マキナと不眠症の地下通路
見上げる空は青くて涯がない。どこまでも落ちていってしまいそうな気分になる。
細く束ねられた黒髪が乾いた風に揺れる。影の中でも愉しそうに光る青い目が、膝に乗せたマキナの顔を覗き込んだ。
「ばかだね、マキナは」
「……わかってるよ。もう余計な喧嘩には首突っ込まない」
「違う、首の突っ込み方を間違ったんだ」
汗で埃が張り付いたマキナのおでこを撫でる、冷たい指が気持ちよかった。
「隅のテーブルにじっと動かない男がいただろう? 頭はあいつだ。最初に抑えるべきはそこだった」
でも殺し合いを防いだのはよくやったね、と笑うサリタが拳を出したので、マキナも自分の拳を上げて軽くぶつけた。まあ、ほとんどサリタが片付けたようなもんだったけど。
「さっき買ったタコス、食べようか」
「口ん中痛いんだけど」
「我慢しなさい。次の町までは遠いよ」
見渡す限り、次の町どころか他の車の影すらない。赤茶けた真っ直ぐな道がどこまでも続く。
ここにあるのはサリタとマキナとオンボロの車だけ。赤い山の描く稜線に空が切り取られて、もしも世界がそこで終わっていたってなにも恐くないと思っていた。
「この葉っぱはなに?」
「クラントロ」
「あー、あれかぁ」
知らない場所を旅して知らないものを食べる。隣にはずっとサリタがいて、凪いだ声でマキナの知らないことをひとつひとつ教えてくれる。
それだけで、なにも恐いものなんてなかったんだ。
窓は開けてないはずなのに、どこからか忍び込んできた風がするりとマキナの頬をひと撫でした。
古い建物だけれど造りは確かなので、隙間風ではないはずだ。肌に触れる微かな感触を頼りに歩くと、地下へ降りる階段を見つけた。
突き当たりに凝った紋様の彫られた重そうな扉がある。それが、床に積まれた本に引っかかって閉まりきっていないのだ。
地下室と思しきその先から、冷たい空気が立ち上ってきていた。
怪しい。マキナは用心しながら軋む階段を降りた。なにせここはあの魔女の館だ。おかしなことはいつだってここからやってくるのだから。
ゆっくりと扉の隙間を押し広げて中に入る。
「うわ……」
ぎっしりと並んだ本の背表紙が、象嵌細工のように壁面を埋め尽くしていた。
地下二階分の空間が吹き抜けになっている。低く淀んだ空気の表面が、カンテラの弱い灯りを受けて飴色の時間の膜を張っていた。
「マキナさん?」
本の匣の底からリーゼの声がした。そちらを覗こうとして扉を支えていた手を離すと、
「あっ、ま、待って」
「えっ?」
床に積まれた本が重い扉に押し出されて、完全に閉じた。錆びた金具の噛み合う音を聞いたリーゼが慌てて階段を上がってくる。
「ああ〜」
「えっ、なに、なに」
「このドアノブ壊れてて……内側からだと開かなくなっちゃう時が……」
押しても引いても、ついでに叩いてみてもだめだった。厚い扉はびくともしない。
「えっと、つまり、閉じ込められた……?」
困ったようにリーゼが微笑む。マキナも頬をひきつらせて笑うしかなかった。
「ごめん、余計なことして……」
「いいえ、事前に伝えておかなかった私が悪いんです。普段誰も来ないもんだからすっかり油断してて」
ここにある蔵書はほとんど魔女が無節操に集めてきたものらしい。でも分類して目録をつけたりするのはリーゼの役目だそうで。どうりで綺麗に並んでいるわけだと納得した。
「魔法で外に助けを呼んだりできない?」
「この石……」
リーゼの白い手が地下図書室の黒い壁を撫でた。
「魔導書が勝手に作動しないように、マナを通しづらい素材でできてるんです。この部屋の中はほとんどマナなしに近い状態なんですよ」
カンテラの光が届くのは、リーゼが本を広げていた机のごく狭い周りだけ。
その輪を外れた闇の中に、ふと、嫌な空想が浮かび上がった。
——マナなしの体が隙間なく積み上げられた壁だ。
今まで見てきたありとあらゆる死体が折り重なって肉の壁を作る。腕や足だけが無理矢理突っ込まれている部分もある。
