最終話 真実はいつも一つとは限らない
「まず最初に言っておきます」
コナーは明らかに僕の方だけを見て、不敵な笑みを浮かべながら言った。
「大熊さんの殺人の件は、誰にでも犯行が可能デス。以前ダイさんが言っていたように、グラスに細工する時間のなかったミーやダイさんは不可能でしょうが、他の人間なら誰でもそれが可能でした。大熊さん一人を狙うのは難しいかもしれませんが、毒が付着したグラスには傷がついていたので、自分が毒入りワインを飲むことはなかったというわけデス」
「無差別殺人だったというわけだね?」
笹草刑事の問いに、コナーは頷いた。
「おいおい。じゃあ犯人を絞り込むのは無理じゃねえか。今回起きた事件で犯行が可能な人間なんていねーだろ?」
「え?」
姉華が救いを求めるように蛇睨さんの方を見た。
「だってそうだろ。犯人はダイを襲って、笹草刑事はその場に居合わせたんだ。拘束のされ方からして、ダイが自作自演をしたとも思えない。つまりこの二人に犯行は不可能。んで、オレと探偵さんもずっと一緒にいたんだから殺しは無理。残るは姉華のみだが、こいつにも犯行は不可能だ。こいつが一人で行動していた時間は妹華がオレ達に顔を見せる前だ。妹華が去ってから姉華とオレ達が合流する僅かな時間で人一人をバラバラにするのはさすがに無理だぜ」
「ところが、不可能ではないのデス。犯人はあるトリックを使って、この不可能犯罪を敢行したのデス!!」
「な、なんだってー!?」
予定調和の驚きの声があがる。
笹草刑事が緊張した面持ちで、姉華は不安そうに僕を見る。
「大丈夫だ。僕を信じろ」
およそ僕らしくない言葉だ。
だいたい、僕は姉華のことが嫌いだった。彼女を守る義理なんてない。
しかし、ここでコナーに勝つためには、姉華との信頼関係が必要不可欠だった。
こと殺人現場において、無敵とも思える金田川コナー。
それを打ち倒すために必要な布石だ。
しかし当然、それだけでは足りない。
姉華との関係以上に、僕は希望的観測という曖昧なものを信じなければならなかった。
ミステリーにおいて一番必要だとされる論理を捨てなければならないのだ。
それは僕自身の存在否定に等しい。しかしそれでも、これがコナーに打ち勝つ唯一の方法だというのなら。これがこの物語をハッピーエンドにする方法だというのなら。手段を選んでいる暇はない。
「ミーと蛇睨さんが見た妹華さんは、妹華さんではありません。あれは姉華さん、あなたデス!」
びしりと指さされ、姉華は青ざめる。
笹草刑事が即座に反論した。
「だけど、君達はそれが妹華さんだとその時は思ったんだよね。ほくろの有無をちゃんと確認したと蛇睨さんは言っていたけど?」
コナーはチッチと人差し指を左右に揺らした。
「ほくろくらい、いくらでも工作できます。姉華さんはつけぼくろをつけてミー達の前に現れ、自分を妹華さんだと偽ったのデス。妹華さんが死亡したのは八時以降だと思わせるためにね」
「八時以降……。ってことは、本当は八時よりも前。つまり変哲無よりも先に妹華が殺されてたってことか?」
「そういうことデス。それならミーと蛇睨さん以外は誰にでも犯行は可能。そして妹華さんと偽って我々を騙せた人間は──」
「ちょっと待ってくれ」
改めて犯人を指摘しようとするコナーに、僕は待ったをかけた。
「姉華。お前は本当にこれでいいのか?」
「え?」
「本当に、これが正しい結末だと思っているのか?」
姉華は僕の問いに困惑している。
そしてその困惑は、演技でもなんでもない。
当然だ。打ち合わせも何もしていないのだから。
「コナーも、本当にそれでいいのか?」
「何を言ってるんデスか? それでいいも何も、これ以外に解は存在しませんよ。真実はいつも──」
「一つとは限らない」
僕は彼女の言葉を遮ってそう言った。
コナーは目を細める。
自身の推理に口を挟まれることを何よりも嫌う彼女が、敵意にも似た非難の目を僕に向けている。
……できるのか?
僕は頬を伝う冷や汗を感じつつ、心の中で自問した。
これは論理で構築した推理ではない。
金田川コナーという異次元の怪物。無実の人間を次々と屠って来た化け物。自己承認欲求のために全てを踏みにじって来た悪魔の、その良心を信じるということだ。
到底、僕にできることではない。僕の領分を超えている。
しかしきっと、この場にジョーさんがいたのなら、この選択をするはずだ。
口汚く罵りながらも、人間というものを信じている彼女なら。
僕は目を瞑って大きく深呼吸し、コナーを睨んだ。
やるんだ。
ジョーさんの代わりに、僕がこの物語をハッピーエンドにしてみせる!
「いいでしょう。そこまで言うのなら、ダイさんの推理とやらを聞いてみましょう」
コナーの不敵な笑みを確認し、僕は皆を見回してから言った。
「だいたい、おかしいと思いませんか? オーエンの目的は僕達を皆殺しにすることだったはずです。なのにせっかく拘束した僕を殺さずに逃走した。変哲無さんをバラバラにしようとする暇があるなら、さっさと僕を殺しておけばよかったんだ。なのにそれをしなかったのは、犯人にとってそっちの方が都合がよかったからです」
「つまり、ダイ君はアリバイ工作に利用された、と?」
笹草刑事の問いに、僕は頷いた。
「ちょっと待て。変哲無が死んだ時間のアリバイがないのは姉華だけだったはずだ。それが犯人のアリバイ工作だって言うなら、犯人は意図的に姉華をハメようとしたってことになる」
「そうなりますね」
「そんなこと可能なのか? オレと探偵さんが一緒だったのは推測できるとしても、三人で行動していた妹華が単独で動くなんて普通は予想できねえ。そうなったら罪を擦り付けられるのは笹草刑事だけだが、それならあんな場所で犯行を行うわけがねえ」
笹草刑事が探索すると言っていた二階で、変哲無さんは殺された。
僕の口を封じていなかったことからして、大声で助けを呼ばれることは想像してしかるべきだ。その声に誘われやすいのは、必然その近くにいた笹草刑事になる。
つまり蛇睨さんはこう言いたいのだ。
誰かを意図的にハメるにしては、容疑者の行動が未確定過ぎると。
「妹華と姉華が離れたのはたまたま。仮にそれが意図的なものだったとしても、それを引き起こせるのは姉華だけだ。だが姉華がお前の言ったアリバイ工作をするはずがねえ。その時間帯、姉華にはアリバイがないんだからな」
「ま、そうですね」
「そうですねって、じゃあお前の推理は空論ってことに──」
「なりませんよ。確かに蛇睨さんの言うように、妹華と姉華が単独行動するなんて普通は考えられない。アリバイ工作にしてはあまりにも大きな不確定要素だ。しかしこれを確定要素にできる人間が一人だけいます」
「誰だよ」
「さっき蛇睨さんも言っていたじゃありませんか。姉華本人ですよ」
全員が驚愕する。
しかし一番驚いているのは姉華本人だろう。
今までさりげないフォローをいれてくれていた笹草刑事が、慌てて制止した。
「待ってくれ。それは一体どういうことだい? 君は姉華君が犯人じゃないと言いたかったんじゃなかったの?」
「僕はそんなこと一言も言っていない。コナーの推理に異議を申し立てただけです」
「……犯人は姉華君なのかい?」
「手を汚し、トリックを仕掛けた人間を犯人と定義付けるのならそうです」
彼は混乱しているらしい。
自分の髪をくしゃりと掴み、地面に目を落として首を振っている。
「分からない……。まったく分からない。じゃあどうして異議を?」
「いや、それより聞くことがあんだろ。こいつの言うことを全部真に受けるなら、姉華は自分を犯人にするためにアリバイ工作したってことになるんだぞ」
「そうです。犯人は姉華。そして彼女は、自分を犯人に仕立て上げるためにアリバイ工作を施した。これがこの事件の真相です」
全員が息を飲み、まじまじと僕を見つめている。
しかしそれも当然だろう。言葉尻だけを捉えれば、矛盾も甚だしい。
「んなもん、信じられるわけねえだろ。どこに自分を犯人にしたがる奴がいるんだよ。そんなことする理由がねえ」
「理由ならあります。大切な人を守るためです」
「大切? 一体誰を……」
「妹華ですよ」
一瞬だけ、沈黙が流れた。
「……何言ってんだ? 妹華は死んだだろ」
「いいえ、死んでいません。彼女は生きています」
全員がぽかんとしている。
先ほどまでは混乱や驚愕の感情が大きいようだったが、今は完全に呆れ果てている。
「あのなぁ。オレ達は妹華の死体を見ただろ」
「いいえ。ちゃんと確認したのは姉華だけです。死体を目撃した時、全員を振り払って姉華だけが死体に縋りつきました。妹華の服を着せれば偽装は可能です」
「でも実際に死体が……」
「死体は燃えました。証拠はありません」
全員が黙り込む。
どうやら僕の推理が現実に起こり得るということに気付いてくれたようだ。
