第26話

「夕景」


稲の刈り入れの最盛期で猫の手も借りたいくらい忙しい最中におかあさんが上京してくれた。

おかあさんは自分の息子の事より私の事のばかり気に掛けてくれて本当に申し訳なかった。

「親戚総出で仕事するから私が一人くらい居なくても大丈夫よ。それより遙ちゃん、無理しちゃだめよ。身体にさわるから」

と言って私達のマンションの慣れない台所で家事を手伝い陽気に振舞っていたけれど、我が子の事を心配しながら稲刈りをしているおとうさんの事も思うと胸の辺りが苦しくて、どうしようもなかった。


おかあさんがそのとき居てくれてどれほど有難く、心強かったか知れない。

もし私一人だったら色んなことが頭の中を交差してただ泣き喚いていただけだろう。

生まれてくる新たな命への喜びとは裏腹に、健一郎さんのことだけ考えて塞ぎこんでいた私を一番辛い思いをしているはずのおかあさんが絶えず元気付けてくれた。

でも、ある夜、台所で佇み、エプロンの端で顔を覆いながら肩を震わせていたおかあさんの背中を見たとき、私自身の弱さに嫌気が差し、もっと強い人間になりたいと心から思った。


健一郎さんが入院してから二週間経ったとき私は産気づいた。

予定より少し早く生まれた南海江を彼は孝行ものだと呟きながら胸に押し込むように抱きしめて床に蹲った。

陽太が生まれたときにも泣いていたけれど南海江のときのその涙の意味に気づいたとき、私は夜中の病室で声を押し殺しながら嗚咽した。


そして、私が退院してから数日後。


「東京のスーパーは何でもあるのね。でも野菜と魚は駄目だわ」

おかあさんは買い物袋を抱えながら家に戻って来た。

「すみません、買い物までさせてしまって」

「いいのよ。私だって病院意外の所にも行きたいもの」

私が座っているソファの横で陽太はクマの縫いぐるみと遊んでいて、ミルクを飲んでお腹がいっぱいになった南海江は隣の和室で寝息を立てていた。

私は編み物の手を休めてお義母さんと一緒に袋の中の食材を冷蔵庫の中に入れた。

「出来たの?帽子」

「ええ。でも、編目は粗いし、とても下手で恥ずかしいです」

「そんなことないわよ。私なんか縫い物する度に指から血を流すのよ。それに比べたら偉いものよ」

黄色いワンピースと母の笑顔・・・。

母ならもっと上手に編んでいただろう。

「もういいわよ、ヨウくんもナミちゃんも私に任せて、早く行ってらっしゃい」

「はい。それじゃ、お願いします」

私は身支度を済ませ、編み上がった青い毛糸の帽子をバックにいれて病院に向かった。


私は、タクシーから降りた。

病院の敷地と道路を分けている銀杏の木からは黄金の葉がはらはらと舞い落ち、生垣には百日紅の花が咲いていた。

何気なく空を見上げる。少し濃い水色の中に飛行機が雲を引いていた。

伯父さんのはからいで健一郎さんは個室で治療を受けていた。

最初は落ち着きなくそわそわしていたけれどその時は既に自分の部屋のようにくつろいで一日中本を読みながら過ごしていた。

病室のドアを開けると健一郎さんは虚ろな眼で私を見た。

「陽太と南海江は元気かい」

私は途中で買ってきた切花とバックをテーブルに置いた。

「ええ、とっても。元気すぎるくらいよ」

「そうか・・・」

薬の影響でだるそうに半分瞼を閉じながら微笑んだ。

私はバックから毛糸の帽子を取り出して髪が薄くなった彼の頭にそっと被せた。

「お、いいねぇ。似合うか?」

「うん」

健一郎さんと久しぶりに二人きりで過ごす時間を私は抱きしめるように大切にした。

窓からはこぼれるような優しい日差しと丸い熱が病室に充満していた。

「それさ、持っていってくれ」

冷蔵庫の上に大きな風呂敷包みがあった。

「何?これ」

「近江屋のおかみさんの見舞いだ。そんなに食えないよ」

タッパーの中は揚げ物の詰め合わせ。

「お袋はどうしてる?」

「おかあさん、さっき、買い物に行ってもらってね・・・」

私は当たり障りのない言葉を並べながら彼との会話を楽しんでいた。一方的に話す私の言葉に頷いていた健一郎さんは眼を窓の外に移して、目を瞑って頭を揺らしていた。

私はベッドを水平の戻してその間に給湯室で花を取替えて戻った。

掛け布団を直そうと健一郎さんに近づいたとき無意識の彼の喉が動いた。

「ああ・・・、帰り、たい・・・」

その言葉を聞いた瞬間、胸が、潰れた。

私は椅子に腰を落とし、健一郎さんの横顔を見た時、彼との沢山の思い出が一瞬にして脳裏を駆け巡った。

(やはり田舎者は田舎で暮らすべきだね。どうも、都会って所は性に合わないよ)

健一郎さんと付き合い始めた頃には何度かその言葉を聞いた。

(いつかは故郷へ帰る)

けれど結局彼は東京に残ってくれた。

それは私と、私の母のため。

健一郎さんにとっての親の存在がどれほど大事なものか、おとうさんとおかあさんの事を知れば知るほどその大きさが分かった。

だからこそ彼は私と母の関係に胸を痛め、奔走してくれた。

でも私はそんな彼の気持ちを踏みにじるような態度を取り続けた。

母が死んだその夜、健一郎さんは私に謝った。

(ごめん。遙。俺がもっと自分に強い人間だったら、もっとちゃんとしてれば、お前が悲しむことなんてなかったのに)

