ヴァージニアと願いのナイフ 後編


 マキナには見えない角度で作業着の男がゆっくりと地面から石を拾うのを、獣は声も出せずにただ見つめていた。

 マキナは気づいていない。車のエンジンをかけようとして背を向けたままだ。


 ——だめ、だめ!


 振り返ったマキナの側頭部ぎりぎりを掠めて石が空を切った。

 回転するように受け流した男の腕を掴むと、引っ張られて姿勢を崩したその膝裏を思い切り蹴る。

 地面へ倒れ込んだ男に馬乗りになったマキナは、そのまま体重をかけて後ろ手にひねり固めてしまった。

 一瞬の出来事に獣はやっぱりなにもできず、ただ呆然としているだけだった。

 琥珀の瞳が酷薄な光を浮かべる。さっきまでの少女とはまるで別人のようだ。

 腰に挟んでいた銃を取り出して、うめき声をあげる男の耳に銃身を添える。


『話を聞く気はあるか? 鼓膜がいらないのなら破ってやるけど』


 返事がないのを勝手に肯定とみなしたのか、マキナは話を続けた。


『あんた、演技が下手すぎるよ。探してたのはあたしじゃなくてこいつだな? あんたみたいなのがサイードの下にいたってことは……』


 言葉を切って、少しだけ考え込む。


『なあ、これは提案なんだけど』


 銃口を空へ向けて、躊躇いなく引き金を引く。一瞬の閃光が星より強く濃紺の空を焼いた。


『あたしにも一枚噛ませろよ』


 獣は自分の耳を疑った。


『こいつがいなくなって焦ってたんだろ? 今すぐ連れて帰れば次の襲撃には間に合う。処分ものの失敗を補ってやったんだ、こいつの修理代に……あとはあんたが貰う分から四割でいい』