「……つまり、これは姉妹で行われた狂言殺人ということ?」
「正確には死体偽装ですね。別人の死体を妹華の死体に見せかけたというわけです」
「じゃあなにか? オレ達をこの屋敷に招待したのは、訳の分からねえ連続殺人を見せつけて、挙句姉に罪を着せてトンズラこくためだってのか? そしてそれを姉華も承諾した? ふざけるのも大概にしろ!」
「ふざけていません。そして蛇睨さんは間違っています。僕達をここに招待したのはオーエンです。姉華と妹華ではありません」
「……また訳の分からねえことを。人を殺して回ってるのはオレ達をここに呼び出したオーエンだろ!? なのに犯人である姉華がオーエンじゃねえってのはどういうことだ!」
蛇睨さんは興奮している。
僕はあくまでも冷静に言った。
「彼女がオーエンではない可能性はないと?」
「そうだろ、普通に考えりゃ。この屋敷にはオレ達以外に誰もいない。今回の犯人が姉華なら、オレ達を招待して皆殺しにしようとしてるオーエンも姉華だ。それ以外に誰がいるってんだ」
「一人だけいますよ。オーエンである可能性のある人物が」
蛇睨さんが目を細めた。
「んなもん、どこにいるんだよ」
「この屋敷は昔、殺人事件が起きたらしいですね。高名な小説家が乱心を起こし、妻を殺して自殺した。彼らの娘は今も行方不明で、僕達をこの屋敷に招待したオーエンは、警察さえも見逃した彼女の死体がここにあると明言していた」
蛇睨さんが困惑したように首を振る。
「お前は何が言いたいんだ? 一体それがどうしたんだよ」
「まだ分かりませんか? この場所には僕達しかいない。それはこの場所にやって来た人間が存在しないからです。しかし一人だけ、やって来る必要のない人間がいるんです」
僕は言った。
「屋敷で殺されたと言われている娘。彼女は生きています」
全員が唖然とした。
「そして彼女こそが僕達をここへ呼んだK.C.オーエンであり、僕達を皆殺しにしようとしていた真の犯人です」
途端に、蛇睨さんが制止の声をあげた。
「ちょ、ちょっと待てよ! そんなことありえねえ! 一家惨殺事件だって十年以上も前の話だぞ!?」
「地下の貯蔵庫に食料が大量に置いてある部屋がいくつもありました。あそこの広さを考えれば、それくらい持っても不思議ではありません」
「そんなことをする理由がねえ! 両親が死んだときに何でわざわざ雲隠れする必要がある!」
「そんなことを言えば、何故僕達を殺して回るのか、という根本的なところから議論しなければいけませんよ。答えは一つ。狂ってしまったから。おそらく、両親が死ぬところを目の当たりにして、下界に対する恐怖心が極限にまで達し、地下に籠っていたのでしょう。そしてあんな場所に何年もいれば、精神が崩壊してもおかしくない」
蛇睨さんは反論こそできないようだが、納得していないようだ。
僕だってそうだ。いくらなんでも、犯人の動機を『狂ったから』の一言で済ますのは、作家としてどうかと思う。
「じゃあこの屋敷の持ち主は? そのことを知ってるのかい?」
「分かりません。しかしオーエンが僕達に手紙を送ってきたということは、少なからず外界との接触があったのでしょう。屋敷のどこかに隠し金庫があり、少なくない現金を所持していたのなら単独での犯行は可能です。島の持ち主がその娘だという可能性も比較的高いでしょう」
笹草刑事は顎に手をやって考えている。
「……確かに、可能性がないとは言えない。でも、仮にオーエンがその娘だったとして、今回の事件はどうなるんだい?」
「まず大熊さん殺害の件ですが、これは他の人の目を盗んで毒を盛るだけで可能です。グラスに傷があったということですが、おそらくそれは僕達の中に犯人がいることを強調するためのブラフでしょう。そして問題の連続殺人の件ですが……」
「いやちょっと待て! それだと理屈に合わねえぞ!!」
蛇睨さんが突然待ったをかけた。
「お前は確か、地下の保冷庫で娘の死体を見たと言ってたじゃねえか。つまり、その時点でオーエンは死んでいる。犯行は不可能だ」
「あれはオーエンの死体じゃありません」
「じゃあ誰の死体なんだよ。この屋敷には娘とオレ達以外の人間はいないって話だったよな? お前の言う通りなら、第三者の死体がここで浮上することになるぞ」
「第三者じゃありませんよ。僕が見た死体……正確には足の一部分ですが、あれはオーエンではなく変哲無さんです」
「は?」
「あの段階で、既に変哲無さんは死んでいた。僕が拘束され見せられたのは変哲無さん殺害のシーンではなく、変哲無さんの死体を解体するシーンだったのです」
まったく。
こんな手垢のついたトリックをドヤ顔で語らなければならないとは、何とも恥ずかしい話だ。
「待てよ……。さっぱり訳が分からねえ。一体どうなったらそんな状況になるんだ?」
「簡単です。オーエンは失敗したんですよ。変哲無さんと姉華と妹華。この三人グループを殺そうとしてね」
「失敗……?」
「ええ。その時変哲無さんだけがオーエンに殺され、その隙に姉華と妹華がオーエンを返り討ちにした」
「返り討ち? オーエンを殺したっていうことかい?」
僕は頷いた。
「問題なのはそこからです。その場には見知らぬ遺体と変哲無さんの刺殺体。これを見て、僕達はどう思うでしょうか。オーエンに言われ、この場所には娘の死体が隠されていると思い込まされている僕達は」
笹草刑事がパチンと指を鳴らした。
「そうか! 彼女達は変哲無さん殺しの疑惑を掛けられることを恐れたんだね!」
「恐れたって……実際に殺してねえんだから、そう言えばいいじゃねえか。それが信用されなくても、警察の捜査で明らかになるんじゃねえの?」
「ところが、そうはならないんです。正確に言うと、彼女たちはそう思えないんですよ」
全員がぴんときていないようだ。
僕は続けた。
「何故ならこの場所には、警察よりも優れ、警察よりも発言力のある名探偵が存在するからです」
全員の視線が、コナーへと向けられた。
コナーはじっと僕を見つめている。
「名探偵に犯行を指摘された人間は、誰であろうと自殺する運命にある。それは彼女が披露する推理を目の当たりにした僕達なら全員が理解しているはずです」
蛇睨さんと姉華が押し黙る。
仮にそれを異常だと理解していなくても、その根源的な恐怖は感じているはずだ。
ミステリー小説において、優れたトリックには論理が必要だが、優れた動機に必要なのは理屈ではなく共感だ。
恐怖感さえ共有できれば、彼女たちの動機も納得できる。
「姉華も妹華も、それを恐れたんです。名探偵が誤った真相にたどり着くはずがない。しかし彼女達は、それを信じることができなかった。だから妥協策を講じたのです」
「妥協策……?」
「このままでは二人とも死ぬ可能性がある。なら、どちらか一人が生き残ればいい。彼女達はそう考えたんですよ」
僕は事のあらましを説明するために口を開いた。
「彼女達は最初、死体を隠そうとしたんでしょう。おそらく衝動的な行動で、その後どうするかなどは考えていなかったはずです。ひとまず彼女達の死体をどこかに隠し、そこから今後のことを考えようと思っていた矢先に、地下の階段を見つけた。もちろん、僕よりも早くです。隠し階段を出現させてからそれを見つけるまで、しばらく時間が掛かりましたからね。
それを見て死体を隠すにはちょうどいいと考えた二人は、変哲無さんの死体を抱えて地下へと潜り、死体を隠すことのできる保冷庫を見つけた。そこで初めて、彼女たちは死体入れ替えトリックを思いついたんです。
今まで存在しなかった地下への階段が現れたということは、当然それを探し当てた者がいる。そしてそれが僕であることも、彼女達は予測できたでしょう。僕が一階を探すと言っていたのは地下の入り口に見当がついていたからだと考えられるし、笹草刑事は二階にいて、コナーと蛇睨さんはそもそも探索することすらしていないでしょうからね」
僕は喋りながら、自分の理屈に穴が無いかと頭を働かせていた。
僕は金田川コナーではないし、ましてや正しいことが確約されている名探偵という便利な存在などでもない。
間違っている可能性は、たとえ誰もが納得した推理を披露した後でも確かに存在する。そしてそれが間違っていることは、間違いなく正しいのだ。
ジョーさんは名探偵なんて自己承認欲求の塊だと揶揄していたが、こんなプレッシャーの中、それをものともせず自信たっぷりに推理してみせる探偵達を、僕は心の底から尊敬する。
「この事件のポイントは、いかに犯行を隠すかではなく、いかに犯人を姉華に絞るかにあった。彼女達は、他の誰かに罪を着せることを良しとしなかったのです。だから犯人に疑われそうな人間……、つまり単独行動している人間のアリバイを、犯人側が意図的に成立させる必要があった。それが僕であり、笹草刑事です。
