第16話

「丘」


あの人、木村さんは僕を怪訝な面持ちで見上げた。

「始めまして。古川健一郎といいます。遙さんと結婚することになって・・・、突然で済みません。挨拶に伺いました」

木村さんの顔が晴れて僕の手を握りながら立ち上がった。

「ああ、あなたが・・・。よくいらっしゃいました」

どうぞ、と言ってもう一つの椅子を差し出してくれた。

「ご覧の通りです。以前から認知症の症状がでていたんですが、骨折して寝たきりになってから益々重くなって、今では私の事も分からなくなることがありまして」

上半身だけ起きている遙の母は、窓の外を虚ろに眺めていて僕が来た事も分らないようであった。

「こうなる前に遙さんには望さんに会って欲しかったんですが、一ノ瀬の家を出てから住所が分らなくなりまして。私の責任なんです。全て私が悪いんです」

木村さんは両手を膝の上で絡ませながらうな垂れた。

「あの頃、仕事が忙しくて、転勤が急に決まりまして・・・。望さん、元の旦那さんが亡くなってから精神的にも不安定だったのでしょう、一瀬の家とも折が合わなかったらしく、私にすがるようについてきまして・・・」

その後平静を取り戻した遙の母は何度も何度も遙宛に手紙を出したが返信は無かったそうだ。

思い余った彼女は遙を迎えに一瀬の家に行ったが祖母ににべも無く酷い言葉を浴びせられ、諦めた。

「私がもう少しちゃんとしていたら、望さんの哀しみを全て理解していたら、こんなことにはならなかった。望さんへの思いは昔も今も変わりません。でもあの頃は自分の幸せしか考えてなかったんです。望さんが私の傍にいてくれたらそれでいいと・・・」

