第五話 かみさまは遠くにありて
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思い出した。
あれは、もう十年以上は前のことだ。
いつもは賑やかさを楽しんでいた虫の声が、いやに耳障りに感じた、ある秋の夜。
普段はとてもやってこないような、沢山の人がウチに来て。でも、子供心にもそんな特別な雰囲気に何のワクワクも感じなくて。ただ、息の詰まるような居心地の悪さを覚えて、部屋に戻った。
そうしたら、いたのだ。
縁側に、ぼうとひとり、遠くを見ている綺羅おねえちゃんが。
俺はその隣に腰掛ける。
何となく話しかけ辛くて、何も言わずに座っている。
「――ソウジは、さ」
それは、ここではない遠くへ。果てまで届く鐘の音のような、澄み渡る声だった。
「もう、ずっと昔っからお調子者でね。皆が苛立ってたり悲しんでたりすると、いつだって飛び込んでいって、それをどうにかしようとしてね。そのせいで自分がどんなに痛い目にあったり馬鹿にされたりしても、それで誰かが笑うなら俺も笑えるって、何度注意しても結局一回も反省しなかったなあ」
思い当たる節は多々ある。
確かにあの人は、その手の揉め事に目が無かったっけ。
いつもいつも明るくて、ひょうきんで。
自慢のひいじいちゃんだった。
大好きな家族だった。
「だから私、笑ってようと思うんだ。あなたが行っても大丈夫だよって、伝えたいから。――ソウジへの、一番大事な贈り物に。彼が一番好きだったものを、あげたいから」
「……ねえちゃんは、ひいじいちゃんのこといっぱい知ってるんだな」
「おねえちゃんは、イエガミだからね。キョウジよりも長く、ソウジと付き合ってきたから」
そう言って、彼女は。
「おねえちゃんは、イエガミだから。あのヤンチャで元気だったソウジが、皆とさよならする日が来ても――私はこうして変わらずに、彼のことを話してるんだ」
ひいじいちゃんが亡くなった、今は遠い秋の夜。
泣き出しそうな儚さで、真田家のイエガミは微笑んだのだ。
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「弛んでいるな、真田君」
背後から声を受けて、意識が現実に引き戻される。
「失礼を承知で言うが。今の君に、君が納得するだけの絵は描けんよ。絵とは、己の心をしかと捉えて写し取る行為だ。そのように、心を余所に置いてある状態でやるべきことではない」
振り返れば。
一日の終わりの色に染め上がる、がらんと広い美術室。
……急に時間が進んだような錯覚を感じて、俺はかすかに頭を振る。
「――清水先輩、他の皆は」
「とうに帰ったよ。君はちゃんと挨拶もされていたのだがね」
全く記憶に無い。
どうやら余程ポンコツになっていたらしい。
美術室にいるのは座っている俺と立っている先輩だけで、呆れたように息を吐かれる。
ふと、自分が今まで筆を走らせていたものを見れば、カンバスには、美術室の窓から見た風景画のひっでぇ出来損ないがあった。
「専心ではなく逃避の賜物だな、その集中は。それは確かに一時の安楽を得るが、癖にしてはいけない。目を逸らし続ける程度で解決する問題であったなら、そもそも君はそこまで心を痛めていないだろう、真田君」
一適の雫が落ちるように静かに、相手の心に染み入るような音色で、清水先輩は言う。
「綺羅さんがいなくなって、もう五日目か」
――イエガミは、家に宿る神様だ。
だけれど、だからこそ、永遠の存在ではない。
イエガミはいくつかの要因によって、時に宿っている家から消失する。
ひとつ。
超常的な存在とはいえども、肉体を持った一個の実存となっている状態のイエガミは、不老ではあっても不死ではない。怪我を負えば、人間と同じく死んでしまうこともある。
……嫌な話だが。事故や、力の薄いイエガミが強盗にやられた、なんて事件もなくはない。
ふたつ。
イエガミは、精神的な理由によっても消失し得る。
家に宿り、家を守る為に、そこを家としている人に尽くす為に現れる、イエガミ。それが基本設計とはいえ、イエガミは各々の人格を持った存在であり、後に得る追加情報によってはそれが覆ることは当然、ある。
簡単に言えば。
家人に心から愛想を尽かした時、イエガミはその家からいなくなる。
「大丈夫ですよ。清水先輩が心配してくださるのはもう光栄の極みですが、そこまで深刻に悩んじゃあいないんです。ただ消えただけならまだしも、こんなもんを残してるんですから」
制服のポケットから、四つ折にしてしまっておいた紙を取り出して広げる。そこに書いてあるのは、実に馬鹿らしい一文で――
『ごめんなさい。少しだけ、カミサマ休みます』。
――イエガミの消失にも、大事ではない部類のものがある。
イエガミは元来、宿っている家に自分の意思によって姿を現し、また消えることも出来る。とはいえ、家人の役に立つ為に現れているのがイエガミの常識だ。
今は少し席を外して欲しいというときや、ちょっとした仲違いが原因だったりでイエガミが一時的に姿を消すのはままあることだ。あまりにも我儘な主人にコキ使われすぎたイエガミがサボる為に姿を消して主人が大いに困り果てて反省する――といった流れの昔話が地方を越えていくらでもある。
「これであいつが消えた理由までくだらないことだって断言できたなら、もうちっと気が楽だったんですけどね」
イエガミ修行が嫌だったから?
