第20話

「夕景」


育児休暇も残り一週間。

その間私は束の間の専業主婦を楽しんでいた。

おかあさんは私が退院した直後から上京してくれて、そのときはもう帰った後だった。

おかあさんが側にいなかったらきっと私はパニックになって、陽太の世話なんか到底できなかったに違いない。

「何言ってるの。大きなお子様の世話の方が大変よ!」

と、かあさんが言うと健一郎さんはバツが悪そうにベランダに出てタバコをふかした。

「遙ちゃんなら大丈夫よ。でも困ったら何時でも、夜中でも、遠慮しないで電話ちょうだいね」

私はおかあさんの優しさにまるでしっかりと根を張った大樹のような心強さを得て健一郎さんの帰宅を待っていた。

おかあさんの手ほどきで多少料理の自信がついた私は、切り身のパックされた魚ではなく、自分でさばいて煮付けにしていた。

敬一郎さんからのメールが届いていた私は調理台の火を弱火にしてお味噌汁を温め直した。

隣の部屋で寝ている陽太に視線を移した時、何か背中に視線を感じて後ろを振り返った。

女の子のような影を見たような気がした。

でも、誰も居ない。居るはずがない。

私が息を落としてお味噌汁の火を消したとき健一郎さんが帰ってきた。

「もう少し遅くなると思ってたわ。明日の準備は大丈夫?」

健一郎さんは乱暴にネクタイを緩めて鞄を置いた。

「遙、話があるんだ」

私は一緒に椅子に腰を掛けた。

「明日、君のお母さんの所へ行って欲しい」

木村さんと時々電話で話をしている事は知っていた。

「俺も一緒に行きたいんだけど、明日は仕事で・・・」

「うん。分かってる」

健一郎さんが私を見詰めた。

私が視線を逸らすと彼も一緒に陽太の可愛らしい寝顔に眼差しを注いだ。


その夜、私は夢を見た。

湖の奥底に沈めたままの思い出すはずも無い遠い記憶。

小学生だった。

自宅はマンションの八階。

ベランダには沢山の花が咲き乱れていて、友達にはお花屋敷と呼ばれていた。

べつにからかうつもりではないのだろうけど、何だか嫌だった。

エレベーターから降りて玄関のドアを開ける。

中には甘い匂いが漂っていた。

キッチンに立つ母の背中を私はじっと見る。

「お帰り。お腹すいたでしょ」

振り返る母。そしていつもの優しい笑顔で焼きたてのクッキーを差し出す。

「あ、そうそう」

隣の和室から仕付け糸のついた洋服を持って来て私にあてがった。

「ぴったり。少し待っててね」

糸を取り、ミシンで素早く仕上げて「着替えてきて」と私に渡した。

黄色の布地に水色の襟がついたワンピース。

母はいつも私の洋服を縫ってくれたけど、デパートで売っているもっとおしゃれな洋服が欲しかった。

私は自分の部屋に母が作った洋服を置いて戻った。

「あら、着替えないの?」

「うん。これからお友達の家に行くの。せっかく作ってくれたのに、汚したらいけないし」

私の言葉が嬉しかったのか笑顔でクッキーをプラスチックの容器に入れた。

「お友達にもね。夕飯にはちゃんと戻るのよ」

そういってまたキッチンに向かった。

私は家を出て歩いているときも、お友達と遊んでいるときも、何故かとても胸が痛かった。

そしてまたある日。

家に帰ったとき、母は鼻歌交じりでキッチンに向かっていた。

テーブルに並べられた料理はご馳走だった。

「今日はどうしたの?」

「お父さんとお母さんの大切な日よ」

何時帰って来るか分からない父。約束してもいつも破られる。

「大丈夫よ。ちゃんと早く帰るって言ってたもの」

だけど何時まで待っても父は来ない。

テレビの音が虚しく鳴り響く。

母の顔は見る見る暗くなり、今にも泣きそうだ。

「ごめんね遙ちゃん。もう少し待とうね」

時計は九時を過ぎていた。

そのとき電話が鳴った。飛び跳ねるように母は駆けて行く。

そして、淋しげな笑みを浮かべて戻って来た。

「患者さんの容態が悪くなって、緊急のオペですって・・・」

そうなると、恐らく帰って来るのは夜中か明日の朝。

「お腹すいたでしょ。直ぐ温め直すからね」

父の分だけ別の皿に分けたあと電子レンジに入れた。

「さぁ、いただきましょう」

また母と二人きりの食卓。

私は胸が苦しくなって、切なくて涙が出てきた。

「どうしたのよ、遙ちゃん」

私は「何でもない」といいながら母の手料理を夢中で食べた。

だけど涙で味が分からない。

母は私を抱きしめて「ごめんね、ごめんね・・・」と謝った。

その声は振るえていて、鼻水を啜る音が聞こえた。

どうして謝るのだろう。悪いのは父なのに。