想像上の死体もあった。獣の牙と爪に引き裂かれたサンゲルタの村人たちだ。
その壁が続く先、天井の中央部分に嵌ってこちらを見下ろしているのは、光をなくした青い瞳——
「ひゃ」
突然、リーゼにわき腹をつつかれて情けない声が出た。
「なにすんだよ!」
「いえ、前にヴァージニアがマキナさんはくすぐったがりだって言ってたなーって思って」
「おい、やめ、ろ、やめて、ってば」
いじわるな指から身を捩って逃げる。ひととおりマキナで遊んだあと、リーゼは満足げにため息をついた。
「元気出ました?」
「……疲れたんだけど……」
「怖がらせちゃってごめんなさい。大丈夫、外に出られないなんてことはないんです」
鍵束を鳴らしたリーゼが申し訳なさそうに続ける。
「ただし、すっごく歩かなきゃならなくて……」
壁際にあるキャビネットの引き戸を開けると、奥に鍵穴のついた扉が見えた。かがめば楽に通り抜けられる大きさだ。
「おお……」
「村の外まで続いてます。ヴァージニアの帰りを待つよりは早いでしょう……多分」
カンテラを持って先に行ったリーゼに続いて、隠し通路の扉をくぐる。石造りの道は案外広々としていて、反響する足音がやけに大きく聞こえた。
手を差し出されたので思わず身を引くと、「違いますよ、もう!」心外だと言わんばかりに怒られた。いや、どう考えても自業自得じゃないか。
「はぐれたら大変ですから」
リーゼの白い手と、通路の隅にひたひたと溜まる暗闇を見比べる。ここの壁も図書室と同じ素材で組まれているのだろう。さっきの妄想はまだ薄ら寒く背中にこびりついていた。
「…………うん」
素直に手を重ねると、リーゼのほうがほっとしたような顔で強く握り返してきた。別種のくすぐったさになんだか身を捩りたくなる。
「行きましょうか」
灯りを携えたリーゼに手を引かれて、マキナはゆっくりと暗い道を歩き始めた。
「マナなしとマナ持ちっていうのは、本来ふたつの状態を表した言葉にすぎないの」
テーブルの上に置かれたロウソクの火が、ゆっくりと明滅を繰り返す。
「ロウソクの火が燃えているか、消えているか。目を開けているのか閉じているのか。光か闇か」
魔女の貌が闇の中に浮かび上がっては消える。その様をじっと見ていると、自分で瞬きをしているかどうかすら怪しくなってくる。
「そのふたつの状態を複雑に組み合わせて、あらゆる世界の理を書き起こしたのが魔術式。それを円形に整えて顕現させたのが魔法陣。それぞれを噛み合わせてやることによってさらに大きな力を引き出すことに成功したのが
ヴァージニアの背後に、いくつもの回転する魔法陣が現れた。
大きいものや小さいもの、早いものや遅いもの、多層に重なり合いながら音もなく回り続ける。
「こうした技術を究めた者を、総じて魔術師と呼ぶ……わたしは正直、魔術って苦手だけど」
「魔女だから?」
「そ。いちいち考えながら息を吸って〜吐いて〜なんて、めんどくさいもの」
「そのわりに、案外まともな授業するんだな。マナなしに魔術を説くのは無駄じゃないの?」
ヴァージニアがにやりと笑うと、背景に浮かんだ
銀のペーパーナイフを手に取り、ひとつの小さな
「……あっ、ぶねー」不穏な魔術が発動して、危うく館ごと吹き飛ばされるところだった。
「無駄だって思うわりにちゃんと予習はしてきたのね、いい子ちゃん」
涼しい顔をした魔女は何事もなかったかのように教授を続ける。
「銀はマナを断つ。そして要の
「おかげさまで、ゆっくり寝る暇もないけどな。いきなりこんな分厚い専門書何冊も渡されて……」
「いいことじゃない。ただ悪夢にうなされるよりは建設的でしょ?」
思わず言葉に詰まってしまった。睨みつけるマキナの視線もどこ吹く風。飄々としてるだけに見えても魔女は魔女、すべてお見通しというわけか。
「正しい知識も持たずに敵意ある魔術師と相対すれば、自分がなにをされているのかもわからないまま死ぬだけよ。学びはすべて無駄にならないわ。