僕が地下に来たことを確認すると、彼女たちはまず二手に分かれた。一人は僕を追いかけ、保冷庫のある場所へ誘導する役。もう一人はその部屋の中で待機し、僕が変哲無さんの遺体の一部を確認してから気絶させる役です。そうしてうまく事を運び、笹草刑事が探索している二階の部屋で、変哲無さんの解体ショーをやってのけた。僕が叫び声をあげて笹草刑事を呼べば、単独行動している僕達のアリバイを成立させることができますからね。そうして僕と笹草刑事のアリバイを作ってから、妹華は最後の仕上げに向かった。オーエンの死体を使った、偽装トリックです。
オーエンの死体をバラバラにし、身体的特徴を分かりにくくすることで、オーエンを自分自身に偽装したのです。姉華が狂乱するフリをして顔を抱きかかえれば、その判別は僕達には不可能でしょう。火をつけておいたのも、後で死体を確認されないためです。しかし妹華は一つミスを犯した。コナーと蛇睨さんにその姿を目撃されてしまったことです。そのおかげで姉華にもアリバイができてしまい、一見すると誰にも犯行不可能な事件になってしまった」
「……じゃあ、妹華さんは一体どこに……?」
「見つかる可能性を考えれば、外にいる確率が高いでしょう。数日の雨風なら、姉華のフォローがあれば耐えられると踏んだのかもしれません」
全員が、どう反応したものか判断しかねている様子だった。
姉華はもちろんのこと、僕のサポートに回ると宣言してくれた笹草刑事でさえ、この推理を肯定することがどういう結果を齎(もたら)すのか、まるで分からない様子だった。
「根拠は?」
その中で、蛇睨さんが言った。
「お前の話に一定の筋が通っていることは認める。だが根拠はなんだ? それが真実だと示す証拠は? それがなけりゃ、空想と同じだ」
「空想で構いません」
蛇睨さんの眉が吊り上がった。
「蛇睨さん。これは解釈の問題です。真実は一つとは限らない。この世には、証拠によって確定された真実などほとんど存在しないんです。物事に解釈の幅があるからこそ、裁判というものが生まれる。だから僕は、姉華に情状酌量の余地がある可能性を語っているんです」
笹草刑事が補足するように口を開いた。
「日本の法律は推定無罪が原則だ。その仮説が存在し、それを完全に否定できない以上、彼女をただの殺人犯として裁く権利はない」
「そうです。だから僕達は、それを裁く権利のある者に全てを委ねる」
僕はコナーを見た。
難しい顔で僕を見つめる彼女が何を考えているのか、僕には分からない。
しかしそれでも信じると決めたのだ。
自分勝手に人を裁き続けてきた、この裁判官を。
「コナー。君の推理は正しい。でも僕の推理も、等しく正しいはずだ。真実がどちらか。選ぶのは名探偵である君だ」
名探偵。
それは法律よりも尊い全知全能の存在。
名探偵の推理は全て正しく、名探偵が否定したものは全てが間違っている。
だからこそ、名探偵の推理を否定できるのも、また名探偵のみだ。
「彼女達の行動は哀れな行為なのかもしれない。だが、それほどまでして妹を守ろうとする彼女を僕は尊敬する。そしてその意志を守ることができたなら、きっともう、お前は一人にはならないはずだ」
ぴくりと、彼女の指が震えた。
「名探偵でも、孤独にならないで済む方法はある。お前はどっちを選ぶんだ? 悪を断罪して今まで通りの孤独な人生を歩むのか。それとも、善意を信じて誰かと共に歩む人生を送るのか」
短い間だったが、彼女と付き合ってみてよく分かった。
彼女は僕とは違う。人に愛される心根を持っている。
たとえ名探偵でなくても、誰かに認められる存在になれるのだ。
それを自分自身が認められさえすれば、きっと彼女は幸せになれる。
「……ミーは……」
僕はぎゅっと握り拳を作った。
コナーはゆっくりと姉華の方へと歩いていく。
姉華は困惑したように彼女を見上げている。
ふいに、コナーは彼女の腕を掴んだ。
その時だ。
急に姉華が叫び声をあげ始めた。
「な、なんだ!?」
「痛い!! 痛い!!」
コナーが掴んだ腕。その服の内側からじんわりと血がにじみ出るのを見て、姉華の言っている意味がようやく理解できた。
「な、なんで!? きゅ、急に……痛い……痛い!!」
急に?
僕はコナーを見た。
にんまりと笑う彼女の目が、ぎょろぎょろと蠢いている。
「おやおや。興奮していて自分で気付かなかったのデスか? 犯行の際に傷ついたこの腕に」
姉華の袖を破り捨てると、そこから現れたのは刃物による痛々しい傷だった。
肩から肘にかけて、ぱっくりと開いた切り傷が顔を出している。
心臓が早鐘を打つ。
姉華は蹲り、腕を抑えながら泣いている。
「この傷は明らかに包丁のような日用品によるものではありません。おそらくは犯行に使われた鉈の傷でしょう。ダイさんの推理では遺体をバラバラにしたのは妹華さんでしたね。つまりその場合、彼女が鉈による怪我をする余地はなかったことになります」
間違っていた。
僕は思わず、その場に崩れ落ちた。
間違っていた間違っていた間違っていた!
全て間違いだったんだ。
彼女は孤独を恐れてなどいない。彼女は友達を欲してなどいない。
彼女の目的を、僕は計り間違った。
「どうしたんデスか、ダイさん」
優しい声で、コナーは囁く。
それはまさに勝利を確信した声だった。
今思えば、おかしな部分はあった。
あの黒ずくめの男が地下に現れた理由は、本来ならコナーの推理を確実なものにするためだ。しかし奴がやったことと言えば、死体を隠したことだけ。
そして変哲無さん殺しを僕に見せつけたことも、コナーが推理に使うことはなかった。まるで不必要な出来事だったのだ。ならば必然、そこには別の目的があったと考えるべきだ。
僕をハメるという、ただそれだけの目的が。
僕は結論を急ぎ過ぎた。
熟考することをせず、早急に答えを導こうとしてしまった。
ここに出て来る登場人物は全員切り捨てる。そのつもりで挑んだはずだったのに、いつの間にやら、僕はそれを拒否してしまっていたのだ。
感情に溺れた結果、僕は全てを失敗してしまった。
「自分の推理が間違っていたことが、そんなに悲しいのデスか? しかし仕方がありません。あなたはただの助手で、ミーは名探偵なのデスから」
「……放っておいてくれ」
「嫌デス。だってダイさんはミーの助手デスよ?」
なんなんだ。
孤独を恐れないのなら、何故そこまで僕に拘る。何故そこまで僕に自分を認めさせたがる。
それだけじゃない。
こんな大がかりな場所をセッティングする意味だって……。
その時だ。
突然どこからか爆音が響いた。
「な、なんだ!?」
冷静なコナーが、姉華を見つめた。
「やってくれましたね。犯行がばれたので、自分もろとも粉みじんにするつもりデスか」
「あ……あ……」
痛みと恐怖からか、姉華はもはや廃人同然だった。
「早く逃げましょう」
コナーが僕の腕をとる。
僕はそれを振り払った。
僕は下を向き、彼女は冷めた目で僕を見ている。
これが勝者と敗者の差なのか。
こんなみじめな気分を味わったのは、生まれて初めてだった。
「……コナー君。ダイ君は僕が連れて行く」
笹草刑事が優しく僕の腕を取ってくれた。
僕はされるがままに立ち上がる。
「早くしないと生き埋めになりますよ!!」
慌てて蛇睨さんが部屋を出て、コナーもそれに続く。僕と笹草刑事もゆっくりと彼らの後を追い……
「駄目だ」
「え?」
「姉華を置いていくことはできない」
姉華がこうなったのも僕のせいだ。
せめて、最後まで彼女を助けることを諦めてはならない。
「僕は大丈夫です。笹草刑事、先に行ってください」
僕は笹草刑事から離れた。
彼は数歩だけ下がり、その場で待機している。
下手を打った僕を、まだ心配してくれているのか。
僕は込み上げてくる感情を抑えつけ、姉華の前で膝をついた。
彼女は僕に気付いていないらしく、ぽろぽろと涙を流しながら笑っている。
「姉華」
「あ、あはは。血が……血が……」
「姉華、聞いてくれ」
僕は彼女の肩を掴んだ。
ようやく目が僕の方を向いた。
「君が誰よりも妹のことを愛していたことは、僕が知っている。誰が疑おうと、僕だけはそれを忘れない。だから……お願いだ。妹華のためにも、君も最後まであきらめないでくれ」
曇っていた目に、徐々に光が灯り始める。
笑みを浮かべて固まっていた表情が、徐々に柔らかくなっていく。
「…………私」
その時、天井の一部が崩れ、その巨大ながれきが彼女の真上から落下した。
目の前の視界に映っていた姉華が瞬時に岩へと切り替わり、血が周囲に飛び散った。
もはや言葉もでなかった。
岩に押しつぶされた姉華は、腕だけになってそこにあった。
こんな理不尽があっていいのか? こんな理不尽が、この物語の結末で良いというのか?
