第19話

「夕景」


健一郎さんは生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて顔をくしゃくしゃにしながら涙を流していた。

「ありがとう」

彼は私の手を握ってそう言ってくれた。

「でも女の子が良かったんでしょ?」

私はベッドから彼を見上げて意地悪を言った。

「馬鹿言うなよ。男の名前も考えてあるさ」

「本当に?」

「ああ、勿論」

「その名前、教えてよ」

彼は少し間を置いて答えた。

「陽太」

「それって、もしかして、女の子だったら陽子にしようと思ってたんじゃない?」

「お、お前、身体が弱ってるわりには相変わらず鋭いこと言うなぁ」

どうやら図星だったみたい。

でも私はその名前がとても好きになった。

昇る陽を見たときに感じる未来への期待と高揚感。

沈む陽を見たときの感謝と安らぎ。

いつも温かく見守り導いてくれる存在。

そんな人になって欲しい。

そう、健一郎さんのような人に。



「丘」


経験を積む毎に仕事に対する責任が大きくなる。

それは嬉しい事ではあるが同時に苦痛を伴う。

僕はその日、翌日の会議に使用する資料を作る為に残業をしていた。

後輩達に必要なデータを集めさせた後、僕は一人で半分灯りの消えた事務所でそのデータをまとめていた。

時計を見ると八時を過ぎていて、背中に重くのしかかるような疲れを感じながら酸っぱくなったコーヒーを飲んだ。

一息ついて携帯電話を開く。

画面には気持良さそうに寝ている陽太が写っていた。

親バカ?ははは、大いに結構。

一瞬で疲れとか苦痛とかを忘れさせてくれて、更に腹の奥底から湧き出るような無限の力を感じる。

何でも出来る。どんな苦労もいとわない。

まるで全身が強力なバリアーで覆われて悪漢の放つ機関銃の弾丸さえ跳ね返し、空でも飛べそうな気分になる。

恐らく、親父もお袋もこんな気持ちで野良仕事に精を出し、夜中でも明け方でも働いていたのだ。

そう。僕の為に。

時間が経たなければ分からないもの。経験を積まなければ分からないもの。大人にならなければ分からないもの。

そういったもの分かりはじめ、子供の特権というものがどれほど強大なもので、且つ知らないで育つ事の怖さを今更思い知った。

今、遙はどうしているだろうか。

窓ガラスに映る自分の顔を見ながらそう思った。

遙は僕より賢い人間だからきっと分かっているに違いない。

いや、ずっと前から分かっている。でも分かる事を恐れいるだけなのだ。

僕がその恐れを取り除く。しかし、遙は母親と向き合う準備は出来ているのだろうか。


二週間程前、木村さんから電話があった。

「退院して家に戻って来ました」

それまで望さんは肺炎をこじらせてまた入院をしていた。

僕はそのときも遙を連れ出そうとしたのだが陽太に添い寝をしている彼女を見たとき心が揺れ、迷い、「大丈夫ですよ。直ぐ退院できますから」という木村さんの言葉に甘えてしまった。

望さんは家に戻ってきても元には戻らなかった。

木村さんはそれ以来寝たきりになった望さんのために仕事を辞め、貯金を切り崩しながら生活をしていた。


僕はまた身体全身に鉛のような重い物を感じながら資料に手を差し伸べたとき携帯電話が鳴った。

画面に光る(木村さん)の文字に僕は嫌なものを感じて少し躊躇した。

「はい、古川です」

「すみません。木村です。今、お話して大丈夫ですか?」

「ええ、全然、かまいませんよ」

「そうですか・・・」

「おかあさん、具合はどうですか?」

「それが・・・」

その声はいつもよりも増して遠慮がちで、沈んでいた。

「この頃、何も食べようとしなんです。私の事を拒否するような仕草をして・・・。それにだんだん、何に対しても反応が無くなってきてまして、もう、もしかすると・・・」

僕は言葉に詰まり、上辺だけの労いの言葉を滑らした後、携帯電話を静かに折りたたんだ。

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