第23話

「夕景」


なだれ込むようにベッドに潜り込んだ健一郎さんの横顔を見たとき、私は言い知れぬ不安が込み上げて来た。

いつの間にかやせ細り、落ち窪んだ頬は黄土色になっていた。

「ねぇ、大丈夫?身体具合、悪そうだけど・・・」

「ああ、大丈夫だ。心配するな。ちょっと疲れてるだけだよ」

ここ数ヶ月間は陽太に掛かりきりで健一郎さんの事を気遣う余裕が無かった。

何時も私の側にいてくれることが当たり前で、私は安心しきっていて、彼を見ているようで全く見ていなかった。

最近残業も多く、ずっと頑張っていたから疲れが一度に出たのかも知れない。明日になればきっと元気になっている。そう思い込むように目を瞑っても不安は消えなかった。

翌日、健一郎さんはいつものように朝食を取った後、陽太と私、そしてお腹の子に

「行ってきます」と言って玄関を出て行った。

私はその笑顔に少し安堵した。



「丘」


ドアを閉めてエレベーターに向かう途中にまた吐き気が襲ってきた。

僕は脂汗を流しながら懸命にそれを抑えてエレベーターの中に転がり込んだ。

一階に降り立ち、壁に手を着きながらやっと表に出た。

街路樹が色付き始め、太陽の輝きと釣り合いの取れない冷たい風が額の汗を乾かした。

此処に来て何度目の秋だろう。そう思った途端、全ての色が抜け落ち、耳の穴に水が入り込んだときのようにあらゆる音が外耳道に篭った。

心臓の鼓動と荒く呼吸する僕自身の音が脳内に木霊する。

僕はふらふらと地下鉄への階段を手すりにすがって降りて行く。

すえた臭い。無機質なコンクリートの壁。金属と金属が叩きあいながら轟音を発し、電車が空気を押しつぶしてホームに差し込んで来た。

僕はいつものドアから中に入る。

立錐の余地も無い空間で吊革にぶら下がり、揺られるままに目を瞑っていた。

眉間の辺りに宿るもやもやしたものを必死に追い払い、人の臭気でもよおす吐き気を散らしていた。

二つ駅を通り過ぎたとき、僕は僅かに開いた椅子の隙間に恥じらいも無く腰を押し込んだ。

大きく息を吐く。耳鳴りが光の粒になって瞼の内側に踊った。

地中から湧き出るようなブレーキの音。

新宿・・・・

降りなければいけない。

だけど僕は立ち上がることが出来なかった。


朦朧とした意識のまま僕は電車に揺られ、東京駅ではなく、上野駅に辿り着いていた。

あの頃、故郷から来たときも帰るときも、僕は上野にいた。

お袋から貰った通帳を頑なに仕舞い込んで使えなかった僕は帰る金が無くて、十二月の喧騒の中、此処で人の行き交う様を見続けていた。

そうだ、その帰り、僕は近江屋のご主人と酒を飲んで歳を越したんだ。

虚ろな意識のまま窓口から切符を買った。

改札口を抜けた。

十三番ホーム。


僕は何をしようとしている?

帰る?何処へ。

ああ、故郷へ・・・

東京で死にたくないな。


ただ、その時、そう思った。


じゃぁ、何故此処に来た。

故郷に錦を飾る?

ははは・・・

何をして偉くなる?

何のために?

家を、農家を継いだらよかったに。

叔父さんの勧めで町の職員になったらよかったのに。

そうした方がストレスはなかったぜ。


そうだ、そうなんだ。何の目的も無しに、偶然大学に受かっただけで僕は有頂天になっていたんだ。

病気になることは必然だったかもしれないけれど、此処に来なければもう少し歳をとってもう少し長く、

もっと、もっと「生きる」ことが出来たかもしれない。


列車がやって来た。

僕は鞄を抱えながらドアが開くのを待っていた。

その時、どこかで赤ん坊が泣く声がした。

僕より若い女性が我が子をあやしていた。

僕より若い男性が我が子に舌を出してあやしていた。

僕より若い二人が束の間の別れに涙を流していた。


――― 遙 ・・・


僕は引き込まれるように後退り、地べたに尻餅をついて立ち食い蕎麦屋の壁に後頭部を打ち据えた。


――― 遙 ・・・


その途端、眼に見える全てに色が戻った。

駅のざわめきが渦となって聞えてきた。


そうだ。僕は、此処に来たのは、遙に逢うためだったんだ。

そうして、結ばれて、陽太と南海江を幸福にするために此処に来たのだ。

「大丈夫ですか?」

駅の職員が声を僕に掛けた。

「ええ、すみません。大丈夫です」

僕はやっとの思いで駅を出てた後携帯電話を取りだし、会社に電話を掛け、休むと告げた。


その時の僕の頭の中には図書館で笑いこける遙の懐かしい笑顔が浮かび、只管に、会いたくて、ただ、ただ、会いたくてどうしようもなくなり、心の中で何度も何度も君の名を叫び続けた。


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