「ダイ君!! 早くしないと本当に生き埋めになってしまう!!」
笹草刑事に無理やり引っ張られる形で、僕達は部屋から飛び出した。
上から降って来る瓦礫に気をつけながら出口へと向かう。
「あとちょっとだ! しっかり歩いて!!」
足が縺れそうになる度に、笹草刑事は僕を引っ張った。
全てを諦めたくなる時、まるで僕の心を読んでいるかのように、彼は僕を引っ張った。
「生きるんだ。まだ終わりじゃない。生きるんだ。生きるんだ!!」
何度も何度も激励をかけ、決して歩を緩めない笹草刑事が、突然ぴたりと止まった。
顔を上げると、廊下に隣接した部屋の入り口から轟々と火が吹き出している様子が確認できた。
徐々に激しくなる建物の振動具合からして、迂回している時間はない。
僕が逡巡する暇もなく、笹草刑事は自分の上着を僕にかぶせたかと思うと、すぐさま僕を抱えるようにして火の中へと突進した。
絶望感で頭が回らない僕は、笹草刑事にされるがままだった。火が吹き出している部屋がある方に笹草刑事がいて、僕を守る壁になってくれているなんて、咄嗟に考えられなかった。
燃え盛る炎の中を突っ切ると、すぐに笹草刑事の悲鳴が耳を劈(つんざ)いた。
火だるまのように燃えている笹草刑事を、僕は茫然と見つめることしかできなかった。
火に包まれながらも暴れていた彼が徐々に動かなくなるのを見て、ようやく足が動く。
彼に駆け寄ろうとした時、はたと腕を掴まれた。
「なにしてるんデスか?」
コナーだ。
きめ細やかな肌。美しく煌めく髪。
人の美醜に頓着しない僕でも、彼女は心底美しいと思う。
しかしその美しさが、今の僕にはあまりにも恐ろしかった。
「さ、笹草刑事が……」
まるで駄々をこねる子供のようだと、僕自身思った。
そしてコナーは、そんな子供の無邪気な我が儘(まま)を冷酷に切り捨てる母親のように首を振った。
「彼はもう助かりません。早く行きましょう」
そう言って、彼女は強引に僕を引っ張って歩いた。
笹草刑事と同じようでまったく違う。
僕を後押しするためではなく、自分についてこさせるための、我欲に満ちたものだった。
「おい! 早く来い!! もう出口はすぐだ!!」
先んじていた蛇睨さんの声が聞こえる。
その言葉通り、彼の目の前には出口があった。
そこから差し込む光が、既に嵐は去っていることを教えてくれている。
蛇睨さんは一気に出口を駆け抜け、青空が広がる天を仰いだ。
「生きた……生き延びたああああ!!」
心の底から出た歓喜の叫び声だった。
蛇睨さんが、笑みを浮かべてこちらを見つめる。
ドスッ
そんな音がして、蛇睨さんは下を見た。
「……え?」
うなじから腹へと突き刺さった避雷針を見て、思わずそう呟く。
ごぷりと、口から大量の血が漏れ出た。
「マジ……かよ……」
蛇睨さんは薄笑いを浮かべたままがくりと頭を垂れ、そのまま動かなくなった。
コナーは僕を連れたまま屋敷を出て、蛇睨さんの死体を素通りした。
僕がそれを見て立ち止まろうとする度に、千切れるかと思うほどの力で腕を引っ張られる。
屋敷が倒壊していく中でも、コナーは背後を振り返ることなく歩き続ける。
一気に瓦解し、蛇睨さんをも飲み込んで瓦礫になっても、コナーは後ろを見なかった。
僕は堪らずコナーの腕を振り払った。
彼女がこちらを見つめる。
じっと、ただこちらを見つめている。
「もううんざりだ」
僕が一歩後ろに下がると、彼女は一歩前へ進んだ。
「なんデスって?」
「もううんざりだって言ってるんだ!!」
一歩、二歩と下がっても、彼女は同じ距離を保ったままついて来る。
「それ以上下がると落ちますよ?」
そう言われて、僕の後ろが崖になっていることに初めて気づいた。
遥か真下では波が崖を打ちつけている。落ちれば一溜まりもないことは嫌でも理解できた。
まるで火サスのラストシーンだと、他人事のように思った。
「ダイさんはミーの助手じゃないデスか。なんでそんなこと言うんデス?」
「君が勝手に任命しただけだ!! 君のせいで、何人の罪もない人間が死んだと思ってる!」
「何を言ってるのか分かりません。犯人は──」
「姉華が犯人なわけないだろ! あんな妹思いの奴が!!」
コナーはじっと僕を見ている。
「もういいじゃありませんか。全て終わったことデス。おかしいデスよ、ダイさん。あなたはこんなことで動揺する人じゃなかったはずデス」
ゆっくりと、彼女は近づいて来る。
「誰がどうなろうと知ったことじゃない。自分が良ければそれでいい。あなたもミーと同じデス。そうでしょ?」
同じ……?
ああ、そうか。
僕が彼女を計り間違えたように、彼女もまた、僕を計り間違えていたのだ。
「……僕の中にある一番古い記憶は、ある人の泣き声だった」
ぴたりと、コナーは足を止めた。
「苦しくて、辛くて、でも誰もそれを分かってくれなくて。自分を否定してばかりだった。本当は誰よりも自分を認めてあげたいのに、それができなかった。だから……だからせめて僕一人は、その人を好きになってやろうと決めた。僕一人は、その人の味方になって、助けてあげようって」
「……どうしてそんな話するんデス?」
「僕は一人じゃない。どうしようもない人間かもしれないけど、そんな僕をまともにしてくれる人がいる。だから僕は……君とは違う」
コナーは歯噛みした。
初めて見る。彼女の美しい顔が、みるみる醜悪な憎悪の顔へと変わっていく。
「ダイさんは分かってくれると思ったのに。ミーのこと一番に考えてくれると思ったのに!!」
その金切り声は、もはや人間の声とは思えなかった。
悲鳴でも怒声でもない。
ホラー映画に出て来る怨霊のそれだ。
「ダイさんはミーの助手でしょ!? ワトスン役でしょ!? なんでミーを不安にするんデス!? ミーのことだけ見てればいいのになんで!?」
彼女は肩で息をしていた。
その一言一言に、自分の持つエネルギー全てを乗せて放っていた。
このシーンだけを見れば、どっちが優勢だか分かったものじゃない。
「ふふ」
ふいに、コナーが笑った。
「ふふ。ふふふ。フフフフフフフ」
不気味な笑い声が辺りに響く。
「……コナー?」
僕は恐怖を感じながらも、彼女を呼んだ。
「さっき、ダイさんは姉華さんが犯人ではない、と言いましたね」
顔を上げたコナーの目は、今まで見たことがなかった。
怪物の瞳ではなく、いつもの彼女の瞳でもない。目の前にあるものを見ようとしない、笑点の合わない人形のような目だった。
「……ああ、そうだ」
「その通りデス」
「は?」
「ダイさんの言う通りデス。ミーがさっきしてみせたあの推理も、全部嘘なんデス」
僕は唖然とした。
「……嘘?」
「はい。嘘デス」
あっけらかんと、彼女はそう言った。
何を企んでいるのだろうか。
自分の推理を一度否定するなんて……、いや、否定じゃないのか。最初から方便だったと言えばまかり通るのは、カフェで僕が彼女を嵌めようとした時にもしてみせたことだ。
「こんな爆弾まで用意していたのは想定外でしたが、おかげでダイさんの身の潔白は証明できたので、良しとしましょう」
なんだ?