 どうだ? と下ろした銃口が男の頭にひたり吸い付く。


『今ぶっ放した音を聞いてすぐに人が来るぞ。そしたらあたしはあんたを殺して逃げるだけだ』


 それじゃお互い得しないよなぁとあざ笑う。流れ落ちる汗が血走った目に入って滲みるのか、男はしきりにまじろぎながら、


『……三割だ!』半ば悲鳴のように叫んだ。

『自分の命を安く見積もってもいいことないぞ』


 ま、いいけど。頷いて上から退いたマキナが手を貸すと、男の体が軽々と立ち上がった。特に力を込めたようには見えなかったのに。

 目を白黒させる男に構わず問う。


『で、サイードは今どうしてる?』

『あ、ああ……もうじき事務所に戻るはずだ。くそっ、腕が痛ぇ』

『…………』

『あのジジイもそろそろ感づいてやがるから、手を打たれる前にまとめて片づけちまえってよ』

『そっか。わかった』


 二度、炸裂音が連続して、声も出せず悶絶する男の体が再び地面に転がった。撃ち抜かれた両足の甲から血をまき散らす。


『があっ、あああっ、畜生ッ!』

『サイードは黒幕じゃなくて標的か。それだけわかれば充分だ』


 たなびく煙の遠くから、ちらちらと小さな灯りが動いているのが見えた。銃声を聞きつけた誰かかもしれない。

 風に揺れる前髪の下の目がようやくこちらを向いた。

 マキナの不思議な瞳。底冷えするような光は今また薄らいで、どこか寂しそうに瞬きする。

 少しだけ、彼女のことを恐ろしいと思ってしまった獣の怯懦が見透かされているのだ。

 痛むはずもない胸が苦しかった。

 マキナはポケットから再び琥珀を取り出すと、静かに獣の額へ近づけた。


「……お前さ、このままどこか遠くに逃げろよ。別の国でもどこでもいい。騒ぎが収まるまで隠れてるんだ」


 かちり、音を立てて嵌った石から、全身が震えるほどのマナが流れ込んでくる。金色の光が縦横に線を描いて体の隅々まで歓喜と共に満ちていく。

 マキナの手が触れた場所は全部わかる。確かな暖かさをそこに感じた。


「もう悪い奴に利用されたりするな。ちゃんと、自由に生きて……オルタ」


 思わず軋む首を持ち上げると、マキナのはにかんだ笑顔がごく間近にあった。


「勝手に考えてた名前! 気に入らなかったら忘れていいよ」


 鼻の頭に軽く触れるだけのキスを残して、身を翻したマキナが車に向かって駆けていく。


 ——マキナ、マキナ


 まだ体をうまく動かせない獣は——オルタは——、運転席に乗り込んだ彼女の瞳が窓ごしにさよならを言うのを、ただ見送ることしかできなかった。



    ■



「あのネ、ヴァージニア……カシムはホントに怒テルヨ」

「だってぇ、これよカシム! わたしが視たナイフ!」


 獣の襲撃を待ち構え、緊張高まる事務所に飛び込んできたのは、まさしくヴァージニアが直感ビジョンで視た「琥珀のあしらわれた細身のナイフ」だった。


「イヤイヤ、人ジャン! むっちゃ女の子ダヨ!」

「だからぁ、わたしの直感ビジョンだからカシムにはあてにならないって言ったでしょ」

「隠喩なら、そうト早ク言ってヨ!」


 いかつい大男が嘆くのを見て、銃を構えたままの少女は戸惑うように身を引いた。


「なに言ってんだ? あたしはナイフじゃない……『サイード、こいつらは誰?』


 ウェルカニア語がわかるのだ。その質問はヴァージニアも大いに訊きたいところであったので、彼女に倣ってサイードを見やる。

 額を押さえて渋い顔をしていた彼は、手の陰からぎろりと少女を睨めつけた。


