第22話

「夕景」


家には何時も健一郎さんと陽太がいた。

私は仕事上の重い責任や疲れなど一瞬に体内で処理して前向きな自分になれた。

冷蔵庫の残り物で美味しい料理を作る術はおかあさんから教わった。

陽太の世話で困ったこともおかあさんに聞けば何でも明確に教えて

くれたし、何より、家族という形が出来上がる様がこの上なく幸せで、そして、楽しかった。

私が私である理由。私が健一郎さんと陽太と一緒に過ごす時間が幸せであると自覚する理由。その全てが母から受け継がれている。私が私でいられる、理由。

その理由を教えてくれた人。私の中の朽ちた杭を抜いて凪いだ湖面に映すその人。

健一郎さんは一生私の側にいてくれると信じてやまなかった。

そして、その思いは南海江が私に宿ったとき、尚いっそう強くなった。



「丘」


僕は次に産まれる子供は女の子だと確信していたから女の子の名前しか考えていなかった。

「また、そんなこと言って」

遙は疑いの眼差しでそう言った。

「なんでそんなに女の子が欲しいの?」

と、そのとき遙に聞かれて僕自身疑問だったけれど今思えば恐らくお袋の影響だったのだ。

「それで、どんな名前?」

「ナミエ」

「え?」

「白い砂浜、透き通った青い海、空!なんだか、想像しただけで穏やかな気持ちになる・・南国の海は俺の憧れなんだよ」

「まぁ、確かに、健一郎さんの海は灰色の砂浜と群青色の海だものね。でも男の子だったらどうするの?」

現実と夢想に対して、何故女という生き物はこうも勢い良く太刀で切り裂くことが出来るのだろうか。

「男だったら、そうだな・・・」

「考えてないんでしょ」

「考えてるさ」

「うそ」

「ほんとう」

「どんな名前?」

「・・・、ナミ、ヘイ」

「え?」

「だから次に産まれる子はサザエだ」

と、僕は冗談ばかり言っていたけれど、夏と秋とが喧嘩して口をきかなくなる無音のひと夜も、何処よりも大きく紅い故郷の夕陽の事も決して嘘ではない。

ここに戻って来てから何もすることがなく時間を過ごしていて、幼い頃の僕の記憶がまざまざと甦り、そして今現実に体験しているのだから。


「夕景」


私の会社は比較的女性が多く、産休や育児休暇には理解があってほぼ強制的に休暇を取るように命じられた。

けれど南海江のときはぎりぎりまで仕事をしたいと思っていた。

会社に迷惑を掛けたくないという気持ちと、それからなにより出産費用の事が気がかりだったから。

それでもお腹が大きくなると周りの人達が気を使う。

「古川さんの席は無くなることがないのだから気兼ねなく休んでもいいんだよ」

佐々木さんも同僚もそう言ってくれたけど、それから更に半月勤めた。

私は健一郎さんの体調の事など全く気づかず、ただ生まれてくる命のため、そして健一郎さんに負担を掛けたくないばかりに多少無理をしたのだけれど、もしあの時、もっと早く休暇を取っていたら、そんな後悔の念がいつまでも、いつまでも付き纏ってその後の私を苦しめた。



「丘」


世の中便利になるのは良い事なのだろうが、得たい情報が直ぐに手に入るということは時によっては残酷だ。

会社でパソコンに向かっていたとき、ふと、何気なく、その時の自分の症状、思い当る病気を検索してみた。

ああ、なるほど、親父はぴんぴんしているからこれは所謂隔世遺伝という奴か等と妙に納得し、直ぐに画面の赤いバツ印をクリックした。

いつもの通り、会社の帰りには陽太を迎えに行った。

込み上げて来る温かい幸福感と共に何故か涙が零れてくる。

部屋の灯りを点ける。陽太は玩具に夢中になっている。

僕はバスタブにお湯を張った。

蛇口から流れるお湯とたちこめる湯気。

全身の倦怠、痛み。また、涙がこぼれて来た。

「ごめんなさい。直ぐ夕飯作るからね」

遙が帰ってきて僕の背中越しに声を掛けた。

「今日は何?すげぇ腹へった」

僕はバスタブに溜まったお湯で顔を洗い何事も無かったようにしてそう叫んだ。

そしてまた、何事も無いようにご飯をお替りして満足げに遙の手料理をたいらげた。

「今日も旨かった!」

「おかあさんの教え方が上手だからね」

遙も嬉しそうにそう言い、陽太にもご飯を食べさせていた。

僕はその後直ぐトイレに入って、胃の中の物を全て、吐き出した。


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