何を言ってるんだ、彼女は?
コナーの考えていることが全く読めない。
これから何をしようとしているのか、まったく分からない。
「ミーとダイさんが示した推理には大きな穴があります。いや、抜け道と言った方がいいかもしれません。あの二つのトリック以外にも、彼らを殺す方法があるんデス」
「何を……」
「ミーもダイさんも、アリバイを重要視してきましたよね。あの時の行動にはこんな解釈ができる。あの時間、犯行は不可能だからこの人は犯人ではない、と。しかしいるではありませんか。アリバイに縛られず、あの二人をいとも簡単に殺すことができる人間が」
にこりと、コナーは笑う。
「もちろん、娘が生きていた、なんてトリックじゃありませんよ」
僕は眉をひそめた。
あの状況を作り出す別の推理は、時間を掛けて考えれば構築できるだろう。
しかしアリバイにも縛られずに犯行を犯すことのできる人間なんて、存在するはずがない。
「最初のワインでの毒殺。変哲無さんと妹華さんの惨殺事件。全てとある可能性を除いた推理だったことに、ダイさんは気付いていましたか?」
とある可能性を除く?
……まさか。
「最初のワインでの毒殺。そこにトリックが使われたと皆さんが思ったのは、あのままでは犯人すら死ぬ可能性があったから。しかし、そこに犯人がいなかったら? バラバラ事件が起きて、皆さんのアリバイが証明されました。だからトリックが使われたとミーたちは思いました。しかし、アリバイを証明していない人物が犯人だったら? 死体の数は決まっていて、屋敷にいる人数も決まっていた。しかしそれが、本当は決まっていなかったとしたら?」
「……おい。まさか君は」
「そのまさかデスよ、ダイさん。犯人は容疑者の中にいなかったんデス。ミー達の中にもいないし、この場所で死んだとされる娘でもないんデス。だからこんな複雑怪奇な事件が起きたのデス」
こいつはつくづくミステリーの定番を外すつもりらしい。
容疑者の外から犯人を持ってくるだって? まったくもって馬鹿げてる。
「ここは私有地で、島の主であろうと来れなかったはずだ」
「それって、フェリーに乗せてくれたここの管理人の話デスよね。その話、アテになりますか? 自分の管理不足を露呈することになるんデスから、嘘でもちゃんと見ていたと言うに決まっています。だいたい、島の主ですらっていう前提自体がおかしいんデスよ」
確かに。
いや、本来なら僕だって疑問に思った。でもこれはコナーの能力によって形成されたクローズドサークルだ。てっきりこれも舞台設定の一つだと思っていたが……。
「……確かに、そういう解釈もできる。だがそれだと犯人が絞れない。誰もが犯行可能ということになる」
「いいえ。ちゃんと絞れますよ。犯人となり得る人間を、たった一人にね」
「……そんなの、一体どうやって──」
「時にダイさん」
コナーの声色が急に柔らかくなった。
「あなたは今、安アパートに住んでいますよね」
「……ああ、そうだけど」
「自宅の住所って、出版社の方で誰か知ってる人はいますか?」
「前に言っただろ。担当編集とは喧嘩別れしたんだ。デビューした時は在学中で自宅暮らしだった。まだ越してきて日は浅いし、知っているはずがない」
「へぇ。じゃ、自宅の住所を誰かに教えましたか?」
「それも前に言っただろ。僕は友達もいないし、家族にも──」
僕の言葉は途中で途切れた。
コナーはそれを見て、にんまりと笑う。
「おやぁ? おかしいデスね。オーエンさんからの招待状、確かあなたの家の新聞受けに入っていたんデスよね?」
ぞっとした。
屋敷の地下での出来事なんかかわいく思えるくらいの戦慄が、僕を襲った。
「待て。おかしい。それはおかしい!」
頭がグラグラする。
考えがまとまらない。
論理的に反論したいのに、おかしいという言葉しか出てこない。
「ずっと家に引きこもっていて、編集者とも喧嘩別れしていて、友達もいないあなたに、一体誰が招待状を送れたのでしょう。あ、そうだ。一人だけいますねぇ。うってつけの人物が、一人だけ」
「姉華の腕にあった鉈の傷はなんなんだ! 君の推理と矛盾する!」
「どこかで他の鉈を触って怪我したんでしょう。あの傷が凶器に使われた鉈と同一のものか確かめたんデスか?」
そっちが作り出した証拠だろうが……!
僕は罵倒したい気持ちを抑えて必死に頭を働かせた。
「だったら僕の推理を否定する材料がない! 殺されたと言われている娘が生きていて今回の事件を引き起こした。この可能性を否定できない以上、どんな推理も無効だ!!」
「それ、間違ってますよ」
「だから、そんなこと誰にも──」
「何故なら、その娘というのはミーのことだからデス」
僕は愕然とした。
その可能性は考えなかったわけじゃない。しかし、こんなところで使われるものだとは思っていなかった。
「訳あって警察にはミーの存在を隠してもらっていたんデスよ。それで行方不明ということになっていたんデス。ミーの保険証にはちゃんと本名が記載されていますよ」
そう言って、彼女はひらひらと自分の保険証を見せつける。
これで僕は決定的矛盾を突き付けられた。
全てこのためだったのか。
事件を何通りもの解釈ができるようにして僕を嵌めたのも、娘の死体を探させたのも、全てこれを実現させるための……!!
「だったら僕が見た保冷庫の死体はどうなる!」
「それはダイさんがご自分で仰ったじゃありませんか。変哲無さんの死体だと」
僕は口ごもった。
まずい。
彼女は事実の解釈なら証拠をねつ造することでいくらでも捻じ曲げることができる。決定的な矛盾がないと、彼女を止めることができないのだ。
「つ・ま・り。最初から死体なんてないし、当然娘が犯人ということもありえないわけデス。それを許したら、同じ人間が二か所に存在することになるじゃないデスか。さすがの名探偵でも、それを可能にするトリックなんて思いつきませんよ」
コナーはけらけらと笑っている。
あの黒ずくめの男をひっ捕まえて、コナーの前に叩きつけてやりたい気分だ。
「ありえない。それでもありえ──」
「いい加減認めてくださいよ! 今回の犯行が可能なのはただ一人。あなたが大好きなジョーさんだけだってね!!!」
……言った。
言ってしまった。
これでジョーさんは、正式にコナーの呪いの範疇に……、容疑者になってしまった。
「……でも、考えられないじゃないか。ジョーさんが、そんなことをする動機なんて……ないわけだし……」
「動機ならありますよ」
「え?」
どうせ適当にはぐらかされるだろうと思っていたのだが、コナーは無情にもそう言い放った。
「ジョーさんは、ミーの存在を抹消したかったんデスよ」
「抹消?」
「何故ならミーの両親を殺したのはジョーさんだからデス」
僕は思わず制止した。
「ちょ、ちょっと待てよ。論理の飛躍も甚だしいぞ」
「ミーの考えることは全て正しいに決まっているのデス。だからパピーは誰かに操られてマミーを殺し、パピーはその誰かに殺されたに決まっているのデス。だからミーが名探偵としてそれを解決しなくてはならないのデス」
まずい。
彼女が何を言っているのか、本気で分からなくなってきた。
反論するためには彼女の理屈を汲む必要があるのに、頭が混乱して理解が追いつかなくなっている。
「どうやら納得していないようデスね。では、証拠を出してみせましょうか」
え?
証拠、だって?