『マキナ、今日はもうここに近づくなと伝えてあったはずだ。なぜいる?』

『ごめん、聞いてない……ちょっと急ぐことがあって、終業前に抜け出しちゃったから……』


 マキナと呼ばれた少女は、叱られるのがわかっている子供のように言い淀んだ。


『それよりサイード、あんたは例の獣たちに狙われてる。早く逃げないと危ないんだ』


 こちらの存在を気にしてか、サンゲルタ語でせき立てる。

 その懸命な背中をつ、と指で辿って細い腰を撫で回すと「ひっ」可愛らしい声が出た。

 少女の手から銃と、ついでに腰に挟んでいた薄い手帳を取り上げる。


『持ち物は……これだけ? 敵の斥候ってわけじゃないみたいね。でも』


 唖然とした少女が動けないのをいいことに、そのまま指先を口に含むと「ぅわ」びくりと震えてみるみる全身真っ赤になった。

 ずいぶん感じやすい子ねぇ。


「は、なせよっ! なんなんだお前!」


 ウェルカニア語で怒鳴られる。内緒話は無理だと理解したらしい。


「指に火薬とマナの匂い……あなた、一体なにをしてきたのかしら?」


 少女は硬い表情で言葉に詰まった。ヴァージニアの悪戯に剥き出しの警戒を向けながら、許可を求めるようにサイードを横目で見る。


「あまりちび助をからかうな……マキナ、時間がないから手短に話せ。こいつらのことは気にしなくていい、俺が引き入れた館の魔術師たちだ。実力はお前も今確認したな?」


 引きずり込んだの間違いのような。いけしゃあしゃあとしたサイードの言葉をそれでも信じることにしたのだろう。マキナは自分の頭の中を覗いて整理するように少しだけ黙り込んだあと、ここへ至った経緯を話し始めた。



 のだけど。



「なぁんで戻ってきちゃったのよ」


 率直な感想を言ったら、すかさずカシムに肩をどつかれた。


「はぁっ?」

「そのまま逃げちゃえばよかったのに。危険な魔法工芸品マギカクラフトが関わってるってわかってるんでしょ? 見たところこの土地の出身ってわけでもなさそうだし、面倒事は避けて通るのが賢明ってものじゃない?」

「それは……だって、サイードやここの皆が危ないと思ったから……」


 不満顔で渋々答える。なんでそんなことをお前に言われなきゃならないんだという態度が全面に滲み出ていた。

 おもしろい。興に乗ったヴァージニアの内心を見透かしたのだろう、カシムが再度どついてきたけど無視する。


「そもそも、なんで落ちてただけの魔法工芸品マギカクラフトをわざわざ治しちゃうわけ? しかも貧乏なくせに自腹切ってまで。そのまま古物商にでも持ち込めばいい金額になったでしょうに」

「こ、壊れてたから……痛そうだと思ったんだよ」


 悪いかとでも言いたげに睨みつけてくる。


「あたしはサリタの子だ。目の前に苦しんでるやつがいたら、自分にできることをするだけだ」


 マキナの口から飛び出したのは、それはそれは懐かしい誓いだった。



「あはっ、あっはははははははは!」



 突然笑い出したヴァージニアを、今度はカシムもどつかなかった。


「ナントマァ」驚きに目を丸くしている。

「あーあー、そっかぁ……なるほどねぇ……」


 一通り笑ったヴァージニアは目の端に滲んだ涙を拭った。


「あんた、魔術師サリタの子かぁ」



 とおいとおい昔の話だ。

 戦で親を亡くした子供を拾い育てる魔術師サリタがいた。孤児たちを連れて様々な地を巡っては、世界の理を説いたという。生きるための知識や技術を授かり成長した子供たちは、彼に恩返しをしたいと申し出た。

