予選2 観音開絃四郎VS男子小学生

忍び寄る影

左文字商店街から数分歩いたところにある小さな公園。

絃四郎は《こうしろう》は水道の水を掬い、青い道着の襟元に付いた油汚れを落としていた。

冷たい水で濯ぐだけではなかなか油汚れは落ちず、道着を強く擦り合わせる。

おばちゃんに投げつけられた使用済み食用油は、ただでさえ汗をかく状況なのに、べと付いて不快極まりなかった。

顔と頭に付いた分は洗い落としたが、揚げた食材の匂いが鼻に纏わりつく。

今すぐにでも頭の上からシャワーを浴びたい気分だった。


「あのおばちゃん、……何者だったんだ」


当然これまで参加した大会で見たことも、聞いたこともない人物だ。

武器として使っているのは、どこにでもある日用品。道着どころか、近所に買い物に行くような格好で闘っていた。


出場者はゴールドバーグが世界中から応募してきた人々の中から厳選したと聞いていたが、普通であれば、格闘家でもないおばちゃんが参加できるわけがない。


確かに強かったが、おばちゃんとの闘いは絃四郎が望んでいたものとは程遠く、自分の信念を曲げて卑怯なことをしてしまった。

先に急所を狙ってきたのはおばちゃんとはいえ、絃四郎は自分の行いを後悔していた。


(そういえば、おばちゃんがルール違反をしたのに何の注意もなかった)


闘うことに必死で今になって気づいたが、なぜ運営はルール違反をしたおばちゃんを止めなかったのか。

小型カメラで監視しているはずではないのか。

運営が止めてさえいれば、格闘家として恥ずべき手段をとらずに済んだのに。


「くそっ‼︎ どうなってるんだ、この大会は‼︎ 」


認めたくない事実に対し、絃四郎は苛立ちを隠せない。


これ以上やっても油汚れは落ちそうにないので、仕方なく水に濡れた道着を羽織る。闘ったあとの火照った体に冷たい水が染み、心地いい感覚だった。立ったまま目を瞑り、その感覚を味わっていると。


(……! 誰かいる)


背後に人の気配を感じる。忍足で歩いているが、わずかに土が擦れる音が聞こえる。明らかに絃四郎を狙って近づいてきているのだろうが、気配も足音も消せないようでは大した奴ではない。

絃四郎はそのまま気づかないふりする。相手は足音をなるべく消すように、爪先から地面に足をつけ、ゆっくりと時間をかけて近づいてくる。


(背後にきたら、先制攻撃だ)


夕焼けに照らされた相手の影が、絃四郎の影に重なってくる。頭上からは長細い影が出ており、相手は柄物を持っていることがわかった。

柄物の動きからして、相手は構えをとっていない。


(これでもくらえ‼︎)


絃四郎は振り向きざまに相手に裏拳をくらわした、と思ったが。


体に当たった手応えがない。


体には当たっていないが、腕に軽いものが当たり、パサッと音がする。よく見ると長細く巻かれた新聞紙だった。

風で飛んできた? 確かに人の気配と影はあったはずだ。長い柄物だと思った影は新聞紙に違いない。


お世辞にも武器とは言い難い。

なぜこんなもので絃四郎を攻撃しようとしたのか、理解できない。

本気なのだとしたら、なめているのか。それとも何かの作戦なのか。


しかも姿が見えないがあの一瞬でどうやって消えたのか。


その理由はすぐに判明した。


「う、うぇ……うわああああん‼︎‼︎」


足元から泣き声が響く。

裏拳が当たらないのも当然だ。新聞紙の持ち主は、絃四郎の腕よりも遥かに背の低い少年だった。

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