違う。謝らなければいけないのは私。心の奥では母に会いたくて仕方なかったのに子供じみた頑固さで身動きがとれずいつかは健一郎さんが助けてくれる、強引に手を引いて連れて行ってくれると願っていた。

私が健一郎さんと出会わなかったら恐らく、この歳になるまで母の事を無視し続け死んだことさえ知らぬまま過していたに違いない。

それはとても不幸なこと。誰かと結婚して子供ができたとしても、その本当の意味を理解できず空っぽな幸福を得て満足していたことだろう。

(孝行したいときに親は無しっていうけれど、そうなら俺はどうしたらいいんだよ)

入院して間もない頃、色付き始めた窓の外を眺めながら彼は自嘲して言った。

(もう少しで稲刈りの時期だな。中学の時はただ面倒で、高校の時は勉強したくて・・・、いや、それにかこつけて全く手伝わなかった。こんな身体になるのが分かっていたら会社を休んででも帰ればよかった)

穏やかに眠っている健一郎さんの意識はきっと黄金にたなびく稲穂の中にいる。

親戚の人たちと食卓を囲み、お酒を飲みながら笑っている。

私は健一郎さんのために何をしてきただろう。

私の幸せが健一郎さんの幸せ?

そんなの私の勝手な思い込みに過ぎない。

「伯父さんの言うとおり治療を受けていればきっと良くなるから、頑張りましょう」と暗闇の中に無理やり灯した灯りにしがみつき、無駄に苦痛を与えているだけ。

一緒に頑張っている?一緒に痛みと苦しみを分け合っている?

違う。献身的な妻を演じているだけの馬鹿な女。

私は呆然と病院を後にしておかあさんが待つマンションに戻った。

「あら、早かったわね。お夕飯、もう少しでできるから」

「おかあさん、お願いがあります」

「なに?」

「健一郎さんを連れて帰って下さい。故郷に、連れて帰って下さい」

おかあさんはガスを止めて私の手を握った。

「遙ちゃんはどうするの?もちろん一緒に来るわよね」

「明日、会社に退職届けを出しに行きます。引継ぎとかで直ぐには行けないと思います。でも、私、最後まで健一郎さんのそばに居たい。ずっとそばにいてあげたい」


けれど私のその決意はあっけないほどに健一郎さんに撥ね付けられ、結局、私一人だけが東京に残ることになった。


誰も居ないオフィス。

私は一人でその時進行していたプロジェクトの内容を把握しようと書類に目を通していた。

「あまり根を詰めると身体に毒だよ」

武藤さんはそう言いながら私の机にお茶を置いてくれた。

「すみません。でも早くみんなに追いつかないと・・・。足手纏いには成りたくないんです」

「古川さんの気持ちは分かるけど、ここのところずっと残業ばかりじゃないか。君まで倒れたらどうするんだ」

健一郎さんの事。私が一人だけ残った事。会社の人たちは皆知っていた。

「大丈夫です、ご心配なく。程々にして帰りますから」

「そうか・・・」

武藤さんは早く帰るようにと言い残してドアまで歩んで何か思い出したように振り向いた。

「そうそう。明日、仕事が終わってから時間取れるかな」

「ええ、特に予定はありませんけど」

「なに、たいした事じゃないが、皆で飲みに行こうと思ってね、いや、実は大分遅くなって申し訳ないんだけど、古川さんの復帰祝いなんだ。来てくれるかい」

私は少し戸惑いながらもその好意に甘えた。

「はい、喜んで。今だけは独身ですから」

だけどそう答えた事に後悔した。

仲間達が皆、私に気を使って元気付けようとしていることは分かっていた。

そのことがとても嬉しくて、とても、悲しかった。


次の日の夜はしこたまお酒を飲んだ。

私を縛り付ける何かから逃れたくてお酒に逃げた。

束の間の自由。束の間の快楽。

足元がふらふらになり、佐々木さんにタクシーで送られて、夜中に帰宅した。

ガチャガチャ音をたてながら鍵を開けるとそこは真っ暗で冷たい空間。

雪崩れ込むようにベッドに倒れこみ、お化粧もそのままに深い淵に沈んで行った。


遠くで赤ちゃんの泣き声が聞こえる。

陽太?南海江?

重い瞼を開けると目の前がグルグルと回っていて、眉間の辺りに鈍痛が走った。

寝返りを打って健一郎さんに触れようと手を伸ばした。

その時、手に纏わりついたのはシーツの冷たさ。

ベッドの広さを思い知ると胸が波打ち、途端に涙が溢れ出た。

健一郎さんが乗った飛行機を見送ったとき私は東京にいる間は泣かないと誓ったのに、酔いがタガを外してしまった。

仕事に集中して悲しい事は隅に追いやり、私が生きて行く世界、陽太と南海江が幸せに生きて行ける世界を創るために、健一郎さんとの約束を果たすために泣くことを忘れようとした。

でも、もう限界だった。

健一郎さんの名を叫んで泣くことでしか精神の均衡を保つができなかった。

風でやせ細る砂山のように少しずつ威勢が削ぎ落とされ、か細い神経が露になった。


その夜の二週間前。


私は金曜日に休みを貰って健一郎さんに会いに行った。

陽太と南海江を力いっぱい抱きしめた。

おとうさんとおかあさんは私を本当の子供のように迎えてくれた。

健一郎さんの温もりで削ぎ落とされたものがもとに戻って行くのを感じた。


そしてまた現実の世界で威勢が萎んで行く。

そんな重苦しい毎日の中で、健一郎さん以外の男性の優しさに気づいた時、私はやっと母の事を理解できたように思えた。


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