第9話

 どうして、どうして。

 女は内心で悲鳴をあげる。

 最初にあの人に話しかけられたのは私なのに。どうして他の人のところへ行くの? 嫌だ。許せない。

 走る足に草木が当たる。痛むけれど、どうしても止まれない。

 憎い、呪わしい。

 手の中で、石が熱くなっていく。力をくれる石。壊したいと願えば相手をずたずたに切り裂いてくれる石。

 これがあれば、何だってできる。にたりと口が笑みの形になる。

「待て!」

 小さな影が、女の後をついてくる。

 転びかけて持ちこたえては、息継ぎの合間に叫びをあげる。

「待つんだ! 魔術は、人の身には、時に不自然なものだ! 無茶は、いけない!」

 お説教なんてうんざり。

 女は石をことさら強く握りしめる。ぬるりと、表面から毒のように、樹液のようなものがしみ出してくる。髪の先まで、びりびりと何かが満ちてくる。

 あいつを。殺してしまっていいわ。

 ばちりと、目の前に火花が飛ぶ。

 背後の小さな影は、怪我一つ負わなかった。さっきからついてきていた男が、森から、姿を見せないまま、防御の術を使ったらしい。

 何なのかしら。女は舌打ちする。

 あぁ早く、早く、やってしまわなくては。

 あの男だってそう、言うことなんて聞かない。あぁ気に入らない、いっそ、いっそ。

 でも、私、そんなこと、前は考えていたかしら? あの人が幸せなら、いいんじゃないのかしら。

 誰か、誰か、止めて、私は、

「待ってたぜぇ?」

 前方から、不釣り合いに陽気な声が響く。先回りしていた赤毛の女が、指先をこちらに向けている。

 美しい宝玉のような、緑の目。自信に満ちあふれた笑み。

 気に入らない、でも。助けてくれるかもしれない。助けて!

 思いとは裏腹に、女は近くの家の薪を踏みつけて飛び上がる。道のない方角を走って逃げる。

「うわっ、大人しい顔して、すっごい身体能力だったな」

「メリンダ! 大丈夫か」

 ベリルに叫ばれ、メリンダは片手を振る。

「平気。逃げられただけ」

 何かされたせいで、犯人に逃げられたわけではないらしい。ほっとしつつ、ベリルは家の間の路地を見つけて、女が逃げた方角へ急いだ。

 ベリルが埋められた後に建築されたらしい、神殿が村の東にあった。入り口付近に彫像が並び、真っ白な柱はずいぶんくすんで、ふちのところが削れていた。田舎には不釣り合いな建物に見えるが、使われてはいるようだ。

 女が足を止める。ベリルは切れた息を整えようとしながら、どうにか声をあげた。

「貴方が、犯人だったのか」

 唇をゆがめて、振り返ったのはマクレーンだった。握りしめられた石が、悪意を含んで明滅している。

「なぜあんなことを」

 答えはないが、推察はできる。彼女が恨みを抱いて握りしめていた石が、悪意ある精霊を呼び寄せた。精霊が、面白がって力を与えた石。それが、彼女を即席の魔術師みたいにしていた。あるいは逆で、悪意ある力を持った石をたまたま手に入れ、害をなすようになったのか。

「しょうがないじゃないの」

 マクレーンが叫び返す。

「私のものよ、誰にもあげない! みんな嫌いよ」

 彼女の頬を涙が伝い落ちる。それを、真っ白い手が、覆い隠した。

「!」

 マクレーンの背後から、かげり一つなく白い滑らかな肌の手が、彼女を抱きしめにかかる。それは上半身は裸、下半身には布一枚をまとい、全身の肉は美しく配分されている。髪も豊かで、けれど体に張り付いて一本たりとも離れなかった。鼻と口はあったけれど、息を吐くこともない。目もなかった。

「リバンジャンの彫像が……」

 背に、大きく膨みを持って広げられた翼の女神の彫刻が、気づけばマクレーンに忍びより、ゆっくりと抱きしめようとしている。

 正義の女神リバンジャンは、不実を厭うて、人々に制裁を与える神でもある。抱きしめる行為が、愛や許しなどではなくて、抱きつぶすためであろうことは想像に難くない。

 神の時代は過ぎ去り、使いのように精霊がさざめく時代もまた過ぎ去ろうとしている今、女神が現れたわけがない。

「誰だ、誰がこの像に魔術をかけて、動かしている……」

 ベリルは慌てて、制止の呪文を唱える。喧嘩っぱやい連中を止めるために生前から使っていたこの呪文は、女神の腕の動きを一瞬だけとどめられた。ベリルはぼんやりしていた女の手を取り、思い切り引っ張る。

「えっ? なあに」

「何、じゃない! 逃げるんだ!」

「逃げて、どうするの? 私は、あの人を手に入れるために、いろんなことをやった。貴方のことも利用したわ。なぜ助けるの」

「知るか! 死にかけた人間がいたら普通助けるだろう! 助けた後のことは後で考える」

「ものすごい性善説ね。貴方の行動原理」

 理由などない、ただ、危なければ助けるだけ――。皮肉に顔をゆがめられた意味が、ベリルにはよく分からない。

「分からないので、申し訳ないが。それでも、来ないと言うのか」

 女神像が、ぐしゃりと、己の前の空間を抱きつぶす。彫像は意外にたくましい腕を持っていたようだ。ごごご、と足を持ち上げて、地面を歩き始める。

 舌打ちし、ベリルは女の腕を引っ張って走り出した。女神の動きはのっそりしていたから、距離は稼げるだろう。

 そう思っていたら、気づいたら女神の足が軽やかに動いている。彫像も、長年じっとしていて体がなまっていたのかもしれない。

(いや、いやいやいや! それはおかしい)