 ならば自分と同じように、困っている者に手を差し伸べるがいい。

 そう告げられた子供たちは、「サリタの子」を名乗って世界各地へ旅立った。やがて彼らに救われた者たちもまた「サリタの子」を名乗り、同じように放浪しながら子を拾い育て始める。

 その営みは地にも血にも縛られず、密やかに絶えることなく続けられていったという。

 時が経ち、言葉が変化していくにつれ「魔術師」と「サリタ」の意味は乖離してゆき、職業としての魔術師の中には彼の理念を正しく継ぐ者も少なくなっていった。

 けれど確かに今、ここには「サリタの子」がいる。魔術師と祖を同じくし、同じ誓いを律儀に守るマナなしの子供が。


「ねえ……よければ「証」を見せてくれる?」


 少し躊躇ったけれど、マキナは丈がぶかぶかの作業着の前をはだけてそれを見せてくれた。

 左胸の上に刻まれた複雑な模様の装飾文字。優美なナイフのようにも見えるそれは、サリタから子へ、幸運を願う形として授けられる唯一の証だ。


「ありがとう、綺麗ね」


 思いがけず褒められて、マキナは顔を赤くしてそっぽを向いた。


「は、話はもういいだろ! サイード、早くここから離れよう」

「……お前の気持ちは尊いが、あいにくそうはいかない事情があってな」


 険しい顔をした古狸が深いため息をつく。


魔法工芸品マギカクラフトだと……そんな骨董品がなぜ今になって騒ぎを起こす」

「寝た子を起こすやつがいるんだわ。いつの時代も、どんな場所でも……」


 帽子のつばを握って引っ張る。何度も、何度も繰り返し。

 落とした視線の先、履き込まれたヴァージニアのブーツはよれて埃っぽく汚れていた。


「そう、眠っていただけ……なにも終わってなんかいなかった……」

「……ヴァージニア?」

「サイード、あの鎧の処遇、わたしに任せるって言ったわよね」


 壊すなり持ち出すなり、好きにしろと彼は言った。

 ならば構わないわけだ。


「チョット待って、ヴァージニア、なにヲ」


 事務所の窓枠がかたかたと音を立てる。

 鋭い笛に似た音が、地の底から逆巻くように吹き上がった。


「うわっ」


 鎧の描かれた紙が宙を舞い、マキナの周囲につむじ風を作って背後にある扉へ張り付いた。


「マナを失くしたサリタの子よ、あなたに魔術師の肉を授けましょう」


 足下に広がる魔法陣を、風に翻ったマントの裏が鏡面のように反射する。

 ヴァージニアの瞳と同じ緑の光が溢れて、複雑な路を描きながらマキナに肉薄する。

 光は足下からマキナの体を這って上り、蔦のようにからめ取った。


「あっ」

「鋼の体にこそこそ隠れる卑怯者を狩りたてる。そのための刃となりなさい……そんなに怖がらなくても大丈夫」


 耳元でからかいを含んで囁くと、潤んだ琥珀の瞳が悔しそうにこちらを睨んだ。


「感じやすいっていうのは、魔術師にとって悪くない才能よ?」



    ■



 ごうごう、ごうごう

 耳の傍で風の音がする



『それ、お前さんが直したんだって?』


 狭くて古い建物が密集する貧民街は、いつだって狭い路を通り抜ける風の音でうるさい。

 無認可だろうが関係なく、この病院の廊下はいつだって患者でいっぱいだ。ワゴンに乗せた機械を落とさないよう慎重に歩いていたら、唐突に声をかけられた。

 振り返った正面に立っていたのは、縁の細い眼鏡をかけた恰幅のいいおっさんだ。ずいぶん羽振りがよさそうだった。


『……そうだけど』

『こんな医療機器までいじれるなんざ、大した腕じゃないか、ちび助。稼げるだろ?』

『そんなことない。借金を返してる最中だ』


 半年前の市街戦に巻き込まれ、そのごたごたでサリタとはぐれて、気づいたらこの病院にいたのだ。死体と一緒に並べられてた中で目を覚ましたあとは、手当てに使う薬やら包帯やらを拝借してさっさと立ち去ろうと思っていた。

 通り過ぎようとした廊下で、ぎゅうぎゅう詰めに並んだ他の怪我人たちと目が合ってしまったのが運の尽きだ。

 手が回らない医者や看護師の代わりに軽傷なやつの怪我を見て回ってたら、逃げる機会を失ってとっ捕まった。勝手に使った薬や道具の代金を払えと言われたけど、ない袖は振れないし。