まさか。そんな軽い理由であいつが消えるなら、もう今まで百回ぐらいは消えている。
綺羅は、初めて真田家から姿を消した。
理由は分からなくとも、その事実の重さが胸を押してくる。
「知りませんでしたよ。自分以外に誰もいない家ってのは、あんなにもからっぽに感じて――ただいまって言って、おかえりって返ってこないのがあんなにも寂しいものだなんて」
数日前が懐かしい。
今となっては納得しかない。
「確かに先輩の言う通りですね。いてくれるだけってのも、馬鹿にならないイエガミの役割だ」
心を潤す、か。
知らない間に、俺もそのお世話になっていたらしい。
「ああ、もしかすると金曜限定の購買のパン、今日買えなかったのもそのせいかもな」
「……? それはどういう意味だ?」
「いや、大したこっちゃあないんですけどね。あいつは素行がだらしなくても、実は一応イエガミとして、心の潤い以外にも役割を果たしてたんですよ」
ウチの中、親戚連中じゃあ、語り草の話題だ。
ひいじいさんの代から真田家は、ここぞという場面で少しだけツイている。
母さんにも、親父にも、爺さんにも、勿論俺にも経験がある。
賽の目が、少しだけ微笑んでくれたこと。
もっともそれらは本当に些細な変化で、精々が遅れそうだった電車にギリギリで間に合うとか、売り切れ必死の特売品を買い逃さなかったとか――
「――憧れの先輩とちょっとした接点が出来るとか、その程度ぐらいですけれどね」
先輩は、幾度か瞬きをして口元に手を当てた。
……いや、つい口走ってしまった部分をスルーしていただいて助かった。
「家人に幸運をもたらす、
「ははは、そんな大げさな。俺としては、美味い料理を作れて掃除も洗濯もやってくれる草月さんの方がイエガミとして凄いと思ってますよ」
第一、その代償があの普段のハチャメチャだと思うとワリに合わん。あれが与える幸運補正は姿を消しているときには消えちまうようだが、それを差し引いても、綺羅がいなかったここ五日のほうが俺にかかる負担は遥かに少なかったぐらいだ。
しかし。
そんなこととは、関係無く。
「早いとこ戻ってこねえかなって、そう思いますよ。まったくあのサボりイエガミは、いたらいたで鬱陶しいくせに、いなきゃいないで調子が狂う」
たったの五日で、綺羅がいた日常をもう懐かしく思う自分の情けなさに笑いが漏れる。
さてこの日々は、あとどれくらい続くのか。
少しだけとあいつは残した。でも、イエガミの『少し』ってのは、本当に人間にとっても『少し』だろうか。
尺度が違う。
縮尺が違う。
脳裏にちりちり掠めて消える、あの秋の夜と、綺羅と過ごした最後の日。
彼女の残したその言葉。
「……『何が出来るようになっても、出来ないままでも。私はずっとカミサマだから』」
「――――真田君。それは?」
「あいつが姿を消した日に言ってた言葉です。今思えば、他にもいくつか気になる素振りがありました。俺と先輩の話について、やけに聞いてきたり。沢山変わるとかどうとか」
俺にとっては繋がらない点と点。
しかし、そこに先輩は何かを見出したらしく、得心がいったように頷いた。
「そうか。何となくだが分かったよ、綺羅さんが姿を消し、真田君と一時距離をとった理由が。私が先に勘付いたのは経験、というよりは環境の差かな」
一人納得しているが、俺には何が何だか分からない。
懇願の視線に気付いたのか、先輩は小さく咳払いをして語り始めた。
イエガミという存在が選び得る、ふたつの立場。それによって変化する、人間との距離を。
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