 今のベリルの足では、一歩で稼げる距離が圧倒的に短い。マクレーンもあまり乗り気ではないため、あっと言う間に追いつかれる。吐息がかかりそうなくらい女神の気配が近づいてきた(彫像は息をしていないようだが)。

 マクレーンが不意に意思を持って道を逸れた。藪を突き進む。ベリルも後を追いかけた。

 マクレーンがようやく振り返る。ベリルは慌てて足を止めた。気づけば、あの崖の近くに来ていた。

 彫像が近づいてくる。草の生い茂る、弱い地盤にさしかかったとき、マクレーンは突然彫像に飛びかかり、引き倒した。豹変ぶりに、ベリルはただ呆然とする。

 崖下を覗き込むと、女神の彫像は手足も砕けて四方へ飛び散り、頭も茂みの向こうへ吹っ飛んでしまっていた。もう、動き出す気配はないようだ。

「ん?」

 ベリルは違和感に眉をひそめる。女神の近くに、土を掘り返した様子が見てとれた。呪い札をくくりつけた棒がさしてある。近くには穴――まるで、それは、

「あっ」

 ベリルの背に、マクレーンの掌が触れる。

 先程の女神と同じように、強く押し出され、ベリルの体は宙を飛んだ。

 身をよじって見た、彼女は、どこか後ろめたそうで、それでいて、愉悦の笑みを浮かべていた。

「ばかな子。自分で術を使うのが負担になるのなら、魔術師を生け贄にすればいいのよ」

 何てことだ。

 ベリルは目を見開く。

 地面が近づく。

 とっさに、受け身が取りやすくなる呪文を思い出して口に乗せる。おかげで痛みはない。ただ、急に視界が暗くなった。たぶん、さっきの穴に落ちたのだ。穴が異様に深く、落下が止まるのが遅かった。

 見上げると、穴の出口がよく見えない。

 土の中の、むせるような、腐葉のにおい。

 口を押さえても、鼻を押さえても、耳を押さえても、あのときの、土の味、土のにおい、耳にも押し込まれていく冷たい、細かな砂利の重さが思い出されて、ベリルはだんだんと動けなくなる。

 あぁ、自分はまた。また、埋められるのか。嫌だが、こういうときに何の魔術が使えようか? 体が無意識に縮こまる。

 明確な殺意と悪意だけが、彼女にはあったのだ。それに気づけなかった。それはベリルの失敗だ。

(やむなし)

 腹をくくるのが早すぎて、自分でも笑えてくる。こんなにも嫌なのに、これほど、体が震えて涙が出るほど恐ろしいのに、それゆえにか、諦めるのも早くなった。

 心残りは、あの魔術師。赤く燃えるような髪、賑やかな口。いきいきとした緑の目で、ベリルの側にいてくれた。

 毎食、食事を共にして、同じ宿に泊めてもらって、生活をした。悪い人間ではない、面白い女だった。

 メリンダのことが気がかりだった。

(きっと、私に何かあったら気に病むだろう)

 心配いらない、と一筆書くようなゆとりがあればよかったのだが。

(しかし、仕方のないことだ――)

 一度死んだ身の上。じたばたすまい。これは二日の、夢だったのだ。おいしいものを食べ、人と話して、楽しかった。

(あぁ、塔のことも忘れていたな……)

 どうせ埋まるなら殺人に使われるより、塔を支えて人の役に立ちたいものだった。

「お前は!」

 急に、明晰な怒鳴り声がする。幻聴だろうか。

「何で、何で諦める!? もっと怒れ!」

 大丈夫だ、君が代わりに怒ってくれる。

 私には過ぎた幸福だった。楽しかったよ。

「諦めるなっつってるの! 手を伸ばして! ほら!」

 穴の上の方ではなくて、どこか、遠くから声は聞こえる。あの世のお迎えだろうか。

 その声は、始終怒り通しで、賑やかだった。

「やり残したことがあるだろ!? 私はお前に世を儚んで死なれたら、何もできなかった自分が許せなくなる。決めたぞ、私はお前を許さない。連れ歩いて、いろんな世界を見せてやる。絶対に、死にたくないって言わせてやる。西の、鏡みたいに平らで、山一つ分くらい広々とした湖とか、羊が山ほどいるリベラの丘とか、お前が見たこともないところを、見せてやる! プルジャンの林の匂いも知らないくせに! 黒パンにだって幾つも種類がある。スープの味付けとか、調味料の種類も知らないまま、死ぬのか? せっかく、せっかくこの私が引きずり出したんだ、このまま死に直されて、たまるか……!」

「確かに、黒パンの種類には興味がある……」

 メリンダが教えてくれたことだ。食堂の食事はおいしかった。生前は、味気ないものを食べていたのだなと、思ったものだ。

 手足に、感覚が戻ってくる。まだ、自分は、ここにいる。幽霊じゃない。

「まだ、いてもいいだろうか。望んでも、かまわないだろうか? 私は、一度、死んでいるのに……」

「わがまま言ったっていいだろ! っていうかお前はわがままが少なすぎる! 私が一緒に叶えてやる、だから、自分で、やりたいことが見つかるまで、一緒に来い」

 本当に?

 ベリルは瞬きする。闇の中、心に問う。

 このまま消えるのは、いつだって、できる。

 今ある自分は、行幸だ。それならば。

(みすみす、捨てるのは、惜しい)

 死にたくない。生前だって、死にたくはなかった。でも、諦めた。

 今回は? 諦めなくて、死ななくてすむなんてこと、あるだろうか。

「呼べ!」

 請われた。だから、ベリルは呼んだ。

「メリンダ! 助けてくれ!」

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