 こっちが一文無しと知るや否や、すぐさま働いて返せときやがった。あの闇医者め。

 なんたって途方もないばかなのだ。患者が誰であろうと担ぎ込まれれば寝る間を惜しんで治療して、それが済んだあとに懐具合を確かめる。そんなの、踏み倒されるに決まってるのに。

 そういうところがなんとなく、サリタに似てる気がしてほっとけなかった。


『病人には見えないけど、あんたあの医者の知り合いか? 医者なら患者からふんだくれって言ってやれよ』

『正論だ。しかしあいつはもっといい相手からふんだくることに決めたようだぞ。例えば俺みたいな金持ちとかな』

『は?』

『今度、この街にでかい州立の病院を建てるんだ。腕の立つ奴に片っ端から声をかけてる。あいつにはきちんとした免許を取らせてそこで働かせるつもりだ。完全に順序が逆だが、時の女神だってたまにはネジを巻く方向を間違えることもあろうさ』

『……はぁ』

『ついでに他の職員もまとめて来てもらうことにした。まあ表に出るのは都合が悪い奴もいるだろうってことで、希望を聞いて回ってるんだ。どうだ、お前は』


 このまま働くか? と静かな濃茶の目が問いかけてくる。


『……いや、あたしはいい』

『そうか? お前さんはよく働いてくれてると、みんな言ってたぞ』

『迷子になった義親おやを探さなきゃならないから。こないだの戦闘ではぐれちゃったんだ』


 かなり粘ったけれど、この近辺の病院にそれらしき人物が担ぎ込まれたという話はとうとう聞かなかった。

 ならば探す手を広げるにはちょうどいい頃合いなのだろう。

 もしかしたら、もうこのまま会えないのかもしれない。マキナだってサリタの子だ。時が来たらいつでも独り立ちしなければならない。

 それでも、こんな別れ方をするのは嫌だった。


『……じゃあ、俺の所で働くか?』

『えっ』

『金がないんだろう? 採掘場ウチは危険な現場のぶん、払いはいいぞ。特に機械を直せる奴は重宝する。ある程度働いて貯めたら探しに行って、金がなくなりゃまた戻ってくればいい』


 それはまた、なんとも魅力的な提案だ。


『その義親おやが言ってたんだけどさ』

『ん?』

『詐欺師に必要なのは、よく回る口でも頭でもない、相手が何を望んでいるのかを的確に見抜く才能だって』

『そいつは正しい。この街で一番の詐欺師である俺が保証する』

『なんで今頃こんなこと始めたんだ?』

『……まあ、罪滅ぼしだな。今更神の祝福マナに預かれるとは思ってもいないが。金の力でも、魔法の真似事くらいには指が届くだろうよ』

『ふぅん……ま、考えとくよ』

『ああ、気が向いたらいつでも来い』



 ごうごう、ごうごう

 サイードの声が渦巻く空気に飲み込まれていって——

 


 風の音が止んだ。

 視界が高い。そして広い。瞼を開けて最初に思ったのはそんなことだった。


「は……はぁっ?」


 いつもは見上げている重機の頭が目線の下にある。すぐにはそれがなんだかわからず、ただ足の裏がすっと冷えた。

 足、足? どこまでが自分の足だ? 腕を動かそうとして、やたらと感覚が重くなっていることに気づく。無闇に振り回した手の甲が岩壁を擦って欠片をまき散らし、その落下地点に人影が見えて心臓が縮み上がった。

 砂煙が舞う。あえなく潰されたかと思ったその人影は、一瞬でマキナの手のひらへと移動していた。


「ちょっと、落ち着きなさいよ」


 すぐ耳元で呆れた調子の声がする。全身の感覚がちぐはぐで、これで落ち着いてなんていられるものか。


「マキナ、今あなたは魔法義肢マギカリムの中にいるの。正確には胴部分にある繭の中。そこから感覚を繋げてこれを操縦しているのよ。言わば大きな人型重機ね」


 魔女の手がゆっくりとマキナの指先を愛撫する。また変な声が出そうになるのを必死にこらえた。


「身体拡張……これもあなたの祖、魔術師サリタが追求した魔術のひとつ。体が大きくなれば扱えるマナも増えるんじゃないかって、あまりに単純な発想だけに効果は絶大だった。通称


 固そうな指先の表面に軽く口づけて、舌を這わせる。「ひっ、う」背筋になんともいえない波が押し寄せた。

 だから、なんでいちいちおかしな触り方をするんだよ!