そんなもの、どうやって作る気だ。
何年も前の事件。それも、現場であった屋敷すらなくなった状態で、犯行を証明することなんて……。
コナーがゆっくりと掌を上に向けた。
そこに、以前も見たミミズのようなものが無数に現れ、蠢き始める。
それらが折り重なると、一冊の本になった。
表紙も何もない、無地の本だ。
「これはジョーさんが小説投稿サイトに投稿している小説の一つデス。ダイさんを主人公にして、ミーと出会ってからのことを記述した、ね」
あの馬鹿……!!
僕は心の中で罵倒した。
余計なことはするなと言っておいたのに……!!
「この本の第三話の冒頭を見てください。少女が屋敷の中を逃げ回り、男性が少女の母親を殺す回想シーンから入っています。これが真実であることは、ミーが誰よりもよく知っています。何故ならこの少女こそが件(くだん)の娘であり、ミー本人だからデス。デスが、何故これを何も知らないはずのジョーさんが書けたのでしょう。これを書けるのは、あの場にいた第三者。つまり真犯人だけデス」
「適当にそれらしい記述をしただけだ! それがたまたま事実と重なっただけだろ!」
「たまたま? 苦しい言い訳デスね」
苦しい……のか?
この書き方からして、確かにジョーさんはこの娘をコナーだとある程度決め打っているように見える。
しかしそれを推察する情報は十分に持っているはずだ。作家として、新しい舞台へ移行する導入という形で一つエピソードを入れたがるのも自然な流れ。
しかし、それを説明したところでコナーを……いや他の人間であっても、説得できるのか? ノンフィクションの小説の中でそこだけをフィクションにしているとして、そしてそれを真実だと捉えられたとして、創作者の責任はないといえるのか?
そしてその責任は、フィクションを現実のものだとして受け入れることでしか解消されないのではないか?
「か、仮にそうだとして、どうして唯一の生存者である君を生かしたままにするんだ。事件の生き証人である君が真犯人を指摘するかもしれないと考えるのは自然な流れだろ」
「ええそうデス。だからジョーさんは、ずっとミーを殺そうとしていたんデスよ」
ずっと……?
「考えてもみてください。いくらミーが名探偵だからと言って、行く先々で殺人事件が起きるなんて、そんなことあり得ると思いますか?」
それは彼女にとって最大のタブーともいえるものだった。
彼女が名探偵である所以であり、この呪いの本質。
それを今、彼女は敢えて自分からひけらかした。
僕は歯噛みした。
こいつは、一体どれだけ前提を覆せば気が済むんだ!
「ジョーさんはずっとミーを殺そうと狙っていたんデスよ。しかしジョーさんにミーは殺せなかった。何故ならミーは名探偵デスからね。だからジョーさんは、代わりにミーの周りで殺人事件を起こしていたのデス。全ての罪をミーに着せるために。しかしミーの頭脳で全て解決され、ジョーさんは仕方なく次の一手としてこの屋敷への招待状を送ったというわけデス。ミーなら決して無視できない。名探偵の習性を狙われたのデス」
考えろ。
考えろ考えろ考えろ!!
この荒唐無稽な推理を否定する方法はなんだ!?
どうやったらこの妄想から彼女を引きはがすことができる!?
「無理だ……不可能だ! それをするには、ジョーさんが君の行動を全て監視していなければならない! そんなこと普通の人間ならアリバイが──」
「あるんデスか? 引きこもりで人間嫌いの彼女に、あなた以外の証人がいるのなら、ぜひ呼んで欲しいものデス」
「……ひ、引きこもりだからこそ、君の行動を全て把握することはできない!!」
彼女は苦笑を漏らした。
「そうデスね。確かに、普通の方法では無理でしょう。ミーの行動を完全に監視し、ミーが解決したすべての殺人事件の犯人を操るというのデスから」
「だったら……」
「しかしだからこそ、それらが動かぬ証拠となるのデス。実行犯であるジョーさんを影で操る、本当の極悪人が存在する証拠にね」
……おいおい。
一体どういうつもりなんだ?
ジョーさんが犯人だと言い出したと思ったら、今度はそれを操る極悪人だって?
「いい加減、種明かしをしてあげましょう。確かにダイさんの言う通り、ジョーさん個人がミーを狙う理由は皆無といえます。パピーとマミーを殺す理由も、ミーを執拗に追う理由も、彼女にはありません。しかしこの世には唯一それを望む人間……いえ、人種が存在するのデス。そして彼らは、ジョーさんを手足のように動かすことを可能にする唯一の存在なのデス」
「……人種だって? そいつらが君の言うありえない殺人事件を全て演出してきたと言いたいのか?」
今までコナーが関わった殺人事件はその人種が全て引き起こしたもので、ジョーさんは彼らに操られてる?
犯罪界のナポレオンだって目を丸くする話だ。
「その通りデス。世界一の頭脳を持つ美少女にして名探偵である金田川コナー。誰よりも優れ、誰よりも輝く主人公を、片時も離れず監視する人種が、この世界には存在するのデス!!」
…………主人公?
おい。おいおい、まさか……。
「あなたデスよ。この小説を読んでいる読者さん」
僕は文字通り、開いた口が塞がらなかった。
ぜ、前代未聞だ。
こいつ……物語のキャラクターでありながら、読者に犯罪の片棒を担がせる気か!?
「主人公がいてモブキャラがいて作者がいて、読者という存在がいないはずがありません。人間にはすべからく役割というものが存在するのデス。ミーが主人公であるならば、その物語は読者が監視しているに違いないのデス。そして彼らが直接干渉できるのは、作者であるジョーさんだけ、というわけデス」
コナーは憂いを帯びた瞳で首を振った。
「ある意味、ジョーさんも被害者デスよ。作者は読者の望む世界を作り出す、ただそのためだけに存在するのデス。あの双子を見た時、読者の皆さんはきっとこう思ったはずデス。彼女たちはどうやって死ぬのだろうと。蛇睨さんを見た時、大熊さんを見た時、皆が一様に思ったのデス。彼らが死ぬ姿が見てみたいと」
「滅茶苦茶だ!!」
いくらこじつけの推理を全て真実にできるからといって、こんな禁じ手を使っていいはずがない。
コナーは、僕達が生まれ、生きているこの世界を、物語の世界に貶めてしまったのだ。
「……忌々しい」
コナーはぼそりと言った。
彼女の様子がおかしい。
俯き、歯を食いしばり、憎悪に満ちた目を地面に向けている。
「忌々しい、忌々しい、忌々しい!!」
「コ、コナー……?」
「そうやって高みで見物して、ミーたちが苦しんでるのをあざ笑って!! つまらないとか面白くないとかで全てを決めてしまう!! 面白ければミーたちは不幸になってもいいんデスか!? どうなんですか!!!」
そうか。
今分かった。彼女の本当の目的が。
作家である僕を仲間に引き込もうとしているのも、こんな大がかりな仕掛けを作ったのも、全てはこのためだったのだ。
読者という決して手の届かない場所にいる存在を、自分の呪いの届く範疇に貶める。そのために、作家という身分が必要だったのだ。
「そうやってお前たちはパピーを殺したんだ!! 感想なんて名ばかりの誹謗中傷。それでパピーがどれだけ苦しんだかも知らないで!! どうせ自分勝手だと思ってるんでしょ!? 自分は悪くないって、そう思ってるんでしょ!?」
コナーの目的はただ一つ。
全人類だ。
呪いの制限を逆手に取り、この世にいる全ての人間を犯人にするつもりなのだ。
「あ、そこの読者さん。今自分には関係ないって思いました? ミーが主人公の物語を読んでいない自分は何も関係がないと、そう思いました? 残念デスがそうはいきませんよ。あなたがミーの物語を読んでいないということを、今この物語を読んでいるあなたは証明できないのデスから。これだけ長々と読んできたのに忘れちゃいましたか? ミーは真実を推理に変える、全知全能の名探偵デスよ?」
彼女の片目が飛び出さんばかりに大きくなり、赤黒く染まっていく。
ギョロギョロと、獲物を捕捉しようと活発に動き始める。
「これを読んでるみなさん。今どこにいます? 自宅? 上司に隠れて会社で見てるとか? それとも大学の講義室かな? 安心してください。たとえどこにいても、ミーの呪いの範疇デス。交通事故。自然災害。転落死。どれほど注意していても、この呪いからは逃げられません」
コナーは笑った。
ただただ高らかに、彼女は笑った。
「お前たちの人生を全部滅茶苦茶にしてやる! 137317文字も読んできたお前たちに、最高のバッドエンドをプレゼントしてやる!」
「もういい!!」
彼女は無表情で僕の方を見た。
「……もういいだろ。僕が犯人だ。僕なら自分の家の新聞受けに招待状を入れられる。犯人を見たというのも全て出まかせだ。だから──」
「ダイさんに犯行は不可能デスよ。さっきミーが証拠として提出した小説の中で、ダイさんは主人公という位置づけでした。一人称の主であるダイさんが犯人なら、そう記述されているはずデス」
物語の主人公は読者が監視している。
この理屈が成り立つ限り、コナーは誰であろうと犯人にし、誰であろうと容疑者から外すことができる。
それはもはや、この世界において全てが思い通りになるということだった。
彼女の呪いは今この時、ようやく完成される。
貞子におけるビデオのように。伽椰子における家のように。
ネットという最強の拡声器を用いて、呪いの物語を散布するのだ。
「さぁみなさん!! お待ちかねの裁きの時間Death!」
僕ははっとした。
これからのことに想いを馳せている場合ではないことを、ようやく思い出した。
「多くの人間を死に追いやった影の黒幕とその実行犯。醜悪な犯人共に相応しい不幸をお届けしてあげましょう!!」
僕は咄嗟にスマホを使って電話をかけた。
彼女の声を聞く間もなく、僕は叫ぶ。
「ジョーさん! 今すぐ逃げろ!!」
『はあ? 突然なんだよ』
「いいから早く!! どこか安全なところへ!!」
「無駄Death!! 無駄無駄!! ミーの呪いからは逃げられないんDeathよ!!!」
駄目だ! 僕は彼女を守ると決めたんだ! 絶対に彼女を傷つけさせない!! 傷つけさせて堪るか!!!