こけ細った頬と顎には白い無精髭が生え、瞳はどんよりと淀んでいてた。

二人の年齢は恐らく僕の両親と同じ位だろう。でも、とても疲れていて、とても哀しそうに見えた。

僕は道すがら買ってきたは菓子の折り詰めを木村さんに渡した後、そっと遙の母に話しかけた。

「こんにちは、気分はどうですか」

僕に気づいた彼女はゆっくり振り向いて優しく微笑み、頭を下げた。

「ああ、いつもいつも、ありがとうございます」

「あのう、私、古川健一郎といいます。遙さん、あなたの娘さんと、結婚したくて、その・・・」

「結婚・・・?」

「そうです。結婚です」

「あら、それはそれは、おめでとう」

僕はこめかみの辺りを掻きながら戸惑い、心が沈んだ。

「遙、あなたの子供、娘です」

「はるか・・・」

僕は懐から一緒に写っている写真を取り出して遙の母に見せた。

「あらら、こんなお奇麗な方と・・・あなた、幸せねぇ・・・」

中学生の遙とその後成長した遙の姿を重ね合す事が出来ないのかと思ったとき、彼女はその写真を息を殺して見詰めた。

「はるか・・・、はるか・・・」

名前を口にすると突然、瞳からぼろぼろと涙が溢れ出た。

「遙・・・、遙ちゃん・・・」

霞んでいた瞳ははっきりとした輪郭になり、木村さんの事も、僕の事も理解し、発する言葉に明確な意図を乗せていた。

「お願いします、どうか、お願いします、遙を、遙を、幸せにしてやってください」

遙の母は写真を胸に押し込めるようにして号泣した。

「遙、ごめんなさい・・・」


僕は、改めて後悔した。

遙が僕の事を恨んでも、憎んでも母親の元に連れて来るべきだった。

僕はやはり、駄目な男だ・・・。



「夕景」


健一郎さんは母との事をつぶさに教えてくれたけど、私はどういう態度をとったらいいのか分からず、ただ後ろを向いて床を見詰めていた。


それから一週間後、私と健一郎さんとで一ノ瀬の家に行った。

門の前には贔屓にしている生花店の車が止まっていて、私の姪にあたる美代子さんが店員を叱責していた。

どうやら花を取替えに来る日を間違えたらしく、店員は小さくなりながら必死に謝っていた。

「あら、遙さん、いらっしゃい。おばあちゃんお待ちかねよ」

私達に気づいた美代子さんは急に態度を変えた。

健一郎さんにも軽く会釈をした後呆れ返ったような口調で店員を追い返した。

玄関には豪華な白い蘭の花が咲いていた。

それはまるで正確に計算された工業製品のような美しさだった。


相変わらず来客には物腰が柔らかい祖母は健一郎さんを優しく迎えた。

「ごめんなさいね。せっかくお越しいただいたのに夫が留守なの。どうしても抜けられない会合があるとかで・・・。でも、ゆっくりしていって下さいね」

「いえ、おかまいなく。また何れご挨拶する機会があると思いますから」

健一郎さんは差し出された紅茶に口をつけた後徐に口を開いた。

「先週、入院している遙のお母さんに会いに行きました」

私以上に祖母は驚いた様子で口に運んだティーカップを止めた。

「遙宛に手紙が来ていたと思うのですが、ご存知ですか」

その行方についてはだいたい察しはついていたけれど祖母を責める気持ちは毛頭無かったし、知らないままにしておきたかった。

祖母はカップを受け皿に置くと目を瞑って思いつめたように喋り始めた。

「ええ、確かに望さんから遙宛に何通も来ていました」

「それは今お持ちですか」

祖母は大きく首を振った。

「いいえ。遙の目に付く前に全て処分しました」

部屋の中に思い空気が流れ、健一郎さんは鋭い目つきで続けざまに問いただした。

「どうしてですか」

「私はどうしても許せなかったのです。息子が可愛そうだとか、そういう事ではありません。一瀬にお世話になっていながら、遙を残して何処の馬の骨ともつかない男と姿をくらましたのですよ。私は残された遙を一ノ瀬の女として立派に育て上げようと私は誓いました。遙にとっては多少厳し過ぎたかもしれません。でも母親に対する未練を断ち切らすためにも手紙をどうしても見せたくなかったのです」

祖母は一息ついて更に続けた。

「でも、今では後悔しています。どういう酷い人間でも、親は親。そうですよね」

健一郎さんは手元のティーカップを見詰め、少し間を置いたあと頭を上げた。

「はい。そう、思います」

「遙。ごめんなさい。怨むのなら私を怨んでおくれ」

私はゆっくりと首を振り、いつの間にか弱弱しくなった祖母を見た。

「いいえ。もう、済んだことだから・・・」

そして私は背筋を伸ばし、改まって頭を下げた。

「おばあちゃん、今まで育ててくれて、本当にありがとう」

祖母は目尻に伝う涙をそっと拭った。


一瀬の家を出て暫く歩いていたとき、健一郎さんは大きく背伸びをして首の辺りを摩った。

「いやー、緊張した。やっぱりお前、お嬢さんだったんだな」

「なによ今更。バカにしてるの?」

健一郎さんは悪戯っぽく笑いながらタクシーを止めた。

「腹減ったよな」

「うん」

「じゃぁ、行くか」

「私、三色フライ定食」

「お嬢さんの言うことは違うね。普通八百四十円もする定食なんて頼まないよ」

「やっぱりバカにしてる!」

健一郎さんはまた大笑いして運転手に行き先を告げた。


近江屋のおかみさんは奇声を上げながら大喜びで私達を迎えてくれた。

そして次から次へと頼みもしない惣菜をカウンターに並べ、挙句の果てにはご主人もやってきてビールで乾杯した。

側にいた常連の人達が羨ましそうにおかみさん言う。

「いいなぁ。おかみさん。俺達にもサービスしてよ」

「何言ってんのよ。だったらあんた達も結婚しなさい」

「え!お二方ご結婚なさるんで。こりゃおめでたい!」

少し酔った健一郎さんは上機嫌でビールと惣菜の皿をお裾分けした。

「けんちゃん、甘やかしちゃだめよ」

「いいだろ。こんなに食いきれないし。それに、頼んだ分しか払わないぜ」

「バカね。あんたから貰うわけないでしょ。お祝いよ」

「そんな、おかみさん、そういうつもりで来たんじゃないんですよ」

私が恐縮しているとご主人が「なに遠慮してるんだよ」と言いながら店の暖簾を下げてしまった。

それから奥から日本酒を持って来て店の中にいる人達に注いだ後にご主人は祝辞を述べて改めて乾杯した。

ご主人もおかみさんも、健一郎さんもとても嬉しそうにお酒を飲んだ。そして私も。


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