第7話 返礼

 部室棟の階段を上がっていると、部室から女の子の軽い笑い声がする。これは朝比奈さんの声ではない。誰だろう。


 ドアを開ける。

 珍しく制服姿のままお茶を淹れている朝比奈さんと、ふわりと揺れたカーテンの影から無表情の長門が顔を見せた。俺にコンマ二秒くらい目を合わせると膝に乗せた美術系大型本のページを繰り始める。

 次に団員ではない女子の背中と緩くウェーブした髪がかかる肩が見えた。

 部屋に漂うこの香りは久しぶりのジャスミンティーのようだ。


 入室した俺とハルヒに気がついて彼女はゆっくり頭を下げた。

 阪中佳実さかなかよしみ。このあいだの幽霊事件の依頼主だ。

 俺はそれまで知らなかったが、彼女は芦屋あしやに住む建設会社社長のお嬢さんなのだった。格差社会を思わず糾弾したくなるような邸宅に住む彼女とは、同じクラスにいながらそれまでほとんど接点がなかった。あらためて観察すれば、色白でどことなくおっとりとしていてそんな感じだった。


 初めて部室に来たときは緊張していたが、いまはごく自然にしている。俺たちも幽霊騒ぎや犬の治療で何度か自宅にお邪魔じゃましたから彼女との距離感はない。

 ハルヒは自席に向かいつつ言った。

「あれからジャン・ジャックの調子はどうなの?」

「とっても元気なの。これも長門さんのおかげね」

 長門に聞こえているはずだがこちらを見ようともしない。

「あんなかわいい犬と暮らせるなんて、ほんとにうらやましいです。……はい、どうぞ」

 朝比奈さんは犬っころを賞賛しつつ、俺の前に湯飲みを置いた。

 たしかに、あのむくむくとした小さな犬っころ――ウェストハイランド・ナントカ・テリア――と戯れる朝比奈さんの姿は実に心なごむ光景だった。

 広い緑の庭で優良血統犬と無邪気むじゃきにじゃれ合う姿は、いまも目に残っている。別れ際にとても残念そうだったのは、未来では犬を飼ってはいけない決まりでもあるんだろうか。

 俺は改めて阪中に言った。

「あのときもらったシュークリームを妹にやったら喜んでかぶりついてましたよ」

「あまり友達をお呼びすることがないので、母が張り切っちゃって」

「そこいらの洋菓子店で売ってるのより断然だんぜんおいしかったわ。こんどあたしも作り方を教えてもらいたいくらいよ」

 ハルヒの言葉を受けた阪中はパッと顔をほころばせ、カバンに手をやって封筒を取り出し、ハルヒに渡した。

「実は、そのことで母から預かってきたんです」

「あ、これシュークリームのレシピじゃない?」

「凉宮さんが本当においしそうに食べてたので、もしよかったらって」

 ハルヒは低めに見積もっても俺の二倍は食ってたな。

 阪中の年の離れたお姉さんくらいにしか見えない母親は次から次とシュークリームを焼いて持ってきてくれたっけ。あれが食べられるならもう一度、ルソー氏が体調不良になってくれてもかまわないくらいだ。


 俺も横からのぞきこむ。

 便箋びんせんに素晴らしい達筆で、材料の選定から焼き上がるまでの工程を丁寧に書いてある。最後に手書きのかわいらしい子犬のイラストが一つ。なんて素敵なお母さんだろう。俺は上流有閑夫人ゆうかんふじんの余裕を垣間見た気がした。

 俺が感想を口走るより先にハルヒが言った。

「ありがとう。阪中さん。これでこのあいだの対価はいただいたわ。十分すぎるくらい」

 と、ハルヒは珍しく普通の挨拶を返した。

「ところで、古泉はどうしたんだ?」

 ハルヒの茶碗におかわりを注いでいた朝比奈さんが顔を上げた。

「古泉くん、少し前にまたバイトだって言って帰っちゃいました」

「このところずっとだわ。キョン、古泉君が何のバイトしてんのか知らない? ブラックなバイトだったら雇用主にあたしが直々に殴り込んでやるわ」

 じゃ、自分の顔でも殴ってろよ。古泉が忙しくなるのはお前のイライラが原因だろうが。


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