「あれにはもう乗らない」
頑な拒否でくるんだマキナの返答に、ヴァージニアは目を伏せて苦笑した。
「あれも、あなたの悪夢の一部?」
マキナはなにも答えずに、テーブルの上の本を片付けて薄暗い部屋を後にした。
時折上ったり下ったりを繰り返しながら地下通路は続く。方角と歩数を確かめながら、どうやら館の裏手の山へ向かっているようだとマキナは見当をつけた。
暗がりから、死人が冷えた手を伸ばしてはマキナの肌を撫でていく。リーゼの柔らかな手と、カンテラの灯りを照り返す金色の髪だけが、今のマキナにとってのよすがだ。
ヴァージニアよりも濃い緑の瞳が、気づかうようにちらちらと振り返る。
まぶしいな、とマキナは思う。
リーゼほど綺麗な女の子に、マキナは今まで出会ったことがなかった。年が近い子供はみんなマキナと同じ荒んだ目をしていたし、油断するとすぐ命か金のどちらかを持っていかれそうな目にあった。
音楽やケーキの味の感想を求められるなんて、生まれて初めてのことだった。
友達がいるって、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。そう思ったらなんともくすぐったくて、笑いだしそうになるくらい気恥ずかしかった。
でも、とマキナは天井に淀んだ闇を見上げる。
光のない青い瞳がじっとこちらを見つめていた。
これからマキナは、あの壁の中からサリタを引き下ろさなければならないのだ。空いた隙間を埋める新たな死体は、多分、自分のものになるような気がしている。
だからきっと、手を離すなら早いうちがいい。
「マキナさん?」
リーゼが向き直って、歩みが遅れがちなマキナの顔を覗き込んだ。
「ちょっと休憩しましょうか」
カンテラを置いて、通路の壁際に置かれた木のベンチに座る。手招きされたので、マキナもリーゼに倣って少し離れた隣に腰を下ろした。
反対側の壁に、両開きの大きな扉があることに気づく。図書室の扉と同じ紋様が全面に彫り込まれて、荘厳な陰影を作り上げていた。
「すごいな。ここ、なに?」
「地下墓地です。なんでも、偉い人が祀られてて、何十年かに一度の祭礼でしか開かれないらしいんですけど……見ます?」
あの鍵束にはこんな場所の鍵まで下げられているらしい。あまり気乗りしない様子のリーゼの提案に、マキナもふるふると首を横に振った。
床に積もった埃の上に、真新しい沈黙が降る。
「………………えっと……」
なにか言っておかなきゃいけないことがあったはず。自分の中の言葉を必死に探していると、大きな緑の瞳をじっと向けられてどきどきした。
「その、ありがとう……」
「どうしたんですか、急に」
「いや、色々とさ、最初から。怪我の手当もそうだし。ピアノ弾いてくれたりとか、ケーキとかも」
マキナにはまぶしすぎて、直視していられない。でも今言葉にしなければ、そのほのかな光が灯された記憶は青黒い闇にどんどん沈んでいってしまいそうで、マキナは精一杯声に出して手繰り寄せる。
「嬉しかった、から、ありがとう……で、合ってる?」
「……………………」
どんどんか細くなるマキナの声が地面に落ちるのを見届けて、少し微笑んだように見えたリーゼが突然カンテラの火を吹き消した。
鼻先も見えないくらい真っ暗になる。
「リーゼ?」
衣擦れの音がして、右手が暖かな感触に包まれた。そのまま肩までぴったりと温もりが寄り添う。
「えっと、なにも見えないんだけど」
「でも、こっちのほうが近くなるような気がしません?」
顔のすぐそばで声がした。血がざわめいて耳朶へぎゅっと集まる。
「誰もいないごっこです」
「なにそれ」
「施薬院の子供たちと時々やるの。悪いことをした子が自分からは言い出せない時に。ここには誰もいませんよ、誰も怒ったりしませんよ、だから安心して白状しなさいって」
「もしかして、リーゼも白状させられたことある?」
「……誰もいないから言いますけど、実はあります」