どうして私は泣いているんだろう。

母が、かわいそう・・・。


ふと、眼が覚めた。

時計の緑色の文字が滲んでいた。

母が私の元から居なくなってから、私は母の事を懸命に忘れようとしていた。

中学生のとき、高校生のとき、大学生のとき、少しでも母の事が頭を過ぎると居た堪れなくなり、感情が昂ぶった。

母親など私にはいない。私の事も父の事も愛してくれた母親など最初からいない。

そう自分に言い聞かせて、別の何かに集中しようとした。

それは多分、母を怨みたくはなかったから。忘れてしまえば怨まずにすんだから。

私は隣に寝ている健一郎さんの頬を触った。

健一郎さんは静かに目を開き、私を見た。

そして、私の頬に流れている涙を優しく拭い、何も言わずに抱き寄せてくれた。

そのとき私は知った。

母が私を産んでくれなければ健一郎さんに出会う事はなかった。

もし、同じ時間、同じ場所に私が存在していたとしても、母が私を育ててくれなければ健一郎さんに気づく事など無かった。

明日、母に会ったら言おう。

ありがとう、と。


その日の朝はいつもと変わらず、健一郎さんは慌しく食事を取って急ぎ足で玄関に行った。

「いってらっしゃい」

声を掛けると健一郎さんは何かを言いたげに私の顔を見たけれど結局「行ってきます」とだけ言い残して扉を閉めた。

私は朝食の片付けをした後身支度を整え、陽太を抱き上げた。

冷たい風が入らないようにコートで包み込み、家を出た。

外は晩秋の気配が立ち込めていて、歩道の落ち葉を踏む度カサカサと乾いた音がした。

最寄の駅からタクシーに乗った。

その運転手は地方の方で健一郎さんから貰った地図を見せても迷ってしまい、結局歩いて木村さんの家を探した。

(玄関と庭は花でいっぱいだから直ぐに分かるよ)

と地図に書いていたけれど随分歩いて漸く辿り着いたその家の花は全て茶色に枯れていた。

そして、玄関の扉に貼られていた半紙に書かれている文字を見た私はまるで暗い崖の底に落ちて行くような感覚に襲われ、その場に立ち尽くした。


(忌中) 


私は震える指先で恐る恐る呼び鈴を鳴らした。

扉を開けた木村さんは嗚呼と喜びと悲しみが入り混じった声を出しながら深く頭を下げた。

「ようこそいらっしゃいました・・・どうぞ、お上がり下さい」

家の中はお線香の香りが漂う重苦しい空気が淀んでいた。

「今日の朝にはもう、息がありませんでした」

木村さんの案内で通された部屋の中には白装束を纏った老人が横たわっていた。

閉められていたカーテンを彼が半分開けると柔らかな陽が差し込む。

私は空白の意識のままその傍らに膝を折った。

中学生の頃の私の記憶と今そこにいる老人の顔を重ねる。

何時も櫛を通していた艶やかな毛髪は白髪交じりの灰色になり、頬も目尻も皺で弛んでいた。

一見知らない他人のようにも見える。しかしこの老人は紛れもなく、私の、母。

木村さんが母の枕元にL次型にして写真を立てた。

タキシード姿の健一郎さんとウエディングドレスの私が写っている。

「亡くなる前の数日間は半分死んだように何に対しても反応がなかったのですがこの写真を見せると、不思議なもんです。まるで子供みたいににこにこ笑っていましたよ」

私が陽太を抱き上げると小さな手足をばたばたさせて降ろして欲しいと駄々をこねた。

私は母の手をる。陽太も丸い手で母の指を握り、私の方を振り向いて屈託のない純粋な笑顔を振りまいた。

「陽太、あなたのおばあちゃんよ」

そう呟いた途端、私の身体の中から大きな津波が押し寄せるように胸が苦しくなって涙が溢れ出てきた。

ありがとうと言うつもりだったのに言葉が出てこない。

ありがとうと言えばきっと母は私を許してくれると思っていた。

「お母さん、ごめんなさい・・・」

私はただ、乱れた精神を必死に抑えながら慟哭し、許しを請うしかなかった。


それから暫くして、落ち着きを取り戻した私に木村さんは静かに言った。

「遙さん、すみませんでした。私のせいで辛い思いをさせて・・・この通りです、どうか許して下さい」

「いいえ、私こそ・・・。許すとか許さないとか、そんなこともう・・・」

私は木村さんに向かって座り直した。

「木村さん。母の側にいてくれて、本当に、ありがとうございました」

窓から見える庭は無造作に伸びた雑草と枯れ果てた花々で覆われていた。

しかしその中で、無秩序に咲くコスモスが淡いピンクの花弁を揺らしていた。


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