「……わかる? これは確かにあなたの指、そしてあなたの目」


 おかげで、体の感覚はだいぶ掴めてきた。

 勝手に拡張とやらをされた視界に映るのは、なんとも不思議な光景だった。

 地表を這うようにうっすらとした靄のようなものがかかっている。を取り巻くその細かな粒の流れに金色の光が反射して輝いていた。魔女の周囲に広がるのは、気を失う直前に見た柔らかな緑の光。


「これが……」


 マナだ。久しく遠ざかっていた感覚。

 懐かしいかと問われても答えられそうになかった。その記憶は、灰色の時間に隔てられた奥底で埃を被って眠っている。


「あれが見える?」


 魔女の指さす先、東の彼方に太い光の柱が立っているのが見えた。根本に近い部分を彩るのは、ひとつひとつは判別できない色の塊だ。上空へ昇るにつれ、溶け合って白い光の奔流になる。

 足下の靄がゆっくりとそちらへたなびいていた。逆さまの滝へ流れる水のように。


「あの根本にあるのがウェルカニア。行ったことあるんでしょ?」

「ほんの外側だけど……あんなに眩しくなかった」

「そりゃそうよ。これだけはっきりマナを見られるのは魔術師の目だけだもの」

「魔術師って、あたしが?」

「ええ。この魔法義肢マギカリムは魔術師の肉。自らは意志も心も持たないマナの器。サリタの子、あなたの意志が加わって初めて一人前の魔術師サリタとなる……」


 遠く、土煙が近づいてくる。鋭敏になった耳に、四つ足の刻む拍子が幾重にも折りかさなって聞こえた。


「強く願いなさい。マナはそれだけではなにも成さないただの物質。人の意志を映して初めて奇跡として顕れるもの」


 誘うように微笑む魔女の瞳。そこには切実な光があるように見えた。『罪滅ぼしだ』そう自嘲気味につぶやいたサイードの目に見た光。


「それが魔法よ。あなたが願う魔法はなに?」

「あたしは……」


 街のほうを見た。人が溢れかえった廊下に満ちていた血と汗の臭いを思い出す。


「ずっと思ってた。あたしにも魔法が使えたら、サイードがこの街を修理するのを少しでも手伝えたのにって」


 崩れた建物の壁が、たくさんの血を吸った埃っぽい道が、少しずつ元の機能を取り戻していくのを見て、マキナはサイードの事務所を訪ねた。

 なにかを作ったり、直したりするのはあんなに大変なのに、壊すのはすごく簡単なんだ。

 近づいてくる獣たちの気配を感じながら、オルタのことを考えた。唇に、あの可愛い鼻の感触が甦る。

 マナ石で動く美しい鋼の獣。あれだけの技術がありながら、裏で糸引く奴のやっていることときたら誰かを傷つけたり壊したり。マキナはそれが許せない。



「ふざけんな……!」



 地鳴りのような足音以外、不気味なほど静かな襲撃だった。うなり声や激しい息づかいもない。

 岩壁の縁に並んでこちらを見下ろす群は、「四六匹……」闇に溶け込もうとする個体ひとつひとつに赤い光の印が付けられる。便利なもんだ。

 オルタそっくりの、黒くしなやかな曲線の体躯、額に埋め込まれた紅玉のマナ石。決してお互いを見たり、鳴き声で連携を取ることもしない。

 なにをすべきか、どう動くかをあらかじめ打ち合わせているように見えた。

 飛びかかってきた何体かを腕を振って払い落とす。重い金属同士のぶつかる音が肌にぴりぴりした。

 これだけ派手に動いてるというのに、魔女は悠然とマキナの肩に立っていた。


「なぁ! もっとこう、魔法でぶっ飛ばしたりとかできないの!」

「ここはマナが薄い地だって知ってるでしょ。あんまり強い魔法は使えないのよ」


 マキナが動くたび、薄い靄が吸い寄せられるように集まってくる。

 動くだけで周囲のマナを消費する、の名の通りってわけだ。


「じゃ、どー、すんだよ! このまま一匹一匹手で叩きのめすのか!」


 銃声がした。サイードと背中合わせになったカシムが器用に障壁を張って攻撃を防いでいる。指輪のマナ石で補っているようだが、それでもマナの運用が難しそうだ。


「もう、せっかちねえ。魔術師ならもうちょっと自分の頭で考えなさいな」


 考える、考えるって……「どこから!」


「いいわね、まずは考える起点を定めましょうか」


 跳んで! 魔女の声に合わせて脚に力を込める。力任せに地を蹴った視界の端を星が流れていった。

 下を向けばいつもの職場がずいぶんと小さい。ちょっと跳んだけでこの高さかと肝が冷えた。

 暗闇の中で、蠢く赤い点と明滅するカシムの魔法陣がよく見える。眩いばかりの地平の向こうと比べても、マナの光の偏りはより明らかだった。


「そうだ……」


 俯瞰して、ようやくその疑問に思い至った。


「どうしてこっちはこんなに?」


 今は誰もがマナなんて気にせず暮らしているけれど、初めから全くなかったわけじゃない。

 サンゲルタには「マナ持ち」という言葉がある。確かにマナの存在は認識されていて、いつからかそれが急激に薄まった。


 ——一体どこへ消えた?