ふたりして同時に吹き出す。暗い部屋の中で涙ぐみながら悪事を告白する小さなリーゼを想像すると、不思議と柔らかな気持ちになった。
そしておそらく今のマキナは、リーゼからもそう見えているのだ。
少し頬が熱かった。手のひらを上向きに返して、リーゼの手を握り返す。
「……誰もいないから、白状すると」
できればこの告白が続く間だけは、離さないでほしいと願いながら。
「ヴォルカ自治共和国ってのは、大国に挟まれた小さな国でさ。そこらじゅう溶岩と苔しかないような土地で。生き延びるためにもう何十年も、身内同士で酷い潰し合いを続けてる……そこに生まれたあたしもやっぱり、たくさん人を殺してきた」
命よりも車一台が遥かに高い国だったのだ。銃を持たされただけ幸運だったとマキナは今でも思っている。爆弾の運び役にされていたら生きてここにはいなかっただろう。
「国境に近い山の中で戦闘があって、死にかけてたところを偶然今の
行く先々で細々とした修理の仕事を請け負い、時には荒事にも首を突っ込みながら。なんとか親子ふたり、糊口を凌いで旅をした。決して楽な暮らしではなかったけれど。
「救われた、許されたんだと思ったよ。サリタがあたしを人間にしてくれたんだ」
どこまでも続く青空の下、穏やかに微笑むサリタがいつも隣にいて、守られている。
体の隅々までを満たしていたあの幸福感。
「離れてからのサリタになにがあったかは知らないけど、あたしに人を殺すなって教えたサリタが今、人を傷つけるようなことをしてる。ならそれを止めるのはあたしの役割で……罰なんだ、きっと」
「罰、ですか?」
「許されてなんかなかったんだ。戦場でなにもわからないまま死なせるより、一度きちんと人間に育てて、自分がどれだけのことをしたか思い知らせてから一番大切な人を殺させる……よくできてるよな、ほんと」
見上げる虚空に、もうあの青空はなかった。冷たい手が四方からマキナに向かって伸ばされる。決して無理に引きずり込もうとはしない。いずれ自分たちと同じ場所へ来ると知っているからだ。
「でも、マキナさんは」
つなぐリーゼの手にぐっと力がこもった。
「そのサリタさんを、傷つけたくないんですよね」
「……どうしてそんなふうに思うの」
マキナはマナなしだ。人を殺すのには慣れているし、必要があれば躊躇いなくそうする。マキナは自分がそういう人間だということを、嫌ってほどに知っている。
「どうしてもなにも。こんな、ちょっとの傷をつけたくらいで」
マキナの右手を取って左のこめかみに触れさせる。微かに盛り上がった傷の感触は、気をつけてなぞらなければわからない程度だった。
「たったそれだけで、泣きべそかきそうになってたマキナさんを知ってますから」
「な、泣きべそなんてかいてない……」
「かいてました! ……だから、マキナさんはサリタさんを殺したりしません」
そっと、前髪が触れ合う。
「マキナさんは、ほんとは誰も傷つけたくない人なんだって、私知ってるんですから。それに言いましたよね、ヴァージニアのことを信じてあげてって」
「あの魔女を?」
「ヴァージニアはマキナさんに罰を与えたいなんて思ってないし、サリタさんを殺してでも止めようなんて考える子じゃありません。助けたいんですよ。そのためにきっとマキナさんが必要なんです」
そんなものいらない。サリタの言葉が耳に甦る。冷ややかな響きに打たれた心が怖じけて、どこまでも深く沈んでいってしまいそうになる。
あなたのサリタを止められるのはあなただけでしょ。魔女の真摯な言葉と力に満ちた瞳がそれを許さない。
間近にあるリーゼの誠実な瞳が、触れる手が、マキナの奥底にいる無色透明の幽霊の輪郭をなぞって明らかにする。
暗がりの中でも確かに感じる不思議なまぶしさに目を閉じる。祈るような気持ちに駆られて、マキナはそっと、リーゼのこめかみに口づけた。
「ありがとう」
「…………………………」