「やめろおおお!!!」
スマホから、グシャリと何かが潰れる音が聞こえた。
「アハハハ!! アハハハハハハ!! 事件解決♪ また一つ世界が平和になりましたー!!」
僕はスマホを取り落とした。
視界がぼやけて、何も見えない。耳鳴りが響いて何も聞こえない。
しかしその中で、コナーの姿と声だけは、何故か認知することができた。
「さあ、全てはここからデス。無責任で傲慢なあいつらを一人残らず皆殺しにしてやりましょう。夢を追う人間を馬鹿にして、安全圏からミー達を罵倒するあいつらに、正義の鉄槌を食らわせてやるのデス。それが全て終わった時、真の世界平和が訪れるのデス!」
彼女は膝を折り、僕の前に手を差し出した。
「ダイさんの心はミーが埋めてあげます。その代わり、ダイさんはずーっとミーの側にいてくださいね♪」
彼女の穏やかな微笑みは、とても美しかった。
ジョーさんがいなくなり、何もなくなってしまった僕に、唯一存在するものだった。
「……分かった」
僕は何も考えず、彼女の手を握った。
Fin
「なーんて、ご都合主義な展開になると思ったか?」
僕はゆっくりと立ち上がった。
いつ体験しても堪らない。
この、全てのピースが揃った時の高揚感は。
「ホラー小説だっつってんのに、ミステリーよろしくな多重解答始めたり、挙句犯人は読者だぁ? まったく、こんな馬鹿げた小説の主人公になんて、なるもんじゃねーな。ましてや名探偵役なんてよぉ」
コナーはじっと僕を見つめている。
彼女が生み出した小説がページを開いた状態で落ちている。
そこに書かれているコナーの完全勝利エンドに、僕は唾を吐いた。
「……とうとう頭がおかしくなっちゃいましたか? ダイさん」
「ダイじゃねー」
僕……いや、オレは髪をかき上げ、言った。
「オレのことは、敬意を持ってジョーさんと呼べ」
コナーはそこで、初めて焦りの表情を見せ始めた。
近くに落ちてあった僕のスマホを拾い上げ、耳にあてる。
みるみる内に、顔が険しくなっていく。
「……どういうことデス?」
「あん?」
「どうして誰にも通じない番号に連絡してるんだって聞いてるんデスよ!!」
コナーが僕にスマホを向け、スピーカーモードにした。
『おかけになった番号は、現在使われておりません』
無機質な声が、辺りに木霊する。
「どうしても何も、ブラフだからに決まってるじゃねえか」
「はあ!?」
「だから言っただろ。やめろってな」
そう。だから止めろと言ったんだ。
僕はこんなことしたくなかった。本当に、したくなかったんだ。
彼女を完膚なきまでに叩き潰す、こんな方法は。
「……お、お前……」
「どうした? 名探偵のフランケン女。今の現実が理解できねえか?」
彼女は僕をまじまじと見つめる。
口調も声のトーンも表情も、何もかもが違う僕を見て、ようやく答えを口にした。
「に、二重人格? でも、そんな……」
ジョーさんはにやりと笑った。
「さあ、読者もお待ちかねだ。ここいらでクライマックスといこうじゃねーか。謀略混じる偽物のラストじゃない。本当の解決編にな」
ジョーさんが隣にいる僕に流し目を送った。
「どうする? お前がやるか?」
僕は首を振った。
「いや、君がやってくれ。この物語の名探偵は君だ」
僕達のやり取りを、コナーは奇異の目で見ている。
一人二役を目の前でこなす人間がいたら、誰だって同じ目で見るだろう。現に、自宅近くにあるカフェで同じことをした時も、全員が同じような顔をしていた。
「ふざけるな!!」
悲鳴のような叫び声が轟いた。
「そんなの認めない!! ミーはそんなの──」
「それが名探偵であるお前の答えか?」
「……は?」
ジョーさんはため息をついた。
「この程度のロジックも分からねえなら、お前に名探偵を名乗る資格はねえよ」
コナーは訳が分からず、狼狽した瞳を向けるのみだった。
「お前はもう詰んでるんだよ」
「詰ん……でる?」
「お前は言ったな? ダイは読者が監視していて、オレなら誰にも見られずに人を殺せると。だが実際は、オレとダイは文字通りの一心同体だった。つまり、ダイを誰かが監視しているのなら、必然オレの行動も全て監視されていることになる」
コナーはまるで石にでもなったかのように硬直した。
「……実はそれも──」
「おっと事実の裏書は不可能だぜ。何故ならお前は間違ったからだ」
びくりと、コナーの肩が震える。
「名探偵は全てにおいて正しくなければならない。お前が姉華に罪を着せようとしたトンデモ推理も、提示された前提条件の中では正しかったからこそ成立した。事実としてその可能性があると想定できたからこそ、お前はそれを推理として披露できたんだ。だが今回、お前は自分の推理に穴があると第三者に指摘された。決定的な証拠まで持ち出したのに、な。そんなお前に、名探偵である資格があると思うか?」
ジョーさんは冷淡な目で彼女を見つめ、言った。
「残念だったな。お前の推理は外れだ」
「は、外れ……? そん、そんなこと……」
「ありえない? そうだな。ありえない。名探偵の言うことは絶対だ。だから推理を外したお前は、名探偵なんかじゃなかったのさ」
コナーは膝をついた。
赤黒く変色していた彼女の片目が、徐々に通常のそれへと変わっていく。焦点の合っていない目が、地面を向いたまま泳いでいる。
「そ、そんな……。ミーは、名探偵じゃ……ない? じゃあミーは……」
「教えてやるよ。お前の正体」
ジョーさんは容赦なく言った。
「最初の事件。そう、ダイの目の前にサラリーマンが落下して死亡したあの事件だ。実はあの時、島田刑事が自殺したのは良心の呵責からじゃない。無実の罪を着せられたという事実に絶望しての自殺だったのさ」
コナーの目が大きく見開いた。
「あの事件。サラリーマンが凭れ掛かったフェンスに細工がされた形跡はなかった。だから事故だと当面は考えられていたが、そもそもその前提からして間違いだったのさ。覚えてるか? あのフェンス、まるで開き戸みたいに外側に開いていただろ? 仮にあれが、誰かが凭れ掛かる前からああいう状態だったとしたら、どうだ?
