだ。ついでのつもりで泥を拭いたり油を注したり、気がついたら脚立まで持ち出しての大仕事になってしまった。

 一段落ついたので、頭の上まで登ってなだらかな曲線に腰掛ける。高くなった視界から眺めるアンダートンは、嵐の爪痕がそこそこに残っているものの、また長閑な空気を取り戻していた。

 森、畑、あぜ道、遠くにヤギ、そんな風景をぐるりと一周した視線の先に、こちらへ近づいてくる人影があった。


「院長先生」

「よく似合っているではないですか。やはりリーゼ様の見立てに間違いはありませんね」

「あ、ありがと……」


 雨に濡れた服の替えを探していたマキナに、リーゼからの預かりものだと言って院長が差し出したのがこの服だった。セーターにブーツ、さらには黒のコートまで。少し前からお古を仕立て直したりあれこれ手配して一式揃えてくれたのだという。


「なんだか悪いな、こんなにしてもらって……」

「これからウェルカニアの冷え込みは厳しくなりますからね。それに、身だしなみは大切です。着るものひとつにも、その人の内面が表れる」


 それは贈り物にも言えるだろう。セーターには、マキナがよく動き回ることを見越して肩と肘部分に丈夫な布があてられていた。襟高のコートを選んでくれたのは、機械をいじるので首にマフラーを巻けないから。その襟が風で煽られないようきちんとボタンで留めてあったりだとか。

 リーゼの考えひとつひとつが丁寧に織り込まれていて、温かい。


「この襟さ……昔ヴォルカでよく見てた」


 白く霞んだ記憶の中で、父親がこれと似たような襟の上着を着ていた気がする。


「……そう。それはヴォルカの労働者がよく着ていた形の襟ですよ」


 そっか。つぶやいて少し遠くを見る。リーゼが知っていて選んだのかはわからない。けれど、自分で思ってもみなかった箇所に手を当てられて、初めてそこが痛んでいることに気づいたような。不思議だけど、嫌な気分じゃなかった。


「招待を受ける準備は整ったようですね。魔女の後を追うのでしょう?」

「うん」


 あの魔女はわざと帽子を残していったのだ。マキナが再びマナ喰らいに乗る覚悟を固めた時は、こいつですぐ後を追えるように。


「その前にひとつ、試験をしましょう」

「試験?」


 首を傾げるマキナに向かって、人差し指を立ててみせる。


「人の外見と同様に、国や街、村の姿にもその歴史が表れるもの」


 建物はもちろん、地形や植生、道、風習……指を次々と立てていく。


「そこからは村の景色がよく見えるでしょう。あなたの目に、この村はどのように映っていますか? 外に見える要素から、内側を推察してみせなさい」

「……うーん」


 なんとも唐突に始まった試験だけれど、マキナから見てもこの村はが色々あるのは事実なので、それらを頭の中で改めて考え直してみる。


「そうだな……まず、この村には宗教がない」


 ウェルカニアに限らず、大抵の街や村は教会と広場を中心にして道が敷かれて建物が並ぶものだ。しかしこの村にはそういう施設が見当たらない。


「だからなのか、この村の人たちはマナが薄いというか……マナなしとまではいかないけど、ほとんど魔法や魔術を使わないよな。ヴァージニアとリーゼに頼り切りだ。あたしみたいなマナなしの余所者にも親切にしてくれるし」


 そもそも、マナが薄れることをあまり気にしていない節がある。鶏や牛を捌いている光景を何度も村の中で目にした。

 ウェルカニアでは動物の殺生も嫌忌される。相手が人ではなくとも、罪悪感が積み重なれば年を経てマナを失うこともあるからだ。と殺業者や猟師は必要性こそ認められているものの、他の仕事に対して低く見られることが多い。


「教会はないが、魔女の館はある。それも村の遺跡と言ってもいい墳墓の上に」

「リーゼ様は、あなたにそこまで見せたのですか」

「あ、いや、ほとんど事故みたいなもんだったんだけど……」


 目を剥く院長の反応につい、言い訳めいたことを並べてしまう。仕方ありませんね、とでも言いたげにひとつ頷いた院長に続きを促される。


「施薬院の子供たちも変な感じだ……ウェルカニアンは旧七王家の領地ごとに血が濃いから特色も現れやすいけど、ほとんどから集まってきているように見える。わざわざこんな辺鄙な場所まで来なくても、地元に孤児院はあるはずなのに」


 マキナでも知っている例としては、一般的に南部人の瞳は緑がかって濃く、北へ行くほど色が青く薄くなっていくのだと言われている。その法則でいくとリーゼは典型的な南部人、地元リーチ領の人間で、院長は北部の出身であるはずだ。