「…………どうしたの?」
「だ、誰もいないごっこ中、なので」
「じゃあもうお終い。そろそろ行かないと、日が暮れる」
「あ、えっと、それじゃ、カンテラの火を付けるのお願いしていいですか? 今やるとちょっと手元が狂いそうで……」
受け取ったマッチで再び光を灯すと、死者たちが恨めしそうに輪の外へ身を引いた。
そうだ。そちらへ行くのは、少なくとも今すぐじゃない。
膝に力を込めなおして立ち上がる。
カンテラを持ったマキナが手を差し出すと、リーゼは少し躊躇ったあとでそこに手を重ねた。
「まだ長い?」
「あとちょっとです。最後の階段が急だから気をつけてくださいね」
リーゼの忠告通り、つづら折りになった階段は角度が急なうえに、所々苔むしていて滑りやすかった。お互い支え合いながら上ると、顔をあげた先、出口の洞窟に燃えるような西日が射し込んでいるのが見えた。
鉄格子の鍵を開けて外に出る。葉擦れの音が耳に戻ってようやく人心地ついた。
全身に浴びる赤い夕日が、体を取り巻いていた倦怠感を溶き解していく。暗さに慣れた目は滲みるように痛いし、お腹も空いた。
少し湿った風に乗っておいしそうな匂いが鼻に届く。見下ろす村の煙突から煙が何本も立ち上っていた。もう夕飯の支度が始まっているらしい。
「帰りましょうか」
微笑むリーゼの隣に並んで、ゆっくりと傾斜を降りる。乾いた土を踏む音が、なんだか心に軽く響いた。
「ねえ……めっちゃ目つき悪くなってるけど! 大丈夫なの!」
「平気だ」
人の顔を見るなり失礼な魔女だ。ほとんど倒れ込むようにして、マキナは抱えた本をテーブルの上に置いた。
「これと、これと、あとここも、よくわかんなかったから教えて」
覚え書きの紙が挟まって、ただでさえ厚い本が余計にかさばっている。
「あんたまさか、これ全部読んできたの?」
「読めって言ったのはあんただろ、師匠」
目を丸くした魔女がまじまじと見つめてくるものだからバツが悪い。頬に熱が上ってくる。
「この前は……ごめんなさい。ちゃんと勉強するから、あたしに魔術を教えてほしい」
眉間を親指で揉みながら、なにか言いたげに頬を動かす。やがて出てきた重いため息には、様々な感情が砕けて混ざっているようだった。
それでも一瞬だけ口の端が上がったのを、マキナは確かに見たと思った。
「いっぺんに読め、とは言ってないわ。このばか弟子」
指でぴん! と額を弾かれる。
「とりあえず質問はあとにして寝なさい! 顔が怖いのよ、そのまま固まっちゃったらどうすんの!」
厳つい顔はカシムで充分、とかなんとか文句を言う魔女に早々と部屋から追い出された。抵抗する気力も体力もない。本という重しがなくなったぶん、意識だけが羽のように飛んでいってしまいそうだった。
力の入らない手足をずるずると引きずって廊下を歩く。無理だ。眠い。言われたとおり寝てしまおう。えっと、寝るにはどこに行けばいいんだったっけ?
今にもひっくり返りそうな視界の端を、金色の髪が横切った。
リーゼ。リーゼだ。
吸い寄せられるように足が勝手に動く。
「あっ、マキナさん。おはようござ、い、ま、あの」
いいにおい。あったかい。やわらかい。
頭の中に詰め込まれた魔術式が霧散して、そんな感触だけでいっぱいになる。
「どゎ、どうしたんですか、具合とか、悪いんじゃ」
「………………………………ねむい」
「ねむ、ああ眠いんですか。よかった。いやよくないんですけどあの、ね、待って」
ねぇちょっと! ヴァージニア! やけに焦った様子で魔女を呼ぶリーゼの声を遠くに聞きながら、ひさしぶりにゆるやかな夢への階梯を降りる。
青い空と、赤茶けた道がどこまでも続く。見渡す限り他の車の影もない。
赤い山の描く稜線の向こう側に、世界が果てなく広がっていたってもう恐れない。
埃っぽい道に寝転んでひとり、マキナは目を閉じた。
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