 完全になくなったわけでもない。地下にある鉱石は今もマナを含んでる。


 ——それが湧き出ていた源泉はどこだ?


『ここから先へは立ち入るな、危険だぞ』坑道内の封鎖された区画。

『そうはいかない事情があってな』サイードが人払いをして、ここでわざわざ迎え撃った理由。

 魔女が突然呼び出した、魔法工芸品マギカクラフト


「……こいつかっ!」


 落下するにつれ、赤い光の群が近づいてくる。

 オルタのものを触った時にわかった。不純物が少なくマナを通しやすい一級の石だ。ならば。


「いっ…………!」


 細かいやり方なんて知らない。だから、イメージは単純なほうがいい。


「けええええええええええぇぇぇぇぇ!」


 


 金色の光の奔流が、落雷のように大地を打った。

 激突する寸前、空気でできた柔らかな腕に抱きとめられる。舌を噛まなかったのは僥倖だった。

 砂嵐を通して見る赤い光が次々と数を減らしていく。

 容量をはるかに越えるマナを一気に浴びた石たちが、細かく砕けて風に舞っていた。給料何ヶ月分の風かな、なんてくだらないことを考える。


「お見事〜。大正解よ、いい子ちゃん」


 帽子が吹き飛ぶこともなく、優雅に降りてきた魔女が嬉しそうに及第を告げた。


「……そうかよ」


 脱力しそうな体をなんとか支える。

 ぼろぼろになった事務所の陰から、サイードとカシムが駆け寄ってきた。


『おいちび助! 今のはお前か! 大丈夫か!』


 今はあんたのほうがよっぽどちびじゃないか。そう言おうとして、声が外に届かないことに気づいた。マナを全部吐き出したせいで動力が落ちつつあるらしい。


「なあ、無事で良かったって伝えてく……」


 魔女のほうを降り仰ぐと、肩越しの岩壁の上、ライフルを構えた人影が見えた。

 視界が拡大する。銃口を飛び出した弾丸が回転しながらサイードへ向かって——

 手を伸ばす。今はもうちびじゃないはずなのに、届かない。


「サイード!」


 彼の眼前に黒い風の塊が躍り出た。鋭い金属音がして、サイードは彼を庇って吹き飛んだ塊と一緒に倒れ込んだ。


「マダ残っテタか!」

「待って!」


 こちらを見上げる獣の額に、琥珀の輝きがあった。


「オルタ!」

「ふぅん、あなたが例の可愛い猫ちゃんね」


 魔女の手がオルタのマナ石を撫でた。「なるほど、安い石……これじゃさっきのマナ嵐で壊れないわけだ」


 発砲音が連続する。魔女が指先をくるくる回すと、渦巻いたマナが壁となって弾の勢いを殺した。


「そして、あなたがこの騒ぎの黒幕?」


 岩壁の上をそのまま指さす。

 しゃがんでライフルを構える人影の列のわずかに後方、静かに佇む姿があった。

 暗闇に溶け込む黒一色の服、ひとつに結わえた細い黒髪が風にたなびく。

 その足下に獣の一匹が身を擦り寄せた。氷のような切れ長の青い瞳が瞬くと、それと同期するように獣の額の青玉が光る。


「危ないことをするね……おかげでこの子まで巻き込まれるところだった」


 小波ひとつなく星空を映す湖面のような声。

 それなのに、強く心臓を握られた気がした。


「最近この国じゃあ黒猫を連れ歩くのが流行ってるの? まるで魔女みたい」


 ライフルが次々と撃ち込まれ続けるのにも構わず、二人は平然と話し続ける。まるで幽霊と会話しているかのような、不思議な光景だった。


「飼い慣らすのは簡単だ。あなたも飼ってみるといい」

「遠慮するわ、使い魔は連れない主義なの。うちの鶏が食べられちゃう」

「その前に食べ尽くされたのはこちらのほうみたいだけど」

「あらぁ、ごめんなさいね。うちの弟子が大食らいで」

「いいんだ、気にしないで。テストならもう終わった」


 黒い手袋に包まれた手が、青玉の獣の頭を撫でた。


「テストですって」


 崖の上に向かってオルタが低く構える。


「そう、そこで寝ている子たちはみんな不合格ってことになるね」

「てっきり魔法工芸品これが目的だと思っていたのだけど?」

「ああ、いや、それもいいんだ。ただ、どうしても欲しい人たちがこの後から来るみたいだよ」


 慎み深げに微笑むと、音もなく踵を返す。



「欲しいなら持っていくといい。私は



 目の奥に、灰色の染みが広がった。後ろ姿が闇に滲んで消えていく。


「サリタ」


 ようやく喉を動かせた。けれど声は届かない。この鋼の繭に反響するだけで閉じ込められてしまう。


「待って……待って、サリタ! ねえ、あたしだ! 待ってよ!」


 あれだけ自由に操っていた鋼鉄の手足が、拘束具に変わったかのようだった。


「くそっ! これどうやって出るんだよ! 出せ! ねえ待って! 待ってサリタ!」


 無理矢理振りほどこうとして暴れると、全身の神経が焼け付きそうになるほどの激痛が走った。


「馬鹿! 無茶するとあんた」


 心臓が破れそう。でもそれよりもっと奥で激しく叫んでいるものがあった。

 無色透明の幽霊だ。初めて人を殺した時に、体のずっと奥底へ閉じ込められたはずだった。

 鋼の皮膚が軋みをたてて割れる。冷たい夜の空気が流れ込んでくる。ぶちぶちとなにかがちぎれる嫌な音がした。


「マキナ!」


 よくわからない部品の一部と共に、マキナはようやく腹の外へとまろび出た。

 痛いかどうかなんてもうわからない。ただひたすら全身が熱い。


「マキナ! おい、しっかりしろ!」

「ヴァージニア!」

「すぐ安全な場所に連れてって手当てする。カシム、戻るまでの相手をお願い」


 魔女の睨む先、いつの間にか灰色の戦闘服に身を包んだ男が立っていた。

 にやついた顔つきはどこかサイードに似ていて、なにかが決定的に似ていない。


『よぉサイード、残念だよ。まさか一族の勇士がこそこそ魔術師を引き入れて、こんな企てをしていたとは驚きだ』

『……アミル』


 銃を構えた者、伝統的な形の剣やナイフを持つ者が、ぞろぞろと現れて包囲の密度を上げる。


『このガラクタどもはまるで期待外れだったがまあいい。長老どもに突き出すが増えたとしよう。あんたの墓は、こいつらの部品で飾ってやるよ。神代の技術を独占し、七つ星に反逆を企てた裏切り者の証として』