犯人があらかじめフェンスに衝撃を与えていたのか、たまたまああなっていたフェンスを利用したのかは分からねえが、フェンスは最初から壊れていたんだ。だがああいう状態のフェンスは、ものによっちゃ通常のフェンスと同じように見えることもある。開き戸を閉じていればな。
仮にその状態を保てていたのなら、外部から何者かが被害者に連絡し、今ビルの近くにいるとでも言って誘導すれば、電話の主を探してフェンスに凭れ掛かりそのまま……」
パン、とジョーさんが柏手を打つと、コナーは面白いようにびくりと震えた。
「最後は男の携帯をこっそり抜き取り、代わりの証拠を置いておけば終了。それができるのは誰か。警察が来る前からべたべたと死体に触れていた一人の名探偵しかいない」
「……そ、それはミ──」
「次だ。カフェで起きた荷物の転倒による殺人。実はあれも超かんたん。オレ達は転倒の音がした時に被害者男性が死んだと思っていたが、なんてことはない。あれはもっと以前に殺されていたんだ。
犯人はシフトで一人になった被害者を隙を見て殺し、音をたてずに荷物をバラまくと、あらかじめ録音しておいた小型スピーカーを置いた。あとは時間を指定して、音を聞きつけた自分が真っ先に現場に入ってスピーカーを回収すれば終了。それができたのも、部屋に入ろうとする人間を有無を言わさず追い出した名探偵一人だけだ」
「ち、違う!!」
このままでは犯人にされる。
その焦りからか、彼女の叫び声は若干震えていた。
「それもこれも、全部憶──」
「んで、今回の屋敷の殺人だが、これも別にトリックなんか使っちゃいない。全部力技だろ?」
ジョーさんは徹頭徹尾コナーの意見を無視するつもりらしかった。
その傍若無人ぶりたるや、まさに名探偵といったところか。
「犯人は全員と共犯関係にあったんだよ。と言っても、確定しているのは姉華と蛇睨さんだけだがな」
「そ、そんなこと……」
「最初の毒殺事件。あれはコナーとオレには犯行不可能だったが、誰かに代わりにやってもらえばそれで済む話だ。変哲無さんと妹華の殺しも、その時一緒にいた人間と共犯なら口裏を合わせてアリバイ工作もできる。お前が犯人なら、そのアリバイを保証した蛇睨さん、ずっと共に行動していたという証言に異議を示さなかった姉華は共犯だ」
「な、なんデスかそれは!! 姉華さんのあの怯えようも、混乱も、全部演技だったって言うんデスか!!」
「そうだが?」
ジョーさんはあっけらかんとした顔で言った。
「そうって……だってそんなの……」
「おかしいか? だがこの呪いは、それを“おかしい”とは思っていない。だいたい、それが通るならお前の推理も通らないしな」
「じゃ、じゃあミーが犯人だっていう証拠を出してくださいよ!! 共犯者がいる可能性で言ったら、あなたもそうじゃありませんか!!」
ジョーさんはここで初めて、思案するように顎に手をやった。
「……そういや、お前には言ってなかったな」
「は?」
「他人任せにしないで、ちょっとはてめえの頭で考えろよ。思考の放棄はオレが何よりも嫌いなものなんだ」
そう言ってため息をつき、彼女は空に顔を向けた。
「古今東西、世にある怪物や呪いの類は、その構図が完成した時点で個を離れる。つまり、ある種の物理法則にも似たルールという概念が、そのまま現実に現れたことを意味する。ルールはルールだ。仮に生みの親でも、それに逆らうことはできない」
「……は? は? な、なに……何言って……」
ジョーさんはにやりと笑った。
「証拠なら、今作ってやった」
コナーの動きがぴたりと止まった。
冷や汗を流し、目を見開き、そのまま固まっている。
しばらくすると、彼女はゆっくりと、自分の懐に手をいれた。
震える手で取り出したのは、一つのスマートフォンだった。
コナーはゆっくりと、スマホをタッチしていく。
まるで、幽霊の類が出ないようにと懇願しながらドアを開ける子供のように。
『○○さ~ん。ここデスよ~。ほらここ。もっとちゃんとよ~く見てくださーい。そこのフェンス越しからなら絶対見えますって~』
次の音声が再生される。
ものが転倒する轟音に、コナーの肩がびくりと震える。
そして最後の音声。
『いけませんね~。ジャーナリストともあろう人が、記事を書くために事実を捻じ曲げ、あまつさえ真実を知る人間を殺してしまうなんて。こんなこと、あっていいと思います?』
『……だから、違うって言ってるじゃねえか』
『そうデスか。なら、この事実を刑事さんに伝えても問題ないというわけデスね』
『いや、そうじゃなくて!』
『そうじゃなくて?』
『…………事故、だったんだ。だから──』
ブツン。
そんな音がして、スマホから音は聞こえなくなった。
「ち、違う。こんなの、違う。あなたが勝手に仕込んだことで……全部、憶測で……。だ、だってこれ証拠じゃない。じょ、状況証拠だ。全部、ミーが犯人だと決めつけるには──」
「これはお前が始めた、お前だけの物語だ。お前が名探偵でなかったのなら、今までお前の周りで起きていた犯行は一体なんだ? 行く先々で殺人が起き、犯人が自殺する。そんな悪趣味なストーリーを描いて来たのは、一体どこのどいつだ?」
ジョーさんの論理が、彼女の中で浸透しつつあった。
もはや彼女は何も考えていない。名探偵であるジョーさんの推理を頭でなぞっているだけだ。
「お前はこの物語に論理的な回答を見つけなければならない。さあ教えろよ。選ぶのは、名探偵でもなんでもない、ただの主人公のお前だ」
「ミーは探偵じゃなくて……でもミーの周りで事件が起きて……だけどミーは…………ミーが……」
まるでねじの切れた人形のように、コナーは止まった。
「……終わりだ。金──」
「違う」
コナーの虚ろな目が、ゆっくりと僕に向けられる。
「それは名探偵の名前だ。君がなりたかった、偽りの自分の名前だ。君には本当の名前があるはずだ。君だけの名前が」
コナーは何も言わない。
ただただ、じっと僕を見つめている。
「いつか君は、夢を叶えて幸せになりたいって、そう言ったね。君は名探偵になって、夢を見ていたはずだ。自分がそうなりたい理想に極限まで近づいて、富と名声を得た。でも、それで君は満足したか? 幸せになったか? ……違うだろ。そうじゃないだろ。夢を持つってことは、そういうことじゃないんだよ。幸せになりたいから夢を持つんじゃない。不幸になっても叶えたいと思うから、人は夢を持つんだ。それが本当の夢なんだよ」
彼女にこの言葉は聞こえているのだろうか。
その心に響いているのだろうか。
僕の頭にあるのは、彼女との短いながらも濃密な思い出だった。
平気で人々に罪をきせてきた彼女。嫌いになったかと、伏し目がちに僕に聞いてきた彼女。電車の中で、不機嫌な僕にご飯を食べさせてくれた彼女。一人になるのが嫌だと、夜通し楽しそうに話をしていた彼女。
……何も感じていないのかもしれない。憎悪の念だけが増幅されているのかもしれない。
しかしそれでも、この言葉の数々には、きっと意味があるはずだ。
「君の夢はなんだ? 君が叶えたいと願った、本当の夢は」
「……ミーの、本当……」
その時だ。
突然、びしりと地面から音が鳴った。
海側にいる僕は、その正面にいる彼女の後方で地面にひびが入る瞬間を見た。
三日間に及ぶ嵐のためか、なんて考えている暇はない。
突然、がくんと地面が揺れる。崖が崩れ始めたのだ。
嘘だろ……! いくらなんでも、そんな派手な死に方があるか!
逃げるのが遅れた。このままだと崩れた崖と一緒に海へ落ちる。
この高さだ。落ちたら絶対に助からない。
万事休すか。
そう思った時、僕の手が、ぐいと何かに引っ張られた。
その力にたたらを踏みながらも、僕はデッドラインであるひびよりも後ろへと下がることに成功する。
そして、僕の手を引いた彼女は、落ち行く崖と一緒に、優しく微笑んでいた。
「……私。初めて、誰かを助けられた」
咄嗟の衝動だった。
僕の細腕じゃ何の意味もない。そう分かっていても、僕は彼女に手を伸ばしていた。
唐突に、何かの記憶がフラッシュバックする。
屋敷の地下で触れたあの日記帳。今まで忘れていた、あそこに書かれていた名前が──
「絵美里!!」
しかし、彼女は手を伸ばさなかった。
笑みを浮かべたまま、彼女は落ち行く崖と共に視界から消えた。
僕は這うようにして落ちて行った崖下を覗いた。
そこに彼女の死体はなかった。
水面から顔を出すいくつもの岩礁は、落下した人間をその場に留めさせる効果があるはずだ。にも関わらず、そこで浮いているはずの彼女が、そこにはいなかった。
「……お前との数日間、けっこう楽しかったよ」
そのつぶやきは、僕にしては珍しく、まったくもって無駄極まる独り言だった。
最終話 了
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