第24話
「夕景」
健一郎さんが会社に行ったあと、私は片づけを済まして買い物に出かけた。
(行ってきます・・・)
そう告げたあなたの普段見せるいつもの笑顔。でも何かが違う。
ここ二、三日の彼の様子を思い出すほどに陰鬱な気持ちになり、何も考えられなくなっていった。
一通り買い物を済ませた私はマンションに戻った。
玄関には何故か健一郎さんの靴があり、鞄が投げ捨てられたように廊下に置かれていた。
私の心はざわめき、慌ててダイニングに行くと健一郎さんはテーブルに突っ伏して両腕の中に顔を埋めていた。
「健一郎さん、大丈夫?ねぇ、身体の具合悪いんでしょ?」
「大丈夫。寝たら、治る・・・」
「病院に行きましょう」
私が彼の傍を離れて電話を掛けに行こうとすると健一郎さんは私の腕を掴んで顔を上げた。
「いや、いい。それより、遙、傍にいてくれ」
私を見詰めるその瞳を見たとき、とても冷たく嫌なものが全身に走った。
彼の瞳はまるで腐った卵黄のような色だった。
私は腕を振り切って一ノ瀬の総合病院に電話を掛けた。
伯父さんは生憎回診だったので手が開いたら折り返し電話を貰えるように言付けた。
その間に健一郎さんをべッドに寝かしつけ、焦る気持ちを必死で抑えていた。
三十分ほど経った頃に伯父さんから電話が来た。
「遙、どうした?確か検診は明日だったよな・・・。具合でも悪いのか?」
伯父さんは妊娠中の私を気遣った。
「いいえ、違うんです、私じゃなくて健一郎さんが」
「健一郎君が?どうした」
私は知る限りの彼の様子を話すと伯父さんは急に押し黙り、
「ちょっと待ってくれ」と受話器をそのままにして看護士に予定を確認していた。
「三時に来なさい。いいね」
「伯父さん、健一郎さん、大丈夫ですよね、何でもないですよね」
私の縋り付くような問いかけに伯父さんは極めて冷静に答えた。
「それは、検査してみないと分からないよ。でも、覚悟はしておいた方がいい」
そして私は嫌がる健一郎さんを無理やりタクシーに乗せ、陽太をお祖母さんに預けた後病院に向かった。
「丘」
この世には「幸せの量」は決まった数しかありません。
それは増えることも減ることもありません。
人類が生まれて間もない頃には神様が全ての人々に均等に分け与えていて、
人々は一生を平穏なままに暮らしていました。
段々人口が多くなると分け与えられる「幸せの量」は少なくなり「不幸」が少しづつ増えていったのです。
それでも僅かの時間を耐え忍べば幸せがまた訪れましたから人々は平和でいられました。
しかし更に人口が増えると神様はほとほと困り果てました。
産まれてから死ぬまで一度も「幸せ」を得ることが出来ない人々が生まれてきたからです。
神様は「良い人」から順番に「幸せ」を分け与えてゆきました。
それでも不公平を感じた人々は怨み、妬み、力ずくで他人から「幸せ」を奪い取ろうして「争い」が絶えなくなりました。
人より多く「幸せ」を得た人や、人から「幸せ」を奪い取った人に神様は「罰」を与えました。
ですから「良い人」でいなさい。
「良い人」であればいつか必ず「幸せ」が訪れます。
僕はそんな話を思い出していた。
何時、誰から聞いたのか、或いは何の本で読んだのかは忘れた。
病院に来たときは人で混み合っていたけれど、検査が終わって待合所に戻ってきたときには閑散としていて、待っているはずの遙も居なかった。
僕は長椅子に凭れ掛かり、虚ろに天井を見詰めながらその話の事を考えていた。
愛する人と出会い、子供を儲け、家族をつくり上げる事が罪に値するならそんな話は嘘に決まっている。必要以上の幸せを得た覚えはない。ましてや人から幸せを奪った覚えもない。
けれども僕は「良い人」であったのだろうか。
少なくとも遙にとって僕は「良い人」ではないのかも知れない。
僕がしっかりしていれば遥は自分の母親に孫を抱かせる事ができたのだ。
遙かは「良い人」だったのか、それとも「悪い人」だったのか。
父親を幼くして亡くし、ちゃんとした和解も無いまま母親とも死別した。
親を怨むのは悪いことかも知れない。でも遙かは違う。愛するがゆえに怨むしかなかった。いや、違う。怨みたく無いから、孤独を感じたくは無いから懸命に忘れようとしていただけのだ。
そして、僕は遙と子供達に孤独を与えようとしている。
僕は、死ぬ。そう、死ぬのだ。
遥かを悲しませて、陽太と南海江にはろくに父親の温もりを与えられぬままに、僕は逝く。
愛する人に何も充分に与えることができず、守る事もできないまま。
本当に僕は、駄目な男だ。
待合所でいつの間にか僕はうつらうつらと眠っていた。
暫くして「古川さん」と看護士に声を掛けられ、目を覚ました僕は分かりきった検査の結果を伺いに伯父さんの待つ部屋に案内された。
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