「それに、なんでリーゼなんだ?」


 村人だけではなく、育ての親であるはずの院長までもが様付けをして畏まる。彼女の仕事はほとんどが魔女の身の回りの世話で、普段から館へ自由に出入りできるのも彼女だけ。

 そしてあの、魔女に匹敵するほどの強い魔法を操る力だ。

 リーゼは一体何者なんだ? はじめは聞くつもりも、深く関わるつもりもなかった。けれど、魔法義肢マギカリムとサリタに関わりがあるかもしれないとなった以上、その由来を深く知っていそうな魔女と、魔女のであるリーゼとはなにか見えない繋がりがあるのではないかという気がしてきている。

 マキナがアンダートンここに連れてこられたのだって、もしかしたら偶然などではないのかも。


「……なるほど。それで? 今挙げた疑問点からなにか思いつくことは?」

「んー………………いや、わかんない。さっぱりだ」


 両手を上げて正直に答える。ただひとつだけわかるのは、マキナは魔女の館からへやってきてしまったということだけ。


「どう、落第かな?」

「いいえ、これで充分。合格ですよ」

「へっ?」

「あなたの着眼点は正しい。学問の基本は常に新たな疑問点を見つけ、考え続けることです。まだ答えがわからないのは知識が足りないからで、それはこれからいくらでも補っていけます。あなたはまだほんの子供なのですから」


 こちらへいらっしゃい、と手招きされて足を滑らせないよう慎重に脚立を降りる。

 いつも通りの視点に戻って、ふと上げた目が院長の胸元のブローチに留った。


「ローズマリー……」


 カメオに彫り描かれているのは可憐なローズマリーの花だった。館の前庭にも、施薬院の薬草園にも、家々の玄関先にもその花が植えられているのを見た。

 追憶と思い出の花。


「この村は、誰かを悼んでいるみたいだ」


 リーゼも院長も、村の人たちも、子供を除いて彼らは常に黒い服を身に纏っている。最初に見た時は村中で喪に服しているのかと思ったくらい。

 何気なく口にしたマキナの問いに、院長は小さく息を飲んだ。

 そのまま、優しく腕の中に抱きしめられる。リーゼと同じ、ハーブと花のいい匂いがした。


「私に答えられることは少ない……でもひとつだけ、あなたに教えておきましょう」


 なにかの痛みを堪えてでもいるかのように、耳元で声が揺れた。


「この村は、罪人の村なのです。私たちは皆同じ罪を背負っている」

「それは……」


 問い返そうとしたマキナの頭に「うわ」魔法の帽子が深く被せられた。そのまま噛み付かれやしないかと気が気でない。鍔のほころびは約束通り治してやったので、不義理はされないと思うのだけれど。

 脚立に掛けてあったコートを広げて「どうぞ」と言われてしまったので、恐縮しながら腕を通す。


「ふむ。まさしく魔女の弟子らしいいでたちですね」

「……からかうなよ」

「そろそろお行きなさい。移動魔法は使えないのでしょう?」

「ああ。でもこいつの足なら山の中を行ってもそんなにかからないと思う」


 なんたってここはウェルカニアだ。燃料のマナならそこら中に満ちている。

 マキナが命じると、胴体部分の殻が軋みをたてながら上下に割れて中の繭部分が露になった。普通に乗り降りできるなら最初から言っておいてほしい。魔女への文句一言目はとりあえずそれに決めた。


「中央では色々と不快な思いをするでしょう」

「覚悟してる」

「誰がなにを言おうと、私たちアンダートンの民は、あなたが優しくて強い子だと知っています」


 それだけは覚えておいて。初めて見る穏やかな微笑みと共に贈られた言葉に、不意打ちを食らったマキナは目の奥が熱くなるのを隠すため、慌ててマナ喰らいの体を登った。

 繭の中に収まって、でも今度は殻を閉じずにそのままぐっと足に力を込める。


「ありがとう。いってらっしゃい、サリタの子」

「……いってきます」


 アンダートン村の上を縦断するように飛ぶ。影に気づいた村の人たちが顔を上げて、こちらへ向けて手を振ってくれる。少し恥ずかしかったけれど、マキナも小さく手を振り返した。

 心地いい風が頬を撫でていく。



 目指すはウェルカニア中央部、学園都市コンセルヴァトワール——ひとまず二人に会ったら、リーゼには服のお礼と、魔女には壁紙を穴だらけにしたことがバレたって伝えなきゃ。

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女王陛下のマキナクラフト 才川夏生 @saikawa_ntk

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