 悦に入った演説の終わりを待って、ため息をついたサイードは一度、指を鳴らした。


『なあ、賢いお前に尋ねよう。ここがガスに満ちた坑内で、今のが火打ち石の音だったとしたら、どうなる?』

『なんだそりゃ、昔の授業の続きか? んなもん爆発するに決まってるだろうが』

『そうだな。賢いアミル。お前の言う通りだ』


 包囲網の円周をなぞるように、次々と激しい爆炎が上がった。


『なんだ!』


 狼狽したアミルが『ひっ!』全身を白熱させた魔術師の姿を目の当たりにして顔をひきつらせる。


『俺やお前の目にはもう見えるべくもないが、今ここには神の祝福が満ちているそうだ』


 巨躯に怒気を漲らせた男が一歩前に進み出ると、それだけで波のように人垣が引いた。


『こいつが慈悲深い男で良かったな、アミル』

「ちょっとカシム! ほんと気をつけてよね! くれぐれも殺すんじゃないわよ!」

「ダイジョウブ……カシム、いつも、穏ヤカダヨ!」


 頭上から吹き荒れる爆風に、崩れる足下の地面に、成す術もなく武装した男たちが倒れていく。


『行け! ヴァージニア!』


 サイードの言葉にひとつ頷き、マントでくるんだマキナを抱えて魔女は跳んだ。



    ■



 久しぶりにアンダートンの館のソファでゆっくり寝ていたら、誰かに勢いよく両襟を掴んで引き起こされた。


「んあ?」


 琥珀の瞳がごく間近で燃えている。

 なんだ、思っていたよりずっと元気そうで安心した。


「お前っ、なんなんだよ! どうしてあたしを……」


 爆発する寸前に、人差し指を唇に当てて声の勢いを殺ぐ。そのまま下を指差して注意を促すと、「……くそっ」舌打ちしたマキナはようやく襟から手を離してくれた。

 ヴァージニアの膝に頭を預けてすやすや眠るリーゼは、幸いにもまだ起きる気配がない。


「三日も寝ないであなたの看病をしてくれてたのよ?」

「……知ってる」


 テーブルの上に置かれた自分の銃と手帳を見つけて手に取る。あんたが? と目顔で問われたので頷いた。


「その子……リーゼだっけ。誰なんだ。やっぱり魔女なのか?」

「そうねぇ、話せばすご〜く長くなるんだけど、いい?」

「知るべきことだけ話せばいい。余計なことに首を突っ込む気はない」

「じゃあ簡単に。この子はわたしの宝物」


 金色の髪を指で梳く。


「それだけ知っておいてくれればいいわ」


 きょとんとした顔をして、マキナはしばらくそのまま黙り込んでしまった。

 ひとつ大きなため息をついてから、空いているソファにどかりと体を預ける。やっぱり立っているだけで精一杯ならしい。


「……サイードたちは」

「無事よ。謎の獣襲撃事件は、アミルと仲間たちの大活躍によってめでたく終幕しましたとさ」


 魔女の予言によって獣の襲撃を知ったサイードは、かつての教え子であるアミルに協力を請い、採掘場で迎え撃った獣たちを一網打尽にした。幸いなことに誰一人死ななかったものの、大怪我を負った彼らは今州立病院のベッドの上でうんうん唸っている。

 表向きの話はそういうことになった。

 サイードがアミルの父である氏族長にそう掛け合ったのだ。息子のしでかしたことには目を瞑る。後始末もつける。そのかわりに息子とあの獣たちを結びつけた人物の捜索に協力しろと。


「よく向こうが納得したな」

「せざるを得ないわよ。息子を乗せたベッドが不思議な風にさらわれて空を飛び回ってるのを見たら、胡散くさい魔女にだってすがりたくなるものじゃない?」

「なにしてんだよ……」

「ついでに謎の鎧も行方不明。目を離した隙に消えちゃったらしいわよ。まさか魔女の帽子の中に入ってたりするわけないものねえ。あんな大きなものが」


 マキナが本格的に身を引いて目を細める。いやだ、そんないかがわしいものを見るような顔しなくてもいいじゃない。


「そうだ、オルタは!」

「そっちも大丈夫。あ、いや、大丈夫かは保証できないけど、結社のしかるべき機関に預けてきたから」


 隅々まで分解されて調べられるだろうけど、そのまま標本室行きとはならないはずだ。


「捜査が済めばこっちに連れてきてあげる」

「はっ? なんでこっちに」

「あー、悪い報せをまだ聞かせてなかったわね。あの採掘場はしばらく閉めることになったの。誰かさんが見境なく爆破したもんだから被害が甚大で」


 せっかくマナの少ない地に赴任していたというのに、あの大男はとことん大暴れする運命にあるらしい。


「というわけでマキナ、あなたはクビよ。でも優しいサイードは次の勤め先の手配をしてくれたわ」

「おい」

「魔女の弟子っていい仕事だと思わない? 一日三食寝床つき、こぉんなに美人なお師匠様に、可愛いご近所さんもいる」

「本当に悪い報せだな。冗談でも悪い」


 手に持った銃を真っ直ぐこちらに向ける。


「あたしに魔法は使えない。使えるわけがなかったんだ。あんなものに乗ってなければあの時サリタを……」


 琥珀の瞳が揺らぐのは、痛みかそれとも怒りのせいか。


「……サリタのこと、誰かに」

「喋ってないけど」繭の中の声を聞いたのはヴァージニアだけだ。

「それでいい。誰かに喋ったら殺す。サリタはあたしが必ず探し出す」

「なら尚更だわ。マキナ、わたしの弟子になりなさい。四六時中監視できるし情報だって渡すわよ。まさか結社こちらがなんの手も打たないなんて思ってるわけじゃないわよね?」


 悔しそうに唇を噛んで考え込む。魔女の組織を向こうに回して出し抜けると思えるほど、頭の悪い子ではないはずだ。


「あなたの宝物なんでしょう?」


 銃口が揺れて、力なく下がった。


「彼女がなぜあんなことをしているかは知らないけど、使えるものはなにを利用してでも止めなさい。あなたのサリタを止められるのはあなただけでしょ、マキナ」

「…………わかった」

「いい子ね。これからわたしのことは師匠と呼ぶように」


 心底嫌そうな顏をして、マキナはそっぽを向いた。


「魔女の弟子がマナなしって、鼠を捕らない猫くらい役立ちそうにないけど。で、あたしはなにをすればいい?」

「んー、とりあえず寝直さない? 久しぶりに働いたから眠くって」


 背もたれに頭を預けて目を瞑る。呆れたように鼻を鳴らしたマキナが、がちゃがちゃと器用に銃をバラしてテーブルの上に放り投げた。

 そのままずるずるとソファの上でうつぶせに姿勢を変える。


「それには賛成、悪くない」



 勝手にベッドを抜け出したマキナを叱るリーゼの声で起きるまで、魔女は夢も見ずに深く眠